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⒍ 人間界?




「シキ、大変だ。池の端に猫が倒れているよ」

「……あれは、猫なのですか? ずいぶんと丸っこ……いや、毛並みが珍しいですが」

「猫じゃなかったら何なんだい? 一体どこから入り込んだんだろう。しかもびしょ濡れだ」

「ルシア様、中庭に出てはなりません。お体に障ります」

「だけど、さっきからあの猫全く動いていないよ。あれではあまりにも可哀想だ」

「ルシア様!」


 足音が近づいて来る。

 しかし私の体は鉛のように重くて、目を開くことすらも難しかった。嗅いだことない匂いがずっと鼻孔にこびり付いてきて、ざわざわと胸騒ぎが止まらない。



「やはり猫だよ。ああ可哀想に、震えているね。誤って池に入ってしまったのかい?」


 いい匂いがした。

 甘く優しい声に反応した耳がぴくんと動いて、それから体の側面が暖かい温度に包まれた。ゆっくりと私は持ち上げられているのだと察する。


 人の姿……父上?

 やっとの思いで片目を薄く開けると、私の視界には確かに人の顔が映りこんでいた。父上のように綺麗な顔が太陽の光に照らされてキラキラとして見える。

 でも、おかしいな。

 父上の髪の毛はとても長いのに、今見ている人は襟首までの髪の長さしかない。しかもこの髪は透き通るような銀色だ。


 父上じゃない別の人だ。

 ……え? 父上じゃない別の人?


 普段精霊界で男の……青年の姿をした精霊など、父上しかいないはずなのに。また人間界から精霊が来たのだろうか。でもおかしいな、匂いに違和感がある。

 これは精霊独特の匂いじゃなくて、そう、泉の滝で水の精霊からほのかに漂っていた――人間のにおい。


「……ニィ」


 私は「だれ?」と言葉にしたつもりだったが、口からは弱々しい鳴き声が出た。それが聞こえたのか、私を抱く青年がこちらを覗き込んでくる。


「よかった、生きてる」


 透明感のある鮮やかなエメラルドグリーンの双眼に、ふわりと柔らかな光が灯った。

 綺麗な緑色は、父上の涼やかなキトンブルーとは全くの別物で、私の中に徐々に混乱が生まれ始める。


 父上じゃない、父上じゃない……!

 怖くなった私の体が小刻みに震えている。

 しかし青年は寒さで震えているのだと勘違いしたらしく、遠くに向かって「火の用意を」と誰かに指示を出していた。


 私の意思に反してまぶたはまた閉じられていく。

 銀色の髪を靡かせた青年は何度もこちらに言葉をかけていたけれど、いつの間にか私の意識は深い奥底に沈んでしまったのだった。




 ━┈┈━┈┈━



 なんだか体がポカポカする。

 あれ、私は今まで何をしていたんだっけ。

 そうだ。泉の滝で水の精霊と話をして、神殿に帰ろうとしていたんだ。


 そう思いながらゆっくりとまぶたを持ち上げた私の体は、徐々に硬直していく。


 ここ、どこ……?


 目の前には小さな火鉢のような物が置かれている。私はそれの近くにいて、繊維の細そうな布の上に乗って身を丸くさせていた。


 恐る恐る首をあげる。

 目線を左右に動かすと、広い室内の風景が目に飛び込んできた。精霊界ではまず見ることのなかった造りをした部屋を、覚醒し始めた頭でキョロキョロと確認する。


 如何にも上質そうなテーブルや椅子、ベッドといった家具たち。ソファや繊細そうな作りの本棚が並び、床全体は絨毯で覆われている。

 大きい、目に映るものすべてが巨大である。

 自分の体の何倍も大きい家具の威圧感で、目が回りそう。


 何となく既視感を覚えるのは、私が前世の記憶を有しているからなのかもしれない。

 この空間は人間が暮らすために揃えられた家具たちで埋め尽くされている。主に自然に宿る精霊には必要がない数々の品。

 ……海外映画で題材にされたヨーロッパ王室の部屋のようだ。そう感じながらも、なぜ私は見知らぬ部屋で眠っていたんだろうと疑問が湧いてきた。

 だってこれでは、ここに人間が暮らしているみたいじゃないか。



 私はひっそりと腰を低くしながら身を起こそうとする。起き上がって神経を研ぎ澄ませると、余計に知らない匂いが鼻の奥を伝った。


「――――うん? ああ、目が覚めたんだね」

「!?」


 そーっと、床に敷かれた布から絨毯に足裏が触れようとしていた時、突然落ち着き払った声が室内に響き渡った。

 ビョン! 

 体全体が大きく跳ね上がり、足裏が数秒間だけ浮いた。傍から見たらカエルのような跳躍をしたかもしれない。していなくても私はそれくらい驚いている。

 しかし目を上に向けた瞬間、私の身にはそれ以上の驚きが襲いかかったのだった。



「そんなに高く飛び跳ねて、ふふ。驚かせてしまったね」


 目線が低すぎて見えていなかったが、ソファには1人の青年が腰を掛けていた。片手で本を持ちながら、私の方を見つめてくすりと笑みを浮かべている。

 銀色の髪と、エメラルドグリーンの瞳……夢で見た青年と同じだと思っていたけれど、私の体が抱えられていたアレは夢じゃなかったんだ。


 ……っ、やっぱり人間だ! なんで!

 生まれ変わって初めて目にした人間。前世で自分自身が人間だったからか、こちらを見つめている青年が人間であるとすぐに区別できた。

 私はさっきまで水の精霊と話していて、泉の滝の岸辺にいたはずだった。そこからの記憶が若干曖昧になっている。


 そういえば、どうして体がしっとりと湿っているんだろう。いつもの艶のあるふわっとした毛並みが、水分を含んで少しだけ硬い質感になっている。


 そこでようやく思い出した。

 私は風の妖精の小さな竜巻に押されて、泉に体まるまるドボンしてしまったのだと。



「動かない……どうしたんだろう」


 ソファの軋む音が聞こえ、銀髪の青年はこちらに近づこうとしていた。私が石のように停止していたから不思議に思ったんだろうけど。


 うわうわ! こっち来ないでよー!

 銀髪の青年がこっちに来ようとすると、私の体は勝手に反応して後ずさっていく。ヒクヒクと耳が前後に揺れ、尻尾はピンと立っていた。見知らぬ部屋で、見ず知らずの人間が傍にいるのに加え、私の精霊としての……この体の動物的本能が働いてしまったようで、警戒心が内側からメラメラと燃え上がってしまっている。


 フーッという、威嚇した声が私の口から漏れ始めると、銀髪の青年は困ったような顔をして笑った。


「そんなに怖いかな……」


 違うんだよ! 近づかれると勝手に体が逃げたくなっちゃうの! 嗅いだことない匂いに包まれてるから落ち着かないのだ。


 目の前の銀髪の青年、そしてこの室内の造り。

 ここは明らかに精霊界ではない……となると。

 ……え? ええ?


「おいで、まだ毛が乾いていないよ」


 銀髪の青年はその場にしゃがみ込むと、そっと手のひらを差し出してきた。細長く女性のように綺麗な指が「こっちにおいで」と告げているが、そうやすやすと行くほど私の尻は簡単にあがらない。

 銀髪の青年は私を心配しているのだろうが、状況が状況なので混乱が増すばかりである。


「困ったな……風邪を引いてしまう」

「ルシア様、失礼します」


 ジリジリと後退していると、いきなり後ろから大きな気配を感じた。

 首をひねって確かめると、扉を開けて入ってこようとする男の姿があった。しかし、扉の奥は暗闇に包まれていて、私がしっかり見えたのは男の人の下半身だけだった。


 その下半身というのが問題で、目を凝らすとその腰には剣のような刀のような形をした二本の鞘が収まっていたのだ。それが妙に迫力があり、恐怖が煽られた私はワタワタと不細工に四本足を動かして近くにあったベッドの下へと逃げ込んだ。


「……? 今、足元に毛の塊が」

「猫だよ。先ほど目が覚めたばかりなんだけどね。シキに驚いてベッドの下に逃げてしまったようだ」

「失礼しました。しかし、踏まなくてよかったです」

「この子、動きが俊敏なのかな。ああ、用意してくれたんだね」

「はい。何を口にするのか分からなかったので、食べそうなものを料理長に見繕ってもらいました。それよりルシア様……なぜベッドから出ているんです?」


 ベッドの下に潜んだ私は、繰り広げられる会話を聞き取りながら何か情報は得られないか耳を必死に澄ませた。新たに部屋に入って来た男は、銀髪の青年に敬うような口調で話を進めていた。

 コツコツと革の靴音が絨毯に染み込んでいく。それなのに私の方まで振動が伝わってくるようだった。



「あの猫の眠っている姿が可愛くてね。普段はあまり見れないから勿体ないと思ったんだ」

「ですが、あまり近寄ると咳が……」

「いいや、僕も不思議だったんだけどね。あの子にいくら近寄っても全く大丈夫だったんだよ」


 いくら近寄ってもって、どんだけ近寄ったの?


「偶然かもしれません。くれぐれも気を付けてください……本当に」

「ふふ、分かっているよ。さて、この子はお気に召してくれるかな」



 1人がベッドの脇に歩いて来る。

 おそらく『ルシア様』と呼ばれていた銀髪の青年だ。彼はベッドの脇のすぐ下にコトンと白い皿を置く。皿の中身は湯気を立てた白いスープのようだ。


「あれだけ濡れていたのだから、池に落ちてしまったんだろうね。温かいミルクで体を暖めてもらいたいけど」

「……出てくる気配がないですね」

「体力も落ちているだろうに。口にしてくれるとありがたいんだけどな」

「警戒しているんでしょうね。やはり野良猫ですか」

「野良猫にしては毛並みが良さそうだけど」


 話の流れからして、私は池に落ちていたということだろうか。毛が湿っているから彼らの言う通り濡れていたんだろうけれど。

 池に落ちた……何となくだが覚えがないわけでもない。確かに私は泉の滝に落ちたのだ。父上に花をあげようと綺麗に咲いていた青い花を拝借しようとして、風の妖精の竜巻の圧力でお尻が浮いてそのまま入水。


 つまり、池の中で転移術が発動して、人間界に来ちゃったってこと?


 ガリガリ、ガリガリと当てつけにその場で絨毯を引っ掻く。全然だめ。全く気持ちの整理できない。

 だって私は精霊界の中の短い範囲しか転移術が使えないのだから。


「シキ、このガリガリってなんの音?」

「猫の爪研ぎでは?」


 爪なんて研いでないもん!

 そう反論して「ニャアア……」と低く威嚇の声で鳴いたのだが、銀髪の青年は「あっ、鳴いた。こっちおいで」と懲りずに手を差し伸べてくるので、私はより奥へと身を隠した。


「駄目みたいだ」

「そろそろ就寝のお時間です。今日のところは部屋を移しましょう」

「いいや、ここで寝るよ。この子も心細いだろう?」

「流石にそれはなりませんよ。絶対に清潔を保った場所でないと」

「……枕が変わると寝られないから」

 「枕も一緒に移動させてはいかがですが」

「…………」



 何やら言い合いをしている。

 ここで寝るとか寝ないとか、私としては知らない匂いが近くにあるのは落ち着かないし、ちょっと心を穏やかにしたいから1人になりたい。

 というかベッドの下から脱出したとしても、まずここが人間界ならどうやって精霊界に戻ればいいの?


 先ほどから何度も「父上父上父上」と思い浮かべているのに、一向に膝の上には転移しない。やはり少し気持ちを落ち着ける必要がある。


 ……ううう、父上ぇ。

 あほって言ってごめんなさい……。



「シキ、命令って言えば分かってくれる?」

「……あなたという人は、子どもですか」

「ごめん。でも、なんだか放っておけないから」

「……念のため、薬室で薬を頂いてきます」


 父上に「あほ」と言い逃げしたことの天罰だと本気で後悔し始める私をよそに、気配が一つ部屋から消えた。たぶん『シキ』って人が出て行ったんだ。


 シキがいなくなったことにより、室内には沈黙が訪れていた。ベッドのすぐ近くに気配を感じる。部屋に残ったルシアという人間が私の出方を窺っているのかもしれない。

 もう、今は本当にほうって置いてください。人の部屋のベッドの下に潜り込んでおいて何て言い草だろうとも思うが、今は精霊3年目の自分の意志が前に出てきてしまっていた。



「……君のために用意してもらったんだ。僕はもう休むから、安心して食べておくれ」


 自分の思いが通じたのか定かではないが、ルシアはそう優しげな声音で私に言い聞かせると、そっと立ち上がり、そのままベッドに体を預けたようだった。


 ギシリと、一度だけ木の軋む音が聞こえてきたが、そこからはいくら経っても何の音も耳に入ってこない。本当に寝てしまったようだった。


「……!」


 駄目。精霊界に戻れない。

 今はそれが心細くて、私はより身を縮ませる。

 とりあえずベッドの下にいる間は安全だと思う。なんだがこのベッド、キングサイズ並に大きいし、手を伸ばしたくらいじゃ奥まで届かないから。


 ……ちょっと、疲れちゃった。

 そう思った途端、睡魔が一気に襲ってきた。

 萎むように耳のトンガリ部分が下がってくる。これは一種の心労の表れなのだ。


 今は眠っちゃダメだ……眠っちゃ。しかしカクンと顎が前足の上に乗ってしまった。余計に眠くなる格好である。



「……くぁ」


 堪らずあくびがこぼれた。


 本当にベッドの上にいる青年が寝ているのか分からないし、少しだけ様子を見よう。

 うん。10分ぐらい経ってからの方がいい。

 念の為にね? それから周囲を詮索して……うん、10分だけ……じゅ…………すやぁ。










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