11. 帰りたい
熊のように大きな図体をした男は、私とテトを見下ろしてニカッと白い歯を見せた。
もじゃもじゃとした腕毛や、顔を覆った髭も相まって本物の熊なんじゃないかと錯覚しそうになる。白い布を頭に被ったその風貌は何となく親しみのある八百屋のおっちゃんを連想させるが、迫力が強いため私はビビってテトの後ろに隠れた。
テトも私と同じ大きさなのであまり意味はない。でも何もないよりは幾分マシである。
「なんだあ? 猫坊主のガールフレンドは怖がりなのか!」
『まあねー』
そう答えるテト。ガールフレンドちがう。
私にはしっかりと言葉に聞こえるが、この熊のおじさんには全部「にゃあ」と猫が鳴いてちるようにしか聞こえていないようである。
テトは人間に慣れているようだった。
熊のおじさんもテトと顔見知りなのか追い払ったりはしない。テトの頭にぽんぽんと手を置くと、片方の手をズボンのポケットに突っ込んでジャーキーを取り出した。
「ほらよ、おやつだ。夕方になったらまた売れ残りの魚も引き取りに来るんだぞ!」
『やったー』
テトは熊のおじさんの手からジャーキーを口で受け取る。こおばしい匂いがこちらまで漂ってきた。思わず尻尾を揺らしてしまう。
「猫娘も食うか! 遠慮すんな!」
すっかり私は雌だと思われているようだ。雌なんだけどさ。確かめずに断言してるんだもんな熊おじさん。まあ、だからって確かめられても困るけど……。
ほらほらと熊おじさんは私の目前でジャーキーを揺らし始める。隣にはテトの美味しそうに頬張った顔があった。危なくない食べ物なのは匂いでわかるけれど、会ったばかりの人間から差し出された物に警戒してしまうのは動物の性なのだろうか。
『おいしい』
頬張るテト。
美味しそう。食べたい。いいかな。
いやいや待って、くれるのは熊だよ。大丈夫なのかな。
『もぐもぐ』
躊躇する私を、見かねたテトが安全であることを示すように食べかけのジャーキーを見せつけてくる。……美味しそう。
次第に鼻がフンフンと動き始めた。
テトからゆっくりと離れ、私は熊おじさんの持つジャーキーが口から受け取れる距離まで縮める。よく見たらこの熊、目尻が垂れていてとても優しそうな顔をしていた。髭のインパクトが強すぎて今さらながら気づいたのだ。
『食べないなら、テトが食べちゃう』
『!?』
『あー』
自分のを食べ終わったテトが口を開けてジャーキーを取ろうとした。その瞬間、私の目がカッと開かれる。
「はぐっ」
「がっはっは、勢いがいいな!」
テトに取られる前に、私は俊敏な動きでジャーキーにかぶりついていた。果実やスープとはまた違った美味しさが口の中に広がる。
美味しい。幸せかもしれない。
懸命にジャーキーを噛み砕くその横で、テトは自分の前足を舐めながら私の食事が終わるのを待っているようだった。
あれ? もしかして、初めから私に食べさせるつもりだったのかな。
横目でテトの様子を窺う。
よく分からないけど、テトは満足そうな顔で自分の前足を舐め続けていた。
━┈┈━┈┈━
私がジャーキーを食べ終わると、テトは熊おじさんに「またねー」と鳴いて人通りの多い方向へと歩き始めた。
『テト、まって。聞きたいことがあるから!』
『なにー』
そう言いながらも歩みを止めようとはしないテト。何となく分かってきた。この白猫はものすごくマイペースなんだと。
広がったフワッフワの白い尻尾を見失わないように追いかける。器用に通りを進んで行くテトは、周りの人間に臆した様子もない。周りには道を行き交う人間たちがいるのだが、頼みの綱を逃がすまいと必死な私は恐怖を感じていなかった。
人間たちも、二匹の猫が縦に並んで歩く様を見て破顔させているだけだ。
『……ひ、ひどい。待ってって言ってるのに』
『はい、ここ。レイレイ見てみて』
結局、テトが止まってくれたのは彼の目的地に着いてからだった。そこは大きな広場のような場所で、人の数は多いがそれよりも広さの方が勝っているのでごちゃごちゃした印象はない。
あまり長い距離を走ったわけではないのに、気疲れからか息が切れてしまう。どうやら私を巻こうとして歩みを止めなかったわけではないらしいテトは、ちょんと座って視線を上に向けた。
私も釣られて顔をあげる。
『オールランド王国って書いてあんの』
『オールランド、王国……?』
『うんうん、レイレイ迷子だからー。これ見たら帰り道わかる』
テトが連れてきてくれたのは、巨大な地図案内板の前だった。『オールランド王国 王都』と書かれているということは、ここがオールランドという国の王都なんだろう。
……オールランド王国。どこかで聞いたことあるような気もするけど……やっぱりわかんない。
場所を把握すればどうにかなるかもしれないって思っていたけれど、私はずっと無知であった。むしろ、国の名前を知ったことによってより心細さを感じてしまった。
人間界は懐かしいと思う。
前世が人間だったから。
でも、ここは日本じゃない。まるっきり異世界である。そんなの理解していたはずなのに、どうしてか今になって寂しさが押し寄せてしまった。
精霊界ではひとりだったけれど、父上に構ってもらえなかったけれど、こんな心細い寂しいは感じたことがなかった。
「構って構って! 寂しいよ!」とはいつも思ったけれど、今の寂しいとは全然違うのだ。
そうだ、人間界は。
――父上の加護を、感じないんだ。
精霊界にいたときは気づきもしなかったことに今さら気づいてしまい、私の心臓がきゅっと音を立てた。
『ひっ、ぐ』
『レイレイ? 地図よめない?』
『これじゃ、わかんない。帰り道、わかんない』
『……レイレイ?』
『ちち、うえ……ひぐ、父上、ごめんなさいいい』
ポロポロと瞳から涙がこぼれる。
最初は「ひんひん」と抑えていたのだが、そのうち堪えきれず「わーんわーん」と泣き出した私にさすがのマイペーステトもギョッとしていた。
猫って、ていうか精霊って泣けるんだ。そう思いながらも、精霊生まれ3歳の私は父上恋しさに泣いて鳴いた。
困ったテトは自分の尻尾を顔に押し付けてくる。
思っていた通りふわふわで、あたたかいお日様の香りがした。
でも今嗅ぎたいのは、この匂いじゃないのだ。
ごめんなさい。ごめんなさい。
父上本当にごめんなさい。
父上、守ってくれてたんだね。
もうわがまま言わないから、言う事聞くから。
『びぇぇえええ』
――いますぐ父上の膝の上に帰りたい。




