その最後
ニッコリと笑って雨音さんは言った。どこか寂しそうなその瞳に俺は思わず苦笑いをする。
傘が目の目でクルリと回される。笑顔の雨音さんが俺を見る。どこか夢のようなその光景を俺はとても美しいと思った。
「山田君は見事、私に告白するという勇気を持つことが出来て、自分の思考の癖から抜け出せましたとさ」
「……雨音さんはどうなんですか?」
「どうって……。 どうもしないさ」
「雨音さんはずっと演じたままなんですか……」
「そうかもね、だから助けてもらいたかった、王子様に。 本当の自分を見つけてくれる王子様に」
くすっと笑いながら、彼女は空を仰ぐ。傘の隙間から滴り落ちる雨粒が、絹のように白い肌を撫でた。
「王子様なんかじゃなくて、同類が来ちゃったからね。 だから、実験していたの。 山田君みたいな人が変わることが出来るのかどうか」
懺悔するかのように目の前の女性は俺に語る。俺に何を求めてこんなことを話しているのか俺には想像もつかない。しかし、これは俺がいつもやっているような損得勘定抜きの言葉なのだろう。今までの俺ならば彼女に対して、何も言えなかった。今だって何を言えばいいのか、何も浮かんでこない。だけれども、俺は何かを言うべきなのだ。
「だったら、俺があなたを助けます。 俺が本当のあなたを見つけて見せます。 だから――」
言いかけた言葉は暗い目によって遮られる。ずっと、俺が鏡で見続けてきたようなどんよりと曇った眼だ。
「駄目だよ、川蝉雨音と君とで上手くいっても、私と君とではうまくいかない。 似ているからこそ……ね」
「だって、そんな」
必死で脳内を回転させる。何か言えることを考える。なにか、彼女の中を劇的に変える言葉を。俺が言われたように、彼女にも響く言葉を。
しかし、悲劇にも、彼女は俺の言葉を待ってはくれない。彼女は黙って俺の横を通り過ぎていく。赤い傘が水を弾いていくのを。柔らかい土に、彼女の足がつけられていくのを、俺は無言で見送るしかなかった。
ふと、思う。青春を謳歌するあちら側、窮屈で暗くジメジメとしたこちら側、一体何が基準で区別されるのだろうか。その、ずっと探していた答えを今の俺ならはっきり言えた。
きっとそれは、本気で人と、真正面から向かい合ったことがあるかどうかだ。
俺は赤いその傘を、大声で呼び止めた。
「待って!」
ピタリと動きを留めたその人影に俺はさらに叫ぶのだ。
「いつか、いつか必ず、川蝉雨音を壊しに行きます! そして、きっと、あなたに会いに行きます! だから、だから……。 待っててください!」
心の底から、仮面の中へと届くように俺は精一杯叫んだ。あなたに伝わるように、いまだ姿を見たことのない、あなたに伝わるように。
あぁ、雨よ、もっと降れ。彼女の全てを洗い流してくれ。
雲の切れ間から差し込んでくる光が俺と彼女を照らした。公園を流れる水はその勢いが衰えはじめ、土の上に水たまりを作る。
離れた場所にいる雨音さんは、ゆっくりと傘を閉じ、こちらを振り向く。
サラサラの黒髪が少しだけ揺れ、ワンピースの裾がひらりと宙で舞う。少し垂れ気味な目元から流れる水滴はきっと雨で、豪雨であること俺は祈る。赤い唇から真っ白な歯がその姿を見せ、水泡が隙間から漏れ始めた。
「……ありがと、きっと、待っているから」
涙とは裏腹に、嬉しそうなその笑顔を俺はすごく美しいと思った。そして、この笑顔は本物であればいいな、と俺は思う。
照れたように、彼女は背中を向け、道の先へと駆けはじめる。どんどん小さくなっていくその背中を、俺は無言で見つめていた。
彼女が去って行ったあと、俺は空を見ていた。生乾きのシャツも、びしょびしょの進路調査票も、特別気にならなかった。
ただ、空に馳せる思いは全て未来についてのことである。
晩冬の空は澄み切った青である。どことなく空が近く感じ、遠くの山々までも眺めることが出来る。
あの夏の、あの彼女との、ひと時の体験。あのおかげで、山田は変わることが出来た。しかし、それは内面的なことであり、外面的なことではない。幼いころからの知り合いである博は彼を変わったと評価するが、クラス内での山田の立ち位置は全く変わってない。彼の中で変わったものを上げるとすれば、あちら側に対する劣等感が薄れたということであろう。
「山っちゃん、もう帰る?」
短い髪を掻きながら、博が山田に呼びかけた。結局、彼は髪を短くしたままであった。
「……帰るけど、博は舞彩と一緒に帰らなくてもいいのか?」
山田が笑いながら言うと、彼の顔はゆでだこの様に真っ赤になった。
「いいんだよ、舞彩は今日塾だからさ」
「ふーん、そういうものなんだな」
照れながらも言う彼に対して、山田はケラケラと笑った。
ふと彼の視界に入る空は、いつの間にかどんよりと暗くなっており、帰路につく生徒たちに雨の気配を感じさせた。
「山っちゃんはいいよね、もう大学決まっててさ」
「まぁな、頑張ったからな」
「見習わないとなー」
そんなありふれたやり取りをしながら、山田たちは学校の外へと出る。どこか遠くの方で鳴る雷鳴の音が、空に線を描く。それを確認した山田は靴紐がきちんとしまっているかどうかをチェックし始めた。
「冬だってのに雨――通り雨が来そう……」
「博、冬の通り雨ってさ、時雨っていうんだぜ」
ふーんっと笑う彼に、彼は一言、用事があると言って、通学路を駆け抜けていった。視界の端で博が山田を呼び止めようとしていたのを山田は見えていたが、そのことで止まる山田ではなかった。なぜなら、彼は今日みたいに雨が降る日を待ち望んでいたからだ。
ゆっくりと歩く学生服の集団を尻目に彼はどんどんと目的地へと向かっていく。急がなくてはならない。いつ雨が降り始め、やむかわからないからだ。
そして、そうやって走っているうちにポツリポツリと頬に雨が当たっていくのを彼は感じた。雨が目的であったとしても、冬にびしょ濡れになるのは悲惨なものだ。山田は足を動かす速度を一段階上げる。そのおかげか、公園にたどり着いた時には彼の頭は少し濡れている程度で済んだ。
彼は息を整えながら、屋根の下へと入った。冬の通り雨は夏ほどの勢いがないが、その分気温を一気に下げるものだ。山田はポッケに手を突っ込んだ。
この公園の風景はあの頃とは違ったように山田には見えた。もちろん季節が違うわけであり、彼の身長が少し伸びたことも関係していたが、一番大きな要因としては彼の心境の思考の変化だろう。否定をしなくなり、彼の考え方は前向きになった。
「あれから一年半か……」
呟いた言葉は、空気の中で白く染まり、空へと溶けていく。いつの間にか雨は、雪へと変化していた。
「なーにセンチメンタっているのだ? 少年よ」
後ろから、優しくて、温かみのある声が山田にかけられた。それを待っていたかのように彼は振り返り、ニッコリと笑った。
「お待たせしました、あなたを壊しに来ました」
ポケットの中で温めていた手を、彼は声の主に向かって差し出す。そして、その手が冷めるぐらいの時間が経ってから、赤い手袋が彼の手を包むのだった。
「――遅いよ、山田君」
おしまい




