その5
***
山っちゃん、山っちゃん、と俺の名前を人なつこく呼ぶ声が思考の端で聞こえた。鬱々と灰色に染め上げられた空から、俺の意識は教室の中へと舞い戻る。
俺の目の前には浅黒く日焼けした博の顔があって、空をみている間にホームルームが終わってしまった事を理解した。
「明日、進路希望調査表、提出だってさ。 本当にどうしよう、僕何も決めていないよ
」
深刻そうな顔ぶりの彼に対して俺はヘラリと笑いかける。
「俺に相談するよりもあいつに相談した方がいいんじゃないか」
窓際の席からはこちらをうかがっている楫浜の姿がよく見えた。
「また、山っちゃんは茶化すんだからさ」
「まぁ。実際のところ、進学でいいんじゃないのか。 お前、そんなに成績悪くないだろ?」
「そうだけどさ、どこの大学に行きたいとかさ、どこの学部だとかさ」
「そんなのはどこでもいいんじゃないのか、とりあえずこの学校の中で一番志望率が高いところとかで」
帰り支度を整えながら俺はチラリと空を見る。今にも降り出しそうな曇天を見て、俺の心は高ぶった。
博は俺の顔をマジマジと見てふっと笑った。
「山っちゃん、変わったね」
「変わった? 俺が?」
「変わったよ、人当たりが良くなった」
それは変わったというのだろうか。
しかし、幼少の頃からの付き合いである彼が変わったというのであれば、確かに変わったのだろう。変わったとしたら、多分彼女が原因である。人当たりのよく、面白おかしく生きている彼女。まじめな話、俺は彼女に憧れているのである。恋愛的な話でも、人間的な話でも。
彼女の一言によって俺はずいぶんと励まされた。いや、逃げ道を作ってくれた。
「そろそろ部活、行かないとヤバいんじゃないか?」
「うーん、でもあまり行きたくないかな」
「そんなにあいつが嫌なのか」
「嫌じゃないんだけど、まっすぐすぎて困るっていうか」
「幸せな悩みだな」
進路希望表にうんうん言いながら、進学と書き加えた博に別れを告げると、俺は学校を後にした。
肌で感じる空気の湿り気が今の俺には嬉しかった。雨が降って、公園で雨宿りをすれば彼女に会う事ができるのだ。
多分、俺は彼女の事が好きなのであろう。本気で誰かを好きになるような、今までの俺になかったことが俺を変えたのだ。彼女は俺を変えてくれる。導いてくれる。決めてくれる。楽なのである。彼女が俺の中にいると、俺は安定するのである。
雨の中、俺は時計を何度も確認した。最初のころから比べると多少針は進んでいたが、彼女の姿は全く持って見えなかった。今日は来ないつもりだろうか、少しだけ不安に思う。雨が降ればいつも、彼女が雨宿りしているわけではない、そんなことは頭の中ではきちんと理解している。だけれども、雨の日なのに彼女がここにいないという事実が俺の心をひきつらせた。
がさりと、後ろで物音が立つのがわかった。猫か何かだろうと思い、俺は振り向こうと思わなかった。
「まーた、何かお悩みかね少年」
ふわりとした甘い匂いと共に、優しげな温かみのある声が、俺の上から降り注いだ。先程の物音は彼女だったらしい。
「遅かったですね」
意識とは裏腹に不機嫌そうな声が出た。俺はいったいどうしたのだろうか。
雨音さんは俺がそんな調子でもおかまいなしと言ったようにふわりと笑ってみせる。
「そりゃそうだよ、雨の日がいつも暇ってわけじゃないのだよ」
なんたって、花の女子大生だからね、と傘を持ったままクルリとまわって見せた。スカートが宙に上がり、きめ細かく汚れのない白い太ももがこちらを覗いた。
目が奪われる。雨粒が赤い傘によってはじかれる様や。軽やかなショートボブが楽しげに揺れる様。笑顔。ピンク色で、健康的な唇。キラキラと煌めくその黒い瞳。すべてが美しかった。綺麗な物の相乗効果で、心から彼女に、その風景に見とれた。ぐうの音もでなかった。俺は彼女に惚れているのだ、確実に。
「おやー、この雨音お姉さんに見とれちゃったかな?」
ケラケラと挑戦的に雨音さんは笑う。その眼は俺の目をジッと見つめてきたので、俺はそれを躱すために視線を落とした。
「はいはい、見とれましたよ」
「ほら、言ってみなさい。 雨音さん蕩れーって」
「……なんですか、それ」
「萌えの最上級よ」
「アメリカンジョークですか?」
「いいえ、千葉リアンジョークよ」
「アメリカでもイタリアでもないですけど、千葉でもないですよ、ここ」
俺はうすら笑いをしながらため息をつく。彼女のこういう一面に何度も呆れさせられたが、嫌いではない。むしろ好きと言っていいだろう。安心するのだ。
ふと、雨音さんの黒く大きい瞳が俺の眼を見つめた。彼女が髪をかき上げるしぐさに、胸がドキリと音を立てる。
「宿題ちゃんとやってきた?」
「……まぁ、一応」
――そう、一応である。俺が出した答えは理論的なものでも、形式的なものでもない。もっと主観的で情動的なものだった。だから彼女に受け入れられるかそれが心配だった。
俺は震えた声で告げる。
「俺、雨音さんと同じ学校に行きたいなって思って」
彼女に向かってはにかんで見せる。俺がそう言うと、雨音さんは笑うだろうと、茶化すだろうと思っていた。しかし、俺の目の前の彼女の顔はまるで何も感じていないかのように無表情だったのだ。
「山田君、それってさ、『逃げ』なんだと私は思うな」
彼女は顔色一つ変えずに言った。その眼の焦点は間違いなく俺へと向かっているのに、どこか遠くを映しているように見えた。そうどこか遠くの雲や、空を。
「逃げと成長は違うよ。 山田君は自分からも逃げようとしているんだよ」
「……まるで分っているように言うんですね、僕のこと」
「似ているからね。 それに君の思考の癖は単純だよ。 ただの臆病なのさ」
きれいな彼女が俺のことを語る。自分で決めた自分を否定する。息を吸うと、粘り気のある湿った空気で喉奥が絡まっていくような気がした。
「臆病ですか、確かにそうかもしれませんね。でも、俺は、やっと……」
「やっと?」
「進めたと思ったのに」
「進んだと思っても戻ってるのかもしれないよ。 どうせ、どこに行きたいのかも、行けばいいのかもわからないんでしょ? だから、私を頼りたいのでしょ?」
そう、うっすらと微笑を浮かべて雨音さんは言う。今まで見せたことのない彼女に俺は心底恐怖した。人は知らないものが怖いのだ。
知らないものは怖い、知っていても怖い。だから、人は他人にレッテルを貼る。メッキを塗る。そうして、貼られたそれが剥がれないようにと、必死に演じるのだ。ようやく、俺は彼女の言う『演じる』ということを理解したんだと、この瞬間思った。彼女はずっと演じていたのだ。。
「黙っている事は放棄することと一緒だよ」
「俺は、俺は……」
彼女はこの前、興味があることを用意しておいてね、と言った。俺はきちんと用意してこの場所へと来た。俺が興味を持てたこと、それは彼女自身のことだ。
しかし、それを彼女に伝えること、それは告白と同義ではないのか?
俺が彼女を好きになる。それは別に個々人の自由だ。だけれども、その気持ちを伝えることは違う。誰かに自分の気持ちを押し付ける。それは関係性を変える。誰かから誰かへの気持ちを変える。雨宿りするだけの関係性、俺は今のこの関係性のままで満足していた。
満足して、もっとそれが長く続けられるようにと、彼女の大学に行きたいと思った。
彼女に好きと伝える。それでどうなる。可能性なんてないに等しいのに。それに振られて、ここで心の安定剤を失えば、俺はまた灰色人間へと舞い戻ることになるだろう。何がどう動こうと、今ここで俺が何かを言うメリットなどはない。
「山田君はさ、なにがそんなに怖いの? 勇気を持てないこと? ……これは持論なんだけどね、人間は一度変わってしまえば中々元には戻れないらしいよ」
甘く辛辣な言葉が俺の脳内で反響する。変わって、俺はどうしたいのか。変わりたいのか。変わりたいだろう。変わる勇気、それが俺には必要なのか。
「俺は……もう帰ります」
やっと絞り出せた言葉はその一言だけだった。鞄をもってベンチの外へと俺は逃げ出した。笑顔の彼女が怖かった。彼女が言うとおりに進めば安心できるのだと、感じていたのに、俺は彼女が暗に進めるように変わることが怖く感じた。――いや、怖かったのは変わることではないのだ。俺は彼女が彼女を一貫していないことが怖いのだ。
空は幼い子供のように大泣きで、蒸し暑い天気に、冷たい雨は心地よく感じた。
「また逃げるんだ!」
後ろから彼女の声が追ってくる。俺は足を止めて、叫ぶのだ。
「逃げてない!」
「逃げれば楽だよね! 逃げていればずっと負けなくて済むものね! 現実見なくていいものね!」
雨が、傘をはじく音がする。パラパラと雨が降るのだ。
雨は良い。雨に打たれていると心の奥底からすっと冷えていくような感じがする。頭にこびりついた汚れを綺麗に落としてくれる気がする。
雨音さんの声は、俺にとっての雨だ。逃げるのは負けたくないから。負けるのはかっこよくないから。メリットのないことはしない。意味がないから。なんてつまらない生き方だろう。すべて、自分のためにはならないと否定して、全部否定して、結局何もしないのだ。本気にならないのだ。
そんな自分を俺は恥じたいと思った。そして恥じると同時に、いつも見ていたあちら側の世界へ俺は行きたいと、そう思ったのだ。
俺は振り向いて、傘を差した彼女に言う。
「好きだ、雨音さんのことが好きだ。 あなたに興味を持っている。 だから、雨音さんと同じ大学に行きたいと思ったんだ」
目と目が合う。黒色の光のない目と俺の眼は交差する。雨粒だけがその間に降りしきる。
「うん、合格だね……」




