その2
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世間一般では『初夏』と呼ばれる季節に入った。しかし、雨模様はまだ彼らの周りを漂う。いや、雨模様というよりも、この季節特有の『通り雨』と呼ぶべきだろう。
人は時に、気持ちと言うモノを天気に例える。女心は秋の空だとか言うが、山田にはそれを馬鹿にしていた。
女心と言うモノは人工衛星などの人類のハイパーテクノロジーで観測できるようなものなのか。彼は卑屈に口元を歪める。
そうやって馬鹿にしていたからだろうか。山田は今、通り雨に打たれていた。
学生鞄を傘代わりに頭に乗せ、道を一気に駆け抜けた。
街中には湿った臭いが蔓延する。地面に叩き付けられる大粒の水滴は、落ちているゴミを雑に流していく。排水溝はそんな物の掃き溜めだ。
まるで空がヒステリーを起こしたみたいだ。そう山田は思った。自分が馬鹿にしていた例えだと気づきもせずに。
空に真っ白な線が現れ、一瞬、世界は明るく照らされる。そしてその直後に大きな音が彼の鼓膜を震わせた。
確かここを曲がれば、公園があったはずだ。記憶ではそこに屋根付きのベンチがある。山田は記憶を必死で呼び起こす。
鞄で守っている頭以外はすでに水を大いに吸っていて、彼の体にまとわりついた。
いまさら雨宿りしても一緒か……。そう思ってはいたものも彼は公園へと足を進めた。
公園の中に入る。彼のお気に入りのスニーカーは水を吸っていて、歩くたび側面に泥が付着する。
トタンを打つ雨の音が少し耳につく。不規則に鳴らされる音の先にはとても質素なものだったがペンキのはがれたベンチと木製の屋根の存在を山田に知らしめた。
あそこに入れば雨をしのぐことはできるだろう。もはや、雨宿りしても無駄なほどに体は濡れているのだが。山田は自嘲して足を進める。
そして気づいたのだ。屋根の下にはすでに人がいることに。
「……君も雨宿り?」
山田よりも何歳か年が上であろう女は、彼に向かってニコリと笑いかける。
濡れた白色のシャツからは肌着が薄く見えていて、、山田は少しドキリとする。
女性のモノなのか屋根の下は甘い香りが充満していた。くらくらする頭で山田は女性をまじまじと見る。
湿ったベリーショートの髪。垂れた目じりにピンク色の唇。ピッタリとくっついたパンツから足の形がしっかりと伺えた。
「最近の高校生は初心じゃないんだね。 濡れた体をジロジロ見ちゃってさ」
「……僕は胸の大きい人にしか欲情しないんで」
「初奴、初奴、私のお姉さんボディに欲情しちゃったのかな」
くつくつと彼女は楽しいそうに笑った。頭が揺れる度に艶々とした髪の毛から雫が飛ぶ。
「……あなたも雨宿りですか?」
「そうだよ、一人で雨宿りも乙なものかなって思ったんだけどね、実際のところは退屈してたんだ」
やっぱりあのまま帰った方がよかったか、と山田は後悔した。
目の前の女性は、山田的に言うと、あちら側の人間である。まず目が輝いている。人生を謳歌している。群れている。きっと。多分。
雰囲気、またオーラと言うもので山田には人がどちらの人種かがわかる。暗い目をした自己完結型のこちら側か。爛々とした瞳を持った他者共有側のあちら側か。山田にとってはあちら側の人種は苦手な物の代表だ。
「タオル、貸してあげようか?」
ニッコリとほほ笑んで彼女は言った。世間一般から見ても目の前の女性は美人と呼ばれる部類だ。そんな人物の微笑みが自分に向けられると思っていなかった山田は少し怖気づく。
「……タオルで拭けるほどの濡れではないですよ」
「でもさ、そのままだと風邪ひいちゃうよ。 頭だけでも拭いておいた良いって」
鞄の中をまさぐりだす彼女に山田は近づけなかった。というよりも、山田は屋根の下に入ってから必要最低限しか動けていない。
人見知りが過ぎる山田にとっては美人なあちら側の世界の住人と共に雨宿りなんていうものは幸運なんて言うものではなかった。幸運を通り越して苦痛である。
「いや、本当大丈夫なんで」
クールに、いや精一杯不愛想に彼は言う。
「ほら、バスタオルだし、拭いた方がいいって」
女性は立ち上がり、花柄のタオルを目の前で広げだす。洗剤の清潔な臭いが屋根の下の空気と混ざり、バスタオルは彼女の体を隠した。
「人の厚意はありがたく受け取っておくべきだって昔の偉い人も言っているんだよ」
はら、こっち着て座った、と言いながら彼女は山田の手を引く。白い柔らかな手と固く大きな手が交差する。
山田は腰をベンチに落とすと、女性は優しげな手つきで彼の頭を拭き始める。心地いいその感触に山田は目を細める。
「……ありがとうございます、えっと」
お礼を言おうとして、彼はいまだに彼女の名前を知らないことに気づく。
それを見かねてか、彼女はクスリと笑った。
「雨音・キューティー・曽良よ、君は?」
「山田です、タオルありがとうございます、それに拭いてまでもらって」
山田は心臓の高まりを抑えながら、顔に照れが出ないように言った。そんな彼の耳は真っ赤である。
「そうかそうか、山田少年よ。 私の和やかなジョークに反応できないぐらいに精一杯か」
「……冗談とか言いましたっけ」
「日本にキューティーなんていうミドルネームを持っている人がいるわけないじゃない!」
雨音は口元を尖らせながら山田の髪の毛を引っ張った。激痛ではなかったが、予想外の痛みに彼の口から変な声が漏れる。
「でも、僕の知っている人の中にラブリーっていうミドルネームの人がいますよ」
「誠に申し訳ないのですが、その人と言うのはあなたの想像上の人物ではないのでしょうか?」
「統合失調症扱いしないください! 僕にも患者さんにも失礼ですよ」
「イタリアンジョークだよ」
そう言ってカラカラと笑う彼女に釣られるように、どこにイタリア要素があったのだろうかと山田は少しだけ口元を歪めた。
「あとは自分で拭きますよ」
山田がそう言うと、雨音は髪の毛を拭く手を止め、彼にタオルを手渡した。
「拭き終わったら、そのまま返してくれていいから」
彼女がストンと軽い音をたてて山田の隣に座る。顔と顔との距離が、身体的距離が近づいたことにより、山田の顔がまたもや赤くなる。
「でも、やっぱり洗って返しますよ」
「ふーん、そんなにこの雨音お姉さんと会う機会を作りたいのかぁ、可愛いねぇ」
彼女の細い指が山田の首筋を撫でた。ゾクリとした快感を彼を襲う。
「そんなんじゃないですよ、お返しとしてですね……」
「本当、そのままでいいよ。 ほら、家族が寝静まった後に使ってあげるから」
「俄然、洗って返してください」
「え、嬉しくないの?」
「ほぼ、初対面の人にそんなこと言われても怖いだけですよ」
ドキドキを精一杯出さないように山田は不愛想を装って言うが、その声は震えていた。「ふーん、そっか。 そういうもんだよね」
にこやかな笑みを浮かべながら、雨音は空を仰ぐ。曇天のそれから滴り落ちる雨は、未だにその勢いが止むことはない。山田が着ているカッターシャツも乾きを取り戻し始めた。
「……雨、やみませんね」
「通り雨だよ、きっと一時間ぐらいで止むさ」
「通り雨ってもっと短時間で止むものじゃないですか?」
「じゃあ、お通り雨だね」
雨を見つめる彼女の横顔を、山田はそっと見つめた。長い睫にパッチリとした二重瞼。ピンク色の唇に白いうなじ。聴こえる吐息に合わせて、落ち着いていた山田の頬も上気していく。
「なーんか暇だな」
雨音はそうやって座っていたベンチから立ち上がった。短い黒髪が軽やかに揺れる。
屋根の下から手をだし、彼女は雨の勢いを測った。どんよりとした灰色の空は時折、白線をその隙間に走らせる。勢いは今だ衰えず、まだ増しているように感じた。
突如として、雨音はベンチの上に仁王立ちし、山田を見下ろした。。
見た目は大学生らしく大人びているのに内面は子供じみている人なのだと山田は感じた。
「スマホでもいじってたらいいじゃないですか」
「いやだよ、だってあれ嫌いだもの」
「珍しいですね」
目をぱちくりさせながら雨音はどうして、と聞いた。
山田はそこで考えた。なぜ、人はスマホが好きなのだろうと。
もしかしたら自分以外の誰もがスマホが好きで、いつもなれ合いを求めている、なんていう仮定はただの決めつけなのかもしれない。
もしかしたら自分や彼女のようにスマホを嫌いな人は一定数いるのかもしれない。
山田はゆっくりと息を吐いた。彼の頭は雨音の視線の棘で剣山のようになっていて、それが彼にとってはすこしくすぐったかった。
「……気のせいでした。僕もあれ嫌いなので少しも珍しくないですね」
「山田君もあれ嫌いなんだー、仲間だねー」
社会における何事も決めつけて生きている自分たちにとって、疑問詞をつけて生きていくのはとても辛いことである。そのため、自分の姿を決めつけ、できることを、選択しを限定して少しでも楽に生きようとするのだ。
仮面をつける。パターン化する。飽きるまで。
山田もそうやって生きる人の内の一人だ。自称、省エネ主義である。いつか見た小説の主人公に憧れて、それに同調するように彼は仮面をつける。
かし、その一方でそんな自分を自笑していた。
彼自身だけではない。夢を持っているもの、今を一生懸命に過ごしているものだって嘲笑の対象であった。キラキラのあちら側もジメジメのこちら側も、自分に当てはまっていようがいまいが関係なしに彼は笑う。
「なんかさー、山田君は特技的なものないのー?」
無邪気に彼女はそう聞いた。少し、ベンチの下の空気が凍り付く。
山田は無表情のままににして、ない、と答えようとする。何度も何度も胸の内に彼女の問いを反芻させるがが、依然として反応は無である。
彼は自分自身の記憶をを振り返り、何も変わっていないのだな、と胸の中で自分を自笑して自傷する。
「……ないですね」
「じゃあ趣味は?」
「それも特に」
彼女に面白くないようにと気を付けて、山田はそっけなく答えた。それ以上、この手の話題について詮索されたくなかったのだ。彼は自分が本気になれるものをいまだに見つけていないのだ。
雨音は呆れたように深くため息をつく。
「だめだね本当、最近の高校生ってみんなこうなの?」
「雨音さんと少ししか年違わないじゃないですか」
「経験値が違うのだよ、少年よ」
雨音は口元をニヒルに歪める。雨は未だに降り続く。
「山田君が王様からもらったお金で装備を整えたばかりの見習い冒険者だとしたら、私はラスボス直前の歴然の戦士だよ」
「年齢、サバ読んでたんですか?」
「失礼だよね、山田君って反応がそっけないよ。 なんて言うか、こう、必要以上に関わらないようにしているっていうか……」
唇を尖らせて彼女は山田の頭に軽くチョップする。バスタオルで拭いたおかげか手には水気はつかなかった。
「もっとこうさ、年上の湿ったお姉さんと一つ屋根の下で雨宿りだよ。 がっついかないとさ、高校生らしくないですよ」
「さいですか、別に高校生らしくしたいわけでもないんで。いいですかね」
「駄目だよ、高校生には高校生の模範解答があるのですよ」
ピンク色の唇が空気を求めるかのようにパクパクと動く。山田はそれを眺め、雨音はさらに彼を眺める。一種の永久機関だ。
「じゃあ、雨音さんのそのジョークも雨音さんの模範解答ですか」
「……そうだよ、完全無欠の模範解答さ」
一瞬の空白が開いて彼女は答えた。その空白は唇を凝視していた山田には少しためらっていたように捉えれた。
実際彼女は先程の笑みなど浮かべずにどこか深刻な気配であったし、降りしきる雨は彼らを少しの言葉だけでアンニュイな気持ちにさせた。
あぁ、この人はあちらの世界に行き切れないこちらのヒトなんだな、そう彼は彼女にレッテルを貼る。そして彼は雨の中でポツリと答えた。
「……そうですか」
こんな場面において使う言葉を彼は持ち得ていなかったし、彼女も何も望んでいなかったであろう。なにしろ、すべてが急すぎたのだ。ただ、歯切れ悪く途切れた会話は苦痛となって、雨の音のように彼らに降りかかる。
何を言っても悪くなることしか予想できない山田には、花壇に咲いた花が雨風に潰されていくのをただ眺める他なかった。




