紅の簪
時は平安時代……
その日の月は驚くほど巨大で、且つ美麗な満月であった。月光は明かりのともっていない夜の町を静かに照らしていた。
今町にこの美しい満月を眺めている者が一体何人いるだろうか。きっと両の手で数えられる程度の数であろう。毎晩誰一人いない夜を美しく飾っている月にこの町の人間は関心を抱いているだろうか。いやそれどころかそもそも月が夜を飾っていると思っている者すらいないだろう。
男はそんなことを思いながら空に浮かぶ月を眺めていた。
男の名は破魔夜業。今年で十六になる。体格は歳相応。彼の黒髪は結わえられることなく肩まで伸ばされており、夜風に吹かれ靡いていた。男としてはだらしのない髪型だが彼はそんなこと毛ほども気にしていない。
夜業が纏っているのは痛んでぼろぼろになった貴族の羽織だった。そんな服装をしているが彼は貴族でもなんでもない平民である。
その平民である夜業は街の頂点に君臨する不知火家の塀の上に立ち月を眺めていた。
その時、夜業の耳に背後から襖の開閉時に生じる音が入ってきた。屋敷の襖だ、確実に不知火の者だろう。夜業は咄嗟にそう考え塀の上から飛び降りようとした。
しかし彼は焦りすぎていた。直立の体勢からいきなり飛び降りようとした為、完全に足を滑らせてしまったのだ。そしてそのまま不知火家の塀の内側、敷地内の草むらに落下してしまった。
「きゃっ!!」
部屋から出てきたのは女だったのか、夜業の落下時に生じた物音で可愛らしい声を上げていた。
「何ですか今のは… 草むらに何か…」
その声はか細く弱々しかったが、まるで水晶のように透き通るような美しい声色であった。夜業はその声の主へ騒がないでくれ、と頼むために草むらから抜け出した。
しかし声の主の姿をその双眸に捉えた夜業はまるで時が停止したかのように身体と感覚が硬直してしまった。理由は単純なもので、ただ単に目の前に立つ声の主の容姿が美しすぎたためであった。
歳は夜業と同じぐらいだろうか、いや月明かりに照らされたその顔にはまだあどけなさが残っている。きっと十四というところだろう。
この少女が一見夜業と同年代に見えたのはその風貌のせいだ。少女はその身体に落陽よりも深い緋色の十二単を纏っており、艶やかな黒髪を腰あたりまで伸ばしていた。そして最も特徴的なのが頭の天辺付近で団子のように結っている髪を押さえている一際大きな矢のような簪だ。その簪の色合いはほぼ全てが真紅で、緋色の十二単と相俟って少女の美しさを引き立てていた。
「……」
夜業と少女は互いに口を開けたまま硬直してしまっていた。それは数秒間続いたが、夜業のほうは一足先に硬直が解けたらしく羽織を叩き汚れを払うと少女へと近付いていった。少女は夜業が近付いていっても怯える様子はおろかまだ硬直し続けていた。
「……あ、あのっ!」
少女は硬直が解けたのかただでさえ大きな瞳を見開き、声を張った。夜業はいきなりのことだったのでほんの少し後ずさってしまった。
「な、なんだ?」
夜業が恐る恐る聞き返すと少女は忙しなく言葉を継いだ。
「あなたは……殿方ですか!?」
「は…? あ、あぁ、己は男だ」
夜業は一瞬きょとんとしてしまったが少女の視線を受け、すぐに答えた。だが考えてもみればこの少女は不知火の人間、容姿から考えるに不知火家の現当主・御影の娘だろうか。それなら家の中で宝のように大切に育てられきたため男という存在をあまり目にしたことがないというのも無理はない。
「殿方… 父上以外の殿方は初めて御目にかかりました…」
少女は今宵の満月のように両の瞳を煌々と輝かせながら男である夜業を凝視していた。
「貴男はなんという御名前なのですか?」
「己は破魔夜業 お前は…」
夜業は自分の名を名乗ると少女が不知火の娘だという確証がなかったためそう問うた。
「はっ! 申し訳ありません! 人の名を尋ねるときはまず自分から名乗らなければいけないのに…… 私は不知火家の娘、不知火 御紅です」
この満月の夜の出会い以来、夜業と御紅は度々顔を合わせるように(不知火家に夜業が不法侵入してだが)なった。
御紅は夜業と共に過ごす時間は常にその顔に笑みを浮かべていた。夜業もまた御紅との時間を心地よく感じていた。
あの満月の夜の出会いから二年が過ぎたある日のこと。夜業はいつもの通りに御紅に会うため不知火家の敷地内に侵入していた。だがその日の心持はいつもとは異なっており、大切なことを決意していた。
「なぁ御紅……」
「はい、何でしょう夜業様?」
御紅はいつもの通りその顔に笑みを湛えながら返事をした。しかし夜業の表情はいつもと違っており、真剣そのものだった。
「己は十八 お前は十六だ」
「はい、それがどうかいたしましたか?」
夜業は一度目を強く瞑り、御紅の瞳を真っ直ぐに見つめた。そして決心したように口を開く。
「……結婚しよう」
夜業は月光を反射する御紅の大きな瞳に視線を向けながらはっきりと言い放った。
「……? 結婚… !」
御紅は言葉の意味を理解できなかったのか小さく首を傾げた。しかし水を打ったような静寂が数秒間続くと御紅は何かに気が付き表情をぱっと明るめた。
「結婚… 夜業様と… はっ…」
御紅は単語を連ねていき、最後に元気よく返事しようとした。しかし彼女は言葉を詰まらせ、その代わりに肩を落とし表情を翳らせた。
「無理ですよ…… 私と夜業様では身分が違いすぎます… 身分違いの結婚なんて父上に賛成していただけるはずがありません… 夜業様の申し出、本当に嬉しいのですが…」
御紅は言葉を紡いでいくうちに段々表情が曇っていき、声も消え入りそうなほど弱々しくなっていった。そんな御紅を見て夜業は彼女の隣から立ち上がり、不知火家と町を隔てる塀へと歩みを進めた。そして塀の手前で足を止めほんの少し振り返り口を開く。
「明日も同じ時間に来る… 身分や家柄などを考えずにお前が結婚したいと思っているのならいつも通り待っていてくれ…」
夜業はそう言い残して軽々と塀に登り、町へと消えていってしまった。対して御紅は夜業が越えていった塀を、そしてその後ろに浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。
翌日
夜業は覚悟を決め、約束通りいつもの場所から不知火家の敷地に入り込んだ。
「……」
しかしそこから御紅の姿はおろか、何の気配も感じ取れなかった。今まで夜業が不知火家へ赴いた時、御紅がいなかったことなど一度もなかった。つまりはそういうことだ。
「そうか…」
夜業は小さく、本当に小さく寂しげに呟いた。そしてすぐに屋敷に背を向け、塀の上に立った。
「…じゃあな…」
夜業の一言には重苦しい哀愁が漂っており、彼の心を映し出しているようであった。その一言には言葉通りの意味の他にもうひとつ、悲しい意味が込められていた。もう二度とここにはこないという意味が。
「夜業様!」
それは夜業が塀から飛び降りる寸前のことだった。夜業の背後から叫び声に近い御紅の声が聞えてきたのだ。
「私は心からあなたの事を好いております! 愛しております! もう身分なんて関係ありません! 私は父上に…不知火の家に勘当されたとしてもあなたと一緒になりたいです!!」
御紅は身分の違いから心の奥底に封じ込めていた本心を全て曝け出した。夜業はその言葉を聞くや、身を翻して不知火の敷地に舞い戻った。
「その言葉に嘘偽りはないな?」
「はい! これが私の本心です!」
御紅は夜業の質問に即答した。すると夜業は御紅に背を向けてしゃがみこんだ。
「え…これは一体…?」
「勘当されても己と一緒になりたいんだろ? さっきのお前の大声で家の人間が動き始めるはずだ… 逃げるぞ!」
「! はい!」
そう説明された御紅はその意味を理解し、彼の背中に負ぶさった。
「……」
御紅はどんどん離れていく不知火の屋敷を夜業の背から見つめていた。十六年間過ごしてきた大切な家、そして家族達。御紅は瞼を閉じ、そっとその全てに感謝の意を込めた言葉を残した。
「ありがとうございました……」
その後二人は追っ手に追われながらも、誰もいない夜の町を月明かりだけを頼りに駆け抜けた。やがて町の外に流れる川付近にまで辿り着いた頃には追っ手を完全に振り切っていた。夜業はそれを確認すると走る速度を落とし、川沿いをゆっくりと歩いていた。
「夜業様 これが川…というものですか?」
御紅は夜業の背から慈しむような穏やかな瞳で、静かに凪いでいる川を見つめつつ小さく呟いた。
「あぁ、これが川だ」
「とても美しいものなのですね……」
確かに今宵の川は普段よりも格段に美しい。撫でるような静かな流れ、そこに映る満月は二年前、出会いの夜の記憶を甦らせる。
「…!」
川を眺めていた御紅はふっと何か別のものに目を奪われた。
「あれは何ですか…?」
「ん…? 草だろ?」
御紅が指を指した方向には草むらがあるだけであったため、夜業は不思議そうに答えた。
「いえ、その草の上に乗っている真珠のようなものは一体…」
「あぁ、あれか あれは露だ」
夜業は淡々と答えたものの、今目の前にある露を真珠と見誤るのも無理はないと感じていた。なぜなら月光を受けて輝く露はきら煌びやかな真珠と相違する点が殆どなかったからだ。
「本当に… 外の世界は広く、そして美しいのですね…」
「……」
夜業には御紅の気持ちを理解することが出来た。不知火家で宝のように育てられてきた御紅にとって外の世界は全くの別世界と言っても良いほど新鮮なものなのだろう。
「…あぁ」
夜業は小さく答え、川に沿って歩みを進め続けていた。
二人は進む。遠くへ、出来る限り遠くへ。
この先が人の踏み入れてはならない危険な場所だと知らずに。
空には二人のこれからを暗示するかのように分厚い暗雲が立ち込めていた。やがてその暗雲は地上に強烈な雨を叩き付け、雷をも轟かせた。
二人は強烈な雷雨の中、一軒の蔵を見つけてそこで雨を凌ぐことにした。
「雨が止んで朝になるまでここにいてくれ 己は追っ手が来ていないか外で見張ってる」
夜業は半ば強引に御紅を蔵の中へと押し入れた。
「夜業様…」
御紅は閉まりゆく扉を見つめながら小さく呟いた。
その後御紅は真っ暗な蔵の中で恐る恐る歩みを進め、ゆっくりと腰を下ろした。しばらくすると目が闇に慣れてきたのか蔵のおおよその広さや辺りに散乱しているものが捉えられるようになった。
蔵の中は案外広い。しかし長期間使用されていないのか襤褸がいくつも散らばっており、大量の埃を被っていた。ここを使用していたのは武器商だったのか様々な武器も無造作に転がったままであった。
数時間後……
夜は明け始める頃なのだろうが、雨が止むどころか更に強まってきているため朝日が姿を見せない。そんな中極大の雷が轟音を伴いどこかへ落ち、辺りを真昼のように照らした。
「きゃっ……」
その轟音により御紅は飛び上がるほど驚いていた。
そんな御紅の背後には小窓から入り込んだ雷の閃光によりなにか禍々しい影が映し出されたが、彼女はそれに気付く事はなかった。
同時に外で見張りをしている夜業に異常なまでの悪寒が走り、その身を震わせた。夜業は長時間雨に打たれ続けて身体を冷やしてしまったためかと考えたがそのような悪寒とは別のものだ。夜業は不安に駆られ蔵の扉を勢い良く開いた。
「御紅!」
扉を開いたと同時に落雷。その閃光により蔵の中の凄惨な光景を夜業の双眸が捉えた。
「ぁ…」
夜業の視界を赤く染める鮮血の海、その中央に倒れ臥す御紅。彼女の纏っている十二単が血を吸い、その全てを暗い赤へと色を変化させている。
夜業が軽く放心しながら御紅の名を口にしようとしたとき、彼女の身体の少し奥に対となっている足が見て取れた。
人間の、いや違う。足首の時点で大人の男の太腿以上あり、肌色ではなく赤みを帯びた褐色であった。夜業はその足を辿り恐る恐る視線を上昇させていった。辛うじて外から時折入り込む閃光によりそれを認識することが出来た。
赤い肌、大木のように太い足、豹柄の腰布、ごつごつとした岩のような胴、常人の数倍は太い両腕、そして般若面のような恐ろしい顔。更にその頭には凶悪な角を携えている。
この巨躯、この風貌、間違いない。いや間違えようがない。今、夜業の眼前に立ちはだかっているのは――
「鬼……」
夜業が目を見開き戦慄して声を漏らした瞬間、外で雷が轟き蔵の中を強烈に照らした。その光によって彼の目にはっきりと鬼の姿が焼きついた。それは夜業を心の底から畏怖させる結果となってしまった。
それに追い討ちをかけるかの如く、鬼がその大木のような足で一歩踏み出した。夜業は恐怖のあまり後ずさってしまった。いや、彼が後ずさるだけで済んでいるのは御紅がそこに倒れているから、この世で最も大切な人がそこにいるからだ。
夜業はその思いだけを糧に、今この蔵から逃げ出さずにいられるのだ。彼は停止しかけていた思考を巡らせ鬼の気を御紅から引き剥がそうと考えた。そのため未だ動かぬその身に鞭打って足元に転がっている脇差を拾い上げ鬼の右側へと移動し、そこから全力で脇差を投擲した。すると脇差は見事に鬼の左肩に突き刺さり、進行方向を変えさせた。あのまま正面に進ませていたら今頃御紅は踏み潰されていただろう。
進行方向を変えた鬼は、しかし脇差など意に介さぬようにゆっくりと、だが着実に夜業との距離を詰め始めた。夜業は鬼に応戦することを決心し、今度は足元に転がっている一本の長柄刀を拾い上げた。瞬間、なにかの影が夜業の視界を通り過ぎた。
「……?」
それは刹那の出来事だった。あまりにも一瞬のことで夜業は数秒間なにが起こったのか理解できずにいた。
夜業は右手で刀を拾い上げたのだが今はその重みを感じることが出来ない。彼はほとんど目視せずに刀を拾い上げたため掴み損ねたのかと思ったが、確かに刀を掴み持ち上げた感覚はあった。なら何故今はそれを感じられないのだ。
そう思った夜業は刀を拾い上げたはずの右腕のほうに目をやった。
「っ……」
そして絶句する。その理由はそこにあるはずのものが存在していなかったからだ。それは夜業の右腕だ。正確に言えばなくなった訳ではない。彼の右腕は切断されたかのように綺麗に肩から千切られ、床に投げ捨てられているのだ。
「…? ……ぁ ……あぁぁぁぁぁ…!!」
夜業は両目を自らの右肩と床に転がっている腕とで行ったり来たりさせると、ようやく知覚した激痛により断末魔のような叫び声を上げた。
何が起こったのか理解できずにいる夜業はただただ痛みに悶え苦しむことしか出来なかった。彼は右肩の言葉にならない激痛に堪えつつ、状況を把握しようと辺りを見渡した。床に転がっている刀を握ったままの右腕、大量の鮮血を流す右肩。この状況を作り出せるのは人成らざるものである鬼だけだ。
「!?」
そして夜業はようやく気が付く。その鬼の姿が視界のどこにも無いということに。
一体何処に消えた。先程まで、ほんの数秒前までは夜業の眼前に立っていたはずだ。彼はそれに気が付くとすばやく背後に振り返った。するとそこには文字通り鬼の形相をした鬼が丸太のような右腕を振り上げていた。その光景を双眸に捉えた瞬間、夜業の身体は完全に無意識で、自動的に動いた。全身の筋肉が働き、鬼の腕が振り下ろされる地点から転がって離れた。その先は御紅が流した血の海であった。
夜業にかわされた鬼の右腕は轟音を伴う物凄い勢いで空を切り、蔵の床に大穴を穿った。そのときの衝撃は蔵全体を大きく震撼させ、夜業の身体すらもほんの少し浮かせた。
夜業は鬼の圧倒的な力を目の当たりにして一つの結論を導き出した。人間は絶対に鬼に勝つことは出来ないという絶望的な結論に。
しかしそれでも夜業はそれを覆してこの状況を打開し、御紅を助けなければならない。
非力な人間に出来るのは考えること。 考えに考え抜いて行動する。それが人間に与えられた知性という名の力。
夜業は考えた。今までの経験全てを総動員し打開策を導き出そうとしている。そんな最中、夜業の脳裏にとある記憶が甦った。彼はそれがこの状況を打開する唯一の方法と判断し、すぐに実行へと移した。
夜業はすぐ傍に血まみれで倒れている御紅に接近し、彼女の髪を結っている矢のような簪を引き抜いた。それにより御紅の美しい髪が血の海に浸される。
夜業は引き抜いた簪を決して放さぬように強く握り締めた。
これが最初で最後の希望、この希望が潰えたら間違いなく夜業と御紅は今この場所で命を散らすことになるだろう。
「己は……生きて……御紅を連れて帰る……」
夜業は右肩から血を流しすぎたせいで視界が霞み始め、意識すら朦朧としていた。しかしそれでも夜業は鬼への一歩を踏み出した。
覚束ない歩みで数歩進むと夜業は鬼の目前に迫っていた。こうも易々と接近できたのは鬼が勝利を確信して隙を見せていたためだろう。そんな鬼は悠々と腕を振り上げ始めた。
夜業はその隙を見逃さなかった。悠々と腕を振り上げ始めた鬼に向けて簪を突き立てるため身体を弓のように引いた。
簪から流れ込むかのように夜業の頭の中である日の御紅の言葉が再生される。
『私のこの矢のような簪は本物の矢から作られているのですよ 使い古された破魔矢を簪に作り替え、それに不知火の象徴である紅を塗ったのがこの簪なのです』
「っっ!!!」
夜業は引いた腕を全身全霊で鬼へと放った。鬼はいきなりのことすぎて完全に対処できずにいた。そんながら空きの鬼の胸部、すなわち心臓に夜業の全体重の乗った簪が突き刺さった。
御紅の言葉の通りならこの簪はただの簪ではなく、退魔の紅い破魔矢なのだ。
直後、それが真実だったことを証明するかのように鬼が動きを完全に停止させた。そして次の瞬間、鬼の身体は簪が突き立てられた部分から砂のように変質していき、やがてその全てが塵と化し消滅した。
「終わっ…た…… っっ!」
夜業は鬼を討伐したことにより安堵し、その場に倒れ込みそうになったがすんでのところで踏みとどまる。
まだ終わってなどいない。本来の目的は御紅と共に帰ること。結婚をなかったことにされても彼女を生きて不知火家に帰さなければならない。そう考えた夜業は左腕だけで御紅を担ぎ上げ、重々しい足取りで蔵の外へと脱出した。
外は相変わらずの雷雨。それでも進まなければならない。強い決心と共に夜業はゆっくりと歩みを進め始めた。
強烈な雷雨に打たれ、二人の身体からは大量の血液が流れ出ていた。それと共に体温が失われていき、かすかな意識さえも血と共に流れ出てしまっているようであった。
御紅を連れて帰らなければならない。
その思いとは裏腹に夜業の意識が遠退き始め、身体から力が抜けると同時にその場に倒れ込んでしまった。
「く……そ…」
そして終に夜業の意識が闇の中へと消え去ってしまった。
「……御紅っ!!」
夜業は左手を高くかざした状態で叫びながら目を覚ました。彼が目を覚ましたのは雷雨が降り注ぐ野外ではなく、途轍もなく広い畳の部屋で夜業はそこの中央にしかれた布団で寝かされていたらしい。
「目を覚ましたか……」
夜業が目を覚ますと枕元から低く重厚な男の声が聞えてきた。そのため夜業はすぐさま声のほうへと目を向けた。そこには袴を着た厳格そうな男が目を深く瞑りながら鎮座していた。男の眉間には皺が刻み込まれたように寄っており、それが言いようのない威圧感を放っている。
「お前が破魔夜業だな…… 私は不知火御影だ」
「!!」
その名を聞いた途端、夜業は飛び起き御影の正面にきっちりと正座した。後からやってきた右腕の切り口からの激痛に少し表情を歪めるものの夜業は言葉を紡ぎ始めた。
「失礼いたしました…… 御影様の御前で横になっているなど……」
夜業は御影の正面で畳に頭をつけ謝罪した。そして再び言葉を紡ぐ。
「それに加えて御紅様の…! 御紅はどうなったのですかっ!?」
夜業は御紅が瀕死の重傷を負ったことを思い出し、血相を変えて御影に問うた。
「一命はとりとめた しかし未だに意識は回復していない」
「……」
夜業は小さく、ほんの小さく安堵の溜息を漏らした。御紅は生きている。それだけで夜業は胸がいっぱいになった。そして気を取り直し真剣な表情で言葉を継いだ。
「この度は誠に申し訳ございませんでした…… 御紅様を連れ出した挙句生死の境を彷徨わせてしまった…… 謝罪して償えるとは思っておりません なので私は腹を斬り、この命を持って罪を償いたい所存でございます……」
夜業は頭を下げたままはっきりと、一言ずつ言った。
「死んで詫びる…… それは単なる逃げだ 罪から逃れたいが為の自害 そんなもので罪が清算される筈が無い 私が求めるのはお前の一生、これからの全てだ」
御影はそう言い終えるや否やすぐさま立ち上がり、夜業に背を向けて歩き始めた。
「それはつまり……」
「お前の残る全ての命を持って御紅を守り続けろ……」
御影は言い放ち、部屋から出て行った。
「はい… 有り難う御座います……」
夜業は出て行った御影に深々と頭を下げた。すると御影と入れ替わったかのように何者かが部屋の中に足を踏み入れた。
顔を上げ、戦慄する。なぜならそこには美しい黒の長髪を携え、その身に緋色の十二単を纏った女性が立っていたからだ。夜業はこの女性を一瞬御紅と認識し、戦慄したのだ。しかし御紅はこんなに大人びた雰囲気を放ってはいない。ならばこの女性は、
「御紅の母の不知火紅亞です 君が破魔夜業君ですね」
紅亞の美しい容姿と声はまるで天女のようで心が安らいだ。
「これから御を宜しく願いしますね」
紅亞は小さく微笑みながら言った。そして夜業に歩み寄り、肩より先がない右腕に目を向け、そっと肩に触れた。小さな痛みが傷口から伝わってくるがそんなものはすぐに消え去った。それは紅亞のおかげなのだろうか。
「君も死んでもおかしくないほどの重傷だったのだからまだ寝ていなさい……」
紅亞の慈しむような表情と声に夜業の身体からふっと力が抜け、再び布団に横になった。
「ゆっくり、ゆっくりと休むのよ…」
紅亞の声は子守唄のように優しく夜業の鼓膜を揺らし、すぐに眠りにつかせた。
「ん……」
夜業は真っ暗な部屋で目を覚ました。先程と同じ部屋なのだろうが今は夜なのだろうか、月光のみが明かりとなっている。
夜業はふと立ち上がりあることに気が付いた。右肩の痛みが消え去っている。あれだけの傷が一晩で塞がってしまうものなのだろうか。彼は不思議に思いつつも外の空気を吸おうと閉ざされた襖を開いた。
瞬間、部屋の中には月光と桜吹雪が入り込んできた。夜業は縁側を降りて庭まで歩みを進め、花びらを散らす桜の元まで辿りついた。
月光と桜は相俟って夜を彩ってる。夜業はそんな夜桜をぼんやりと眺めていた。
「夜業様……」
「……」
小さく、か細い声であったがぼんやりと夜桜を眺めている夜業を鋭く貫く声が響いた。
「御……紅…」
何故、いやそんなことはどうだっていい。
夜業は無意識の内に縁側に立つ御紅の元へと駆け出していた。そして御紅の正面で足を止める。
縁側に立つ御紅、その正面に向かい合う夜業、二人を照らす満月の光。二年前のあの日と全く同じ景色だ。ひとつ違っているのは桜が散っていることぐらいだろうか。あの日はまだ咲いてすらいなかった。
「夜業様… また会えた… それだけで私は…」
御紅は頬を紅潮させ、その双眸から真珠のような涙を流しながら言葉を紡いだ。夜業はその途中縁側に上った。
「これからはずっと一緒だ…… お前は己が永久に守り続ける……」
夜業は残された左腕だけで御紅を抱き寄せ、耳元で呟いた。
「はい……」
そして二人は涙を流しながら互いを強く抱きしめ、頬までをも密着させた。すると頬を伝う涙が合わさって空中で宝石のように煌めき、床に落ちて散った。
鬼と対峙した二人は永遠に癒える事のない深い傷を負った。
夜業は右腕を。御紅は背中に巨大な爪痕を。
しかし、二人は傷よりも深い愛で結ばれたのだ。それならばこの傷でさえも愛の証となるだろう。
この数日後に二人は結婚し、それからは一生を共に過ごして死ぬまでお互いを愛し続けた。
――了
夏休みの宿題として書いた小説を加筆・修正をした小説です。それまでは漫画原作やライトノベルなどの文章しか書いておらず、文学を意識した初めての作品なのでお見苦しい点があったかもしれません。