将来の夢
今「将来の夢はなんですか」と聞かれても、はっきり答えられない。最近の若者らしくやりたいことが見つかりません、というのではない。むしろやりたいことが多すぎて迷っている状況なのだ。
私は大学の農学部で勉強している。農学部は文字通り作物の品種改良や農薬の開発など農業に関係する研究ももちろん行っているが、それだけでなく生態系や環境について研究したり、あるいはもっとミクロな生体内の物質についても研究している。つまりあらゆるスケールで生物について調べ、それを食料生産や創薬などに応用する学問だ。
今でこそその大学の農学部に入学したことは成功だと思っているが、受験の時からここを第一志望にしていた訳ではない。高校の時の第一志望は、薬剤師の資格が取れる薬学部だった。経緯は後述するが、それまでの夢を半分諦め、もう半分は希望を見いだして入学手続きをしたのだ。
今に至る経緯を話す前に、私が今まで抱いてきた“将来の夢”について、少し語ろう。
覚えている限り一番最初の夢は、「お花屋さん」だった。お花屋さんといえば、幼稚園や保育園くらいの女の子が挙げる夢として多い夢である。たぶん可愛らしいイメージからだと思うが、私は別に「お花屋さん」に可愛いイメージを持っていた訳ではなかった。ただ祖母が花の世話をするのが好きで、遊びに行くとたくさんの植木鉢があるのを見て育ったから、祖母のためにお花屋さんになる、と言っていた気がする。
それがいつまで抱いていた夢なのかは覚えていないが、小学校中学年の頃には、「ダンサーになる」という夢に変わっていた。当時は私の中でポケモン全盛期で、その頃やっていた映画の中に『おどるポケモン秘密基地』というのがあった。その映画でたびたびかかり、当時のエンディングテーマにも使われていた曲が『ポルカ・オ・ドルカ』で、パパイヤ鈴木により踊りの振り付けが付けられていた。そしてその曲を、地域の親子ぐるみのグループ活動で開催されたクリスマス会の時に、パフォーマンスとして踊ったことがある。
そのダンスは同じグループの大人も子供も全員踊った。ただ、子供の方が振り付けを覚えるのが早かった。私はポケモン好きということもあってその振り付けを早々に覚え、大人達に教えるくらいになっていた。だから私は、そのとき「先生」などど呼ばれていたものである。小学校中学年ではあったが、グループの子供の中ではほぼ最年長だった。だからしっかり踊れれば、「先生」と呼ばれるようにもなったのだ。
これらの夢はその時その時で思っただけで、本気でなろうと努力した訳ではない。花の手入れも勉強しなかったし、ダンスも習いごとをしなかった。ただダンスに関しては、そういう習いごとがあるのだということを知らなかったというのもある。
さて、今の私に繋がる夢はいつからあったかというと、中学二年に遡れるのだと思う。中学二年では、いわゆる職場体験実習があった。三日間だけ希望した職場に行き、ちょっとした働く体験をしてくるというやつである。
別にやってみたい場所に行けばいいのに、当時の私は将来に繋がる仕事にしなければならないと思い込んでいた。そうして選んだのが介護の仕事だった。何故介護なのかはよくわからない。たぶん、当時も深く考えておらず、「将来に繋がり誰かの役に立てる」のが介護だと思っていたのだろう。
そして私はグループホームというところに職場体験に行った。ぱっと見は老人ホームだが、単に老人の世話をする施設ではない。中学生だった私にもわかるように、担当してくださった職員の方は「見た目はどこも悪く無さそうだけど、頭の病気を抱えた人達だ」と教えてくださった。一つの動作はできるが、何をどういう順序で行えば、例えば料理のような目的を達成できるのかがわからない人達だ、という話だった。後で知ったが、主に認知症を抱えた人達だったようだ。
そこの仕事は大変だった。何の知識もない私が、たった三日でできることは限られていたのである。いまいち何をしていいかもわからないまま、ばたばたと一緒に生活しただけだったようにも思う。時にはわかりやすい言い回しで作業を伝えなければならず、慣れていない私には難しい仕事だった。
ちなみに、そのグループホームは地域で大きな老人ホームの付属のような立ち位置だ。だから職員の方にこっち(グループホーム)の方に来るなんて珍しい、初めてだ、と言われた。けれど私は、どうしてそこを選んだのか、よくわからない。探すときに電話帳を開いて、ぱっと目に付いたのがそこだっただけだった。かなり適当な理由である。
こうして職場体験を終えた私だが、そのまま介護士になろうとは思わなかった。高校を受験する頃までには、「薬剤師になる」という思いが生まれていたのである。
どうして突然薬剤師なのかも、よくわからない。ただそのグループホームには、専属の看護師もいた。そこで医療に目が向いたのだろうと思う。介護士も看護師も人との付き合いが肝心で、だからコミュニケーションが苦手な私は挫折を感じていたのだと思う。ついでに、看護師だと早いうちに看護学校に行く必要がある、というイメージもあった。医療なら医者でもよさそうだが、家は裕福でもなく、医者になれるとも思っていなかった。そしていつか、「薬剤師」という仕事と存在を知ったのだろう。そういったことが合わさって、まるで小説の設定が突然決まるときのように、「薬剤師になる」という思いは私の中で確固たる思いになっていった。
薬剤師になるには大学の薬学部薬学科で6年間勉強した後、資格試験を受けて資格を取る必要がある。だから私はまず、地元で偏差値の高い進学校に行った。実は高校はどこでも良かったのだが、私は中学の人がかなりいる市内の高校にはあまり行きたくなかった。というのも、中学時代の同級生とはいろんな意味で“合わない”と思っていたからである。私が行くことになったその高校は市外で偏差値が高いが故に、同じ中学から受験しようと思う人はほんの数人だったのだ。大学受験の勉強もできる上に知り合いもほとんどいない。これ幸いとばかりに受験し、そして合格した。
高校では大学受験のために普通に勉強していた。といっても、高校の中ではそこまで上位にいた訳ではなかったし、受験勉強に本腰を入れたのも、たぶん三年になってからである。ついでに、塾には一切行かなかったから、よく現役で大学に合格したなあ、なんて他人事のように思ったりもする。
二年で文理に分かれたときは、迷わず理系を選んだ。先述の通り薬剤師になることは念頭にあったから当然である。ただ、物理か生物かは少し迷った。単純に考えれば、薬学には生物が近いように思える。けれど先生方には「生物選択は受験の幅が狭まるぞ」と脅され、部活の先輩にも「薬学部に行くならどうせ物理やるから取った方がいいよ」とアドバイスされた。だからとても怖かったのだが、私はそれでも生物を選択した。
生物を選択する人は「数学や物理が苦手だから」という理由の人が、そこそこいるのではないかと思う。けれど私は、そういう消極的な考え方はしなかった。より楽しそうで、より薬学に近そうだから選んだのだ。だいたい、高一の成績だけで言えば、物理も決して苦手ではなかった。当時も今も毛嫌いなどしていない。
結果から言えば、生物を受験科目にするという選択は正解だったのだろう。受験勉強とは関係なくとも、生物の授業はとても楽しく、のめり込めた。以前から興味のある分野だったからかもしれない。というのも、私の父は小中学校の理科の先生で、家には科学系の本も多かった。どちらかというと生物系の本が多く、私はそういう本をよく読んだ。科学系の本は高校レベルの知識があれば十分読みやすいというのも、楽しさに拍車を掛けていたのかもしれない。
さらにその高校はSSH指定で予算が国から組まれていた上に、二年と三年で生物担当だった先生が実験好きで、かなり色々な実験をさせてもらえた。豚の目の解剖に血液の凝固実験、抗原抗体反応の実験、酵母や大腸菌の遺伝子組換えにDNA鑑定なんかもやった。特にDNA鑑定はDNAを増幅させるのに必要な機械や、目的のDNAがあるかどうかを見分ける試薬などが高く、こうして授業でできるのは幸運なんだよ、と言われた。ともかく、恵まれた環境だったのだ。
私は動物や植物について自由研究などをしたことはなく、せいぜい本の中の知識だけだ。けれど人体、特に免疫や病気ついては、喘息やらアレルギーやらをもっていたが故に人一倍興味があった。アトピーで薬をよくもらっていたし、ついでに化学も得意だった。だから薬剤師という仕事はよりなりたい職業になった。
そうして薬剤師になりたいという思いを抱いてきたのだが、一番の問題はどこの大学を受験するかであった。地元から近い公立の大学に絞ると、中期日程しかなかった。中期日程というのは、大学試験の日程が2月下旬の前期日程、3月上旬の後期日程の間に試験を設定している大学・学部学科のことである。ほとんどの大学が前期日程で試験を行う中、一部の大学は後期日程、あるいは中期日程を指定している。数が少ない分、あぶれた受験生が集まるなどして倍率がぽんと上がってしまうのだ。
しかも、前期なら後期で取り返そうというのも一応可能なのだが、中期は後期と扱いが同じだ。滑り止め無しで倍率の高い戦いに望むのだから、中期日程の大学を一次志望にするのはリスクが大きかった。
地元に絞らなければ、前期で薬学部を受けられる。けれどどこも偏差値が高い上に、遠くまで行って勉強することに魅力を感じなかった。私立という手もあるが、裕福ではないし、親から「お金持ちの人が集まるから合わないかも」というようなことを言われた。
そんな悩みを抱えた中で前期日程として候補になったのが、「農学部」だった。そもそも、薬剤師は飽和状態にあるらしいと、進路の話で言われた。だから本当に薬剤師にしかなりませんという訳じゃなければ、創薬なら農学部でもできるから考えておくのもいいよ、とアドバイスされたのだ。そして私自身、薬剤師は第一であったが、創薬という選択も良さそうだと思うようになった。ついでに今いる大学は地元から近く、薬学部はなかったが農学部はあったというのも、一つの要因だったのだろう。
大学受験には、“浪人”という選択もある。要するに、受かるか受からないかわかなくとも、浪人する覚悟で目指す大学を受験するという方法だ。浪人を視野に入れたからといって、現役の勉強を捨てるという訳ではない。現役で受かればそれ以上の苦労はないのだ。センター試験の結果が悪かったから目標を下げるというようなことをせず、玉砕してもいいから目指す難関大を受験するというだけのことである。浪人すると一年間余分に親に負担を掛けることになる。だから、親と相談して決めるのがいいと言われた。
私の親は、浪人はしないで欲しいとの考えだった。妹たちもいるし、経済的に苦しくなるからである。だから私は、浪人という選択は取れなかった。前期で入学手続きをしてしまうと、中期や後期で受かっていても入学資格がなくなる。しかし中期や後期の発表を待つと、前期の入学資格がなくなる。そういった難しい問題もはらんでいたため、前期に今の大学の農学部を受験すると決めたとき、先生に「前期で受かったらその大学に行くのか」と言われ、私は迷わず「行きます」と答えたのだ。
もともと、受かればいいなという気持ちで前期を受験した。だから合格発表ので自分の番号を見つけたとき、まさか見間違いじゃないよなと何度も何度も確認したくらいである。写真まで撮って、家で待っていた両親にメールで送ったりもした。また、その合格発表より中期試験の方が先にあり、手応えとして危ういと思ったから、もう受かったこっちに行こうと手続きしたのである。
薬学部薬学科以外で薬剤師の資格を得るのは、現実的ではない。だから今の大学に行くという選択をしたとき、私は薬剤師になるという夢を諦めたことになる。だが、決して「仕方がなかった」などとは思わなかった。むしろ、それまでやたらとこだわっていた“薬剤師”から解き放たれ、新たな選択の可能性が見いだせると思ったのだ。先述の通り生物や化学にかなり関心があったから、農学部というのもそれはそれで魅力的だった。それまでの夢を半分諦め、半分は希望を見いだした、というのはこういうことである。
実際、農学部での勉強は楽しいものばかりだった。創薬にこだわらずとも、生体内で起こっている化学反応(生化学や分子生物学)、体を保つ仕組み(生理学)、生物同士の関わり(生態学)、環境に配慮した農業やエネルギー問題などなど、面白い話題だらけなのだ。動物に限らず、植物や昆虫、微生物に特化した勉強もある。専門科目を勉強するようになって、より面白い事柄が増えていった。
どれも面白いから、どの分野を選ぼうか迷ってしまうのだ。そもそも農学という学問自体、幅が広い上にどれも実用的な仕事とかなり結びつきやすい。一応、学科は三つあり、それぞれ主として生態系や環境について勉強する学科、農作物や畜産の生産について勉強する学科、生体内の反応や物質について勉強する学科である。私は最後の物質的、ミクロなスケールでの学問が専攻だ。
学科には分かれているが、それでも幅は広い。生体内の反応と一口に言っても、遺伝子の発現、物質の合成や分解、またエネルギーを得る反応、さらにこれらの反応を制御する仕組みなど様々だ。反応の仕組みがわかれば、効果的な除草剤や殺虫剤を作ることも、的確な薬を作ることもできる。また何がどのように作られ、使われているのかがわかれば、食べ物の栄養がどう必要なのかもわかる。さらに微生物の反応がわかれば、お酒や納豆、お酢といった発酵食品を作ったり、バイオエタノールも作ることができる。これは一例に過ぎないが、どれだけ身近に関われるかがわかると思う。
ともかく、今の私は迷っている。今後の決定は、未来の私に書いてもらおう。
さて、私は小説を書いているが、作家という職業が一度も将来の夢に出てこなかったじゃないか、と思ったかもしれない。けれど私は、作家になって小説を書くことで食っていこうとは思っていないのだ。今のように趣味としてちまちまと書けたらいいな、くらいである。
まず売れる物が書けるとは限らないし、デビューできるかどうかも危うい。第一、面白そうな事柄を仕事にできそうだから、あえて小説を優先させる必要もない。
もちろん、本になったり商品になったらいいなあ、とは思う。でも主ではなく、趣味の範疇でやりたいなあと思うのだ。
将来の夢とは直接関係ないが、私は出版社から電話で「あなたの作品を本にしませんか」と言われたことが、1回だけある。その電話を受けたのはまだ作品を公開し始めて間もない頃、おそらく高校二年生くらいのことだった。留守電に私宛の電話が来ていて、折り返しかけ直したところ言われたのだ。確か、賞に応募した作品が期待できそうなので一度しっかり書籍化に向けて書き直してみませんか、的なことを言われた記憶がある。
確かにその時、小説のコンテストか何かに応募していたのだ。けれど、電話を受けたときは始めそのことをすっかり忘れていて、突然の出来事に私は取り乱してしまった。その状況で日取りを決めましょうなんて言われても対応しきれず、私は母に電話を替わってもらった。ちなみに、母は私が小説を書いていることを知っている。
そうして母に電話を替わってもらってわかったのは、出版社が私に専属の編集者を付け、書籍化に向けて本格的に作品を手直ししてもらいたい、ということだった。無知だった当時の私はそれを聞いて何となくすごいと思っただけだった。あるいは、そこまでしてもらう価値があるのだろうか、とも思ったりした。けれど、電話を受けていた母から「高校生のやることじゃない」と怒られ、その話も断ってしまった。もともと私は小説だけで生きていこうなんて考えていなかったから、確かに趣味の物で勉学の時間をこれ以上削るのは得策でないようにも思えた。
勘違いしないでもらいたいのは、私は当時の母の対応を今も恨んでなどないことである。というより、私は私自身の軽率さを恥じている。確かに私は作品を応募して、結果はどうあれそれで電話がかかってきたのだが、そもそも電話がかかってくると言うことは、相手がこちらの電話番号を知っているからに他ならない。そして、たぶん私は応募の際に電話番号を一緒に記載してしまったのだ。個人情報管理の点で、あまりにも軽率だった。
そもそもその賞に応募したのはまだ『小説家になろう』の使い方もよくわかっていない頃だった。最初はそこで書いていれば誰かの目にとまって書籍化されるのかと思っていたが、だんだんそうではなくて何かしらの新人賞などに応募して初めて、出版社の目にもとまるのだろうということにようやく気付いたときだ。だからあのサイトのバナーをたどり、当時完結させていた『魔法使いの世界』を応募できるコンテストはないものかと探したのだ。そこで、ジャンルや長さを問わないが本にしたい作品を応募してください、的なサイトを見つけた。私は深く考えずにそこにほいと応募した記憶がある。
別にそのサイト、あるいは出版社を非難するつもりはないが、たぶんあの電話は私を何かしら利用するためにかけたものだったのかもしれないと思うことがある。確かに優秀な作品は書籍化されるだろうが、優秀賞どころか佳作や入賞に該当したかどうかもよくわからない私の作品が(というのは特に入賞したという連絡を受けていないのである)、いきなり書籍化されるなんておかしな話なのだ。たぶん応募した人に片っ端から電話をかけて、応じてくれる人を探していたのかもしれない。小説に限らずネット上に無料で気軽に作品を公開できるようになった今日、その手の詐欺紛いの商法はよく話題に上る。当時の私の実力と利用価値はさておき、使い捨てにするつもりだった可能性もある。だからこういう書籍化を含むコンテストは、よく吟味して選ばなければならなかったのである。