老成
相手の顔が見えないネット空間だと、私は実年齢より大人びて見えるらしい。ちょっと意外である。というのも、私はずっと自分は子供っぽいと思っていたからだ。中学生になってもまだポケモンで遊んでいたし、妹達がいたのも手伝ってごっこ遊びもよくやった。そういう子供っぽい趣味を持っていたから、私は自分は精神年齢が幼いのだろうと思っていた。だから、最初に「大人っぽい」と言われたときは驚いたものである。
一つ注釈しておくと、私は誰からでも大人っぽく見える訳ではないらしい。誰とは言わないが、ある程度年を取った人から見れば、やはり年相応なのだそうだ。つまり正確に記すなら、「ある程度年の近い人(±10歳くらい)から見れば、大人びているように見える」ということになるかもしれない。
果たして私の何がこう思わせるのだろうか。この問いに対する明確な答えは、私には出せそうもない。また、こういう人格を形成した出来事が何だったのかも思い当たらない。おそらく大きなイベントではなく、小さな出来事の積み重ねだったのだろう。そういう曖昧な答えにしかならなさそうだ。
一つ挙げられそうなのは、よく自分の考えをネットに上げることだろうか。呟きにしてもブログ記事にしても創作作品としても、私は何かしらの意見を言っていることが多い。まあ、意見と呼んでいいのかわからない呟きもあるのだが、そういう意見をよく目にする人からすれば、「自分の意見をしっかり持っている人」という認識となり、結果として大成された人間のように映るのかもしれない。
けれど私は、自分の中に芯が通っているとは思っていない。むしろ、いろんなことに影響されやすい性格だと思っている。所詮大衆の一人なので世論や読んだ本の意見にも流されるし、そもそも私の創作作品は一次と呼んでいいのかわからないくらい、何かしらの影響を受けていることもある。
それでも私が私なりの意見を持っているように見えるのは、考えることが好きだからだろう。授業で習った内容を反芻することもあれば、「何故『股間』は卑猥に聞こえるのか」というくだらないことを考えていることもある。また人間の行動について考えて哲学的になっていることもあれば、読んだ本や漫画について妄想していることもある。ともかく、気になったことは考察しておかないと済まない性格なのだ。
だから、いろんな人の意見が飛び交う話題を目にしても、内容を追った上で考察し、その場で思ったことをつらつらとどこかに書き留めておくだけだ。今ここで書いていることも、自分について考察した結果である。つまり、私の意見というのはその場で感じた考察結果、とでも呼ぶべきかもしれない。
何事もそうやって考えてしまうから、意見が出るまでに時間がかかる。そもそも私は、自分の考えを文字として書き出すのは遅い方だと認識している。頭の中で混沌とした何かを整理して出力するのに、やはり時間がかかってしまうのだ。実はそれで苦労したことがちらほらある。レポートや英語の意見作成などは、他人よりもかなり時間がかかってしまい、授業時間だけだと大したことが書けなかったりもする。そういうのは、ネットだと出力された結果しか見えないためにわからないことなのだが。
実際に相手の顔が見える会話と、ネットの文字だけの会話は、やはり違う。大きな違いは、タイムラグがあるかどうかだろう。対面会話で、相手の言葉が止まった後に数分でも間が開いてしまうと、そこに重大な意味を持って現れてしまう。つまり、少し一方が黙っただけで、他方が困惑してしまうのだ。
反面、ネットの会話は例えリアルタイム更新されるチャットと言えども、数分の間はさほど気にならない。それどころか、何時間か経った後にようやく返信が来る、なんてこともある。文字を打つ速度とか、そもそも張り付いて見ているとは限らないので、即時で返せる訳がないのだ。
そういう訳で、対面会話は直感的な内容が大半を占める一方で、ネット会話はもっと考察的・理論的な会話を行うことが可能である。ゆえに、顔の見えないネットの上では誰もがしっかり考えた意見を持っているように見えるのは、当然のことなのだ。だから大半の人は、年上に見えてしまうのではないか、と思う。
ネット上には俗に「バカッター」と呼ばれるような連中もいるじゃないか、と反論されるかもしれない。実際その通りである。犯罪行為を自慢したり、一方的に攻撃的な発言をしたりと、そういう人も確かにいる。けれどそういう人の馬鹿さ加減というのは種別が違う。あれは「自分の仲間だけがいる」という思い込みがそうさせるだけである。自分の言動は広められるのだ、みたいな妙な自信があるのではないだろうか。
もしかしたら、世界の認識が大人っぽさの原因になっているのかもしれない。先の“バカッター”に対抗する訳ではないが、私はどちらかというと、「自分の意見は受け入れられないのだ」という意識が深層にあるような気がする。特に創作中は、自分はアブノーマルなのではないかと不安に駆られ、認めてもらえないという感覚が常につきまとっているように思う。
「自分の意見が受け入れられない」という意識は、見方を変えれば「世界には自分と違う考えの人間がいる」という認識でもある。つまり、まったく考え方の違う人間がいるんだと理解してしまえば、異文化もある程度は許容出来る。存在そのものを認めてしまえる。そうして、いろんな意見に出会ってもぶつからず平穏に対処出来る、“大人”になれるのかもしれない。
ただ、自分の意見が通らないとわかったとき、全員が“大人”になれる訳ではないのだろう。“自分と異なるモノ”というのは、無意識的に嫌ってしまうものである。あえて挙げるまでもないが、オタクと非オタクの間の論争など、顕著な例だ。人間は感情を持つ動物に過ぎないから、嫌悪感があることそのものはどうしようもない。けれど、嫌だと思った後でどうするか――そこで人間性が分かれてくる。自分と違うからと徹底的に突き放すのか、受け入れられないけど特に攻撃しないでおくのかは、大きな差だ。
前者の場合、とにかく批判として色々理屈をこね上げるだろう。酷いときは、自分と違う意見を持つ人は悪者だと扱う場合もある。そういう人は、やはり外から見れば“子供”だと呼ぶほかないだろう。
けれどそういう人もいると理解していれば、叩き上げるなどという無駄なことにエネルギーを使いたくはないと考えるようになる。人を貶めるより、もっと自分のためになることを考えればいいのだ。むろん、自分や社会に直接的に悪影響を及ぼす存在ならば徹底して矯正すべきだ。けれど大半の人が批判していることというのは、実害があるから批判しているのではなく、「自分が不快だから」という理由が多いように思う。別に不愉快になるだけで実質的な損がないのなら、見ないでおけばいいだけの話である。相手や、全然関係のない人間まで不愉快にさせる必要など、どこにもない。
私はオタク寄りの人間だ。だからオタクでない人達――だいたいはリア充と呼ばれる――がオタクに対する中傷をしているのを見かけると、悲しくなる。けれど、彼らがオタクを“理解出来ないモノ”として見ているように、私もリア充と呼ばれる人達を理解出来ないモノとして見ている。最初は避けたいひとびとであったが、最近はまあ受け入れる程度には認識している。
たぶん、慣れなのだろう。小学生や中学生の頃、クラスの特に女子は「きゃぴきゃぴ系」というか「はっちゃけ系」と呼ぼうか、ともかくそういう人が多かった。当時からアニメやゲームが好きだった私にとっては、芸能人やアイドルの話で盛り上がる彼らがまったく異次元に住んでいるように見えた。つまり、その段階ですでに「自分と他人は違う」という壁にぶつかってしまったのである。
それがどうして今の人格形成に至っているのかはわからない。ただそういう世界という異次元からはじき出された存在のように、自分が思えて仕方なかった。そういう異質な人々ばかりいる人間が多く集まっている人から離れたいという欲求で、市外の、あまり希望者のいない(というのは偏差値のそこそこ高い進学校でもあったからでもある)高校を選んだくらいである。
受験して合格し、晴れて第一希望のその市外の高校に通ったはいいが、その高校もまた、くせ者だったと呼べるかもしれない。地域の様々な中学校から志望者がいるからか、学校を表す漢字として「変」が上位に来る高校だったのだ。事実、変な人達ばかりだったと記憶している。放課――もとい、休み時間にAKBやももクロといったアイドルの話で盛り上がる人達もいれば、ゲームやマニアックなところでは声優ネタで盛り上がる人もいた。かと思えば真面目な体育会系もいるし、SSH指定の高校だったことも手伝って数学オタクや物理オタクもいた。しかも雰囲気のせいかほとんどの人が自重しないもんだから、余計カオスだった。
こうした経験を積み重ね、かつネット上の個性的な人達と交流をしていたから、色々な考えを持つ人がいる、という結論に至っているのかもしれない。結果、なるべく争いの種をまかないように努めているのだろう。
事を荒立てないのは、天邪鬼さも理由の一つだろうか。私はメジャーなものを見つけると、どうしても気分が盛り下がってしまうのだ。すでに人がいる場所に、あえて乗っかることは少ない。つまり、すでに論争され尽くしている話題だと、どちらの意見に賛同するでもなく批判するでもなく、俯瞰的に見て自分の意見をぽつりと漏らすだけになってしまう。その意見というのも、全てを総合してかみ砕いた結果のものだから、いっそう個性的に映るかもしれない。
だからまあ、論争を横から見ているうちはかえって冷静になってしまう。双方とも落ち着けばいいのにと思ってしまうこともしばしばだ。こういう部分がもしかしたら“大人っぽさ”の一員かもしれないが、私自身にはよくわからない。
偉そうに言ってきたが、所詮私も未熟で不完全な人間にすぎない。感情的になることだってあるし、勢いのまま人を傷つけたり不快にさせてしまうことだってあるだろう。実際、ブログなんかを見返してみるとずいぶんと失礼なことを口走っていたものだと感じることもある。まだまだ未熟だったのだと思ってしまう。
それにきっと、この文章も未来の自分は馬鹿なことを、と思って読んでいるに違いない。裏を返せば成長しているということなのだが、伸びしろがあるうちは未熟なのだ。
ただ、この「自分は未熟」という認識そのものが、一つのステップなのではないか、とも思う。自分は感情に振り回されるのだということを把握していれば、そうなったときに対処もしやすい。どう行動すればいいのかも見えてくる。その上、他人の心の動きも、何となくわかるような気がするのだ。
子供というのは、相手の心の動きなどお構いなしに自分の心をぶつける。だから、相手の心を慮って行動する人というのは、“大人”だ。私はそれができているとは言わないが、一つのステップを踏めているのかもしれない。けれどまだ未熟である。
実際、一流の人間というのは、奢らないものである。それは謙遜でも自虐でもなく、「もっと上手くできる」という前向きな捉え方だ。そうして突き詰めて「完全」に近づいていく。しかし、誰も完全になったとは思わないのだろう。むしろ、自分は「完全な」存在だと豪語する人間の方が、痛々しく見える。我々は完全にはなれず、できて完全に近づくことだけだ。それができるのも、自分は未熟なのだという認識を持っていたときだけである。
結局、こういうことを書き出すから老成しているなどと言われるのだろうと、自分でも思ってしまった。