スポーツへの姿勢
私が部活において、男子相手にも引くつもりもないというのは別の話で述べた。特に高校時代は、体育などどんなスポーツでも全力で取り組んでいた。いわゆる体育会系の考え方をしていたのである。
「創作をしている人は運動が苦手で体育が苦痛な人が多い」というような内容の文章を見たことがある。所詮匿名のSNSにあった書き込みなので、これがどのくらい普遍性のある規則なのかは私にはわからない。ただ、もしこの言葉が正しいのであれば、運動好きの私は例外ということになるのだろう。
今でこそ体育や運動系部活に肯定的な私だが、昔からそうだったかというと、実は違う。むしろ、小学生の頃は運動が苦手な子供だった。かけっこやマラソン大会はびりっけつ、球技であるバスケも形がなっておらず下手くそだった。前転などのマット運動はそこそこできたが、跳び箱や鉄棒は大嫌いだった。おかげで今も逆上がりができなかったりする。また、私が通っていた小学校では5、6年になるとほぼ全員が秋に陸上競技の練習をするのだが、私は選んだ種目のハードルで倒しすぎて最終的に怖くて跳べなくなってしまった覚えがある。
ともかく小学生の頃、体育は苦手科目だった。運動会も全体種目は好きだったが個人種目は嫌いだった。自分が下手なのが見えてしまうからである。通知表も体育のところだけ点数が低く、親にも「仕方ないね」と思われていたくらいだった。
そんな私が体育会系の考え方をするようになったのには、一つの大きな出来事があったからだった。小学校6年のあの冬が、私にとっての一つの転換期だった。
冬に行われる体育として定番の、マラソン大会。毎年行われるそれは、当然6年生の時にもあった。先述の通りマラソンなんて大っ嫌いだった私にとって、苦痛の時間であった。
小学校は2クラスあり、体育は合同だった。確か男女に分かれ、それで練習していたように思う。女子の担当は、私のクラスではない、もう一方のクラスの担任の先生だった。その先生は若い女の先生だったのだが、かなり熱心だった。先生は足の速い子も遅い子も関係なく、グラウンド2周くらいを規定の時間以内で走るように練習させた。その規定のタイムというのが生ぬるい物ではなく、かなりガチだった。細かいタイムは覚えていないものの、当時遅い部類であった私にはかなりきついタイムであったことだけははっきりしている。
今思えば、あれは長距離における練習法の一つだったのだと理解することができる。事実、中学の駅伝の練習も、グラウンド2周の約400メートルを規定のタイムで何度も走らされた。そうすることでペースを体に刻ませ、実際に長く走ったときもそのペースを崩さないようにさせるのだ。
だが、当時の私はそんなことを知らなかった。第一、嫌いなマラソンはだらだら走ったってきついのに、速いペースで走らされれば堪らなかったのである。たぶん、これを読んだ方に運動嫌いな人がいれば、何という鬼教師だと思うことだろう。
さらに、先生は「遅くてもいいから」などという甘い言葉はかけず、規定のタイムで走りきることは当然だと言いたげな態度で指導していた。相当ガチだったのである。私は妙なところで生真面目だったものだから、その先生の態度を見て焦った。やらなければならないのだという思いに駆られるようになったのだ。
そんな苦痛の練習を続けて、とうとうマラソン大会当日になった。そこで私は、ドベではなくなっていた。タイムも急上昇していた。さすがにトップになるということはなかったが、それでも真ん中くらいの順位だったように思う。ベリ争いだったはずの人間が真ん中まで昇ったのだから、大きな成長と見ていいだろう。
これが、私にとっての転換期の一つだった。当時は特に感慨にふけっていた記憶はないが、心のどこかで“自信”に繋がる経験だったのだろうと、今なら思える。それにしてもあれだけ嫌だったというのに、よく耐えて練習に励んだものだ。もしあのとき挫折していたら、私は相変わらず体育なんて大っ嫌いだったかもしれない。
と、これが転換であったのは間違いない。が、それだけが今の自分に直接繋がるかというと、それは違う。人生とは色々な経験が混じって複雑になっていくものだ。
もう一つの転換は、中学の部活だった。別の話で述べたとおり、私は中学も高校もソフトテニス部に所属していた。何故テニスだったのかというと、一番の理由は「なんとなく」である。
先述の通り少しは運動能力が改善されたとはいえ、それが全て自信になった訳ではなかった。だから最初のうちは、文化系の部活も候補にあった。私の中学にあった文化系の部活は、吹奏楽部と美術部だった。小学生高学年の時にあったマーチング(ブラスバンド)で何か楽器をやっていれば吹奏楽部も視野にあったかもしれないが、トランペットなどは吹けないとわかっていた私にとって敷居の高い部活だった。
一方で美術部は、私は絵を描くのがそれなりに好きだったから、興味を引かれた。だがその中学において美術部は、あまりよろしくない噂が流れていた。なんでも、何らかの理由で元の部活にいけなくなった人が、それでも参加が義務づけられていた部活に参加するために設けられた部活だということだった。つまり、最初から美術部を選択するのは邪道中の邪道だと言うことである。事実、私が美術部も面白そうだという旨を親に話したら、「最初から希望する部活じゃない」と反対された。
そうすると、あとは運動系の部活しかない。中学の女子が参加出来る部活は、ソフトボール部、テニス部、バスケ部、バレー部、弓道部、剣道部の6つだった。実は卓球部もあったのだが、男子だけで女子はなかった。
上記の6つのうち、一番動かなさそうなのは弓道部である。だが一応は運動部の部類に入り、特に一年生は体力作りをさせられるのは変わらない。また、バスケットボールは小学校の球技でやっていたので、候補ではあった。しかし大して上手くもなく、バスケは第2か第3希望にとどめ、第1希望は初めてやるスポーツにしようと決めていた。
バレーはやってはいなかったが小学校の球技の種目だったので、珍しさはなかった。だからソフトボール部、テニス部、弓道部、剣道部が候補になり得た。この中で、剣道部とソフトボール部はあまり心引かれなかったように思う。見学は全部行ったはずだが、体験入部はしなかった。
残ったのはテニス部と弓道部だが、結果的にテニス部を選んだ理由は、「何となく」だった。きっかけは、母親の言葉だった。母も一度、テニスをやったことがある、ということを聞いていたのだ。つまり、「何となく親近感がある」――そんな理由で、私はテニス部に入部することになった。
テニス部と言えば、がっつり運動系部活だ。バスケほどではないが、ぱっと見でも運動量の多そうな部活であることは想像に難くない。当然、というか運動系の部活ならどこでもそうなのだが、一年生はとにかく体力作りがメインだった。
まずはコートの周りを数周走る。しかもただ走るだけではなく、バックステップやケンケンパやサイドステップなどが組み込まれていた。これは一年生だけでなく、上級生も最初のウォーミングアップとして行う。
その後、一年生は指導担当の二年生について体力作りのメニューに入る。まずは砂のペットボトルをおもりとして持ち、学校の外周を3周走る。テニスコートやグラウンド、校舎より外をぐるっと回るのだ。それが終わると股割りといって、大股で10メートルほどの距離を往復する。大股と言っても、前に出した足はほぼ直角に折り曲げ、後ろ足の膝がぎりぎり地面に付きそうなところまで体を沈ませるくらいの大股だ。やってみるとわかるがこれが案外きつく、太ももがかなり痛くなる。
その後は腕立て伏せや腹筋と行った筋力トレーニングを行い、もも上げをする。さらに二人一組で5㎏のボールをワンバウンドさせて投げ合う。その後にようやくラケットを使ったテニス独自の練習になるのだった。
果たしてこれが、どのくらいハードに見えるのかは私にはわからない。けれど入部したばかりの頃はかなり息が上がってしまい、ひょっとしたら喘息の発作も出ていたかもしれない。それくらいきついメニューであったことは覚えている。でも諦めなかったのは部活動が必須だと思っていたからなのか、あるいは前述の出来事があったからなのだろうか。
そうやって練習を続けていたから、半年経って夏になった頃には選抜陸上のチームになっていた。選抜陸上というのは、市の陸上大会に出場するために選ばれた選手によるチームである。選ばれたと言っても、学年で100人、全体でも300人に満たない生徒数の中学だったから、たかがしれている。けれど学年の中で選ばれるくらいには運動能力が向上していたのは、紛れもない事実だった。
「やればできる」という経験があれば、新しいことに挑戦しても自信を持って挑めるのだという。私にとっては小6の特訓と中学の体力作りが「やればできる」の経験だったのだろう。だから中学や高校時代、体育が苦痛だと感じることは少なかった。むしろ、楽しいと感じることが多かった。マット運動も剣道も、バドミントンもバスケットボールもハンドボールも、サッカーもソフトボールも、当然ながらテニスも。どの種目も全力で取り組み、下手ではあったが「できない」と思うことなく練習した。
ちなみに、バドミントンは小学5年のクラブ活動でやったことがあった。けれどそのときはてんでシャトルを打ち返せず、ビリ確定だった。けれど高校の体育でやったときは基本上位だった。男子やバド部の女子にもかなり緊迫した試合ができるくらいでもあった。バドミントンがテニスと同じくラケットを使う競技で、ルールや戦略も似通っていたというのもあるかもしれない。ずいぶん成長したもんだと、授業中に思ったものである。
運動の苦手だった私がここまで成長出来たのだから、努力次第で人は変われるのだ。自分には才能がないからと、諦めるのは早い。少なくとも、運動においては正しいことである。もちろん、色々な物に当てはまる事実なのだが。
ただ私が経験を語ったところで、それは説得材料には多分ならないだろう。結局私はある種の才能があって、それで環境が整ったから運動出来るようになったのだろうと言う人もあるかもしれない。才能と努力というのはいつでも「未知の可能性」を秘めているが故に、一概に言い切れない。もう少し言うと、いつでも覆される可能性がある、ということだろうか。可能性があるのは目に見えており、しかしあるとは限らず、ややこしい議論である。
さて、偉そうに言ったが、私には運動の才能はない。というのが、今のところの結論だ。というのも、やはり下手だったからである。選抜陸上に選ばれたりはしたが、選ばれた中では落ちこぼれだった。チームの中では一番タイムが悪かったかもしれない。だから、選手になるところまでいかなかった。
強いて言えば、三年の時に何故か短距離になり、200メートル走の選手として出場したことはある。が、期待されていたというより参加点稼ぎのようなもので、100メートル走の方に有力選手を入れたら200メートルの選手がいなくなったからあてがわれた、という感じだったように思う。つまりその程度の実力だったのである。当然、本番でも大した成績ではなかった。
またソフトテニス部も、5年ほど続けた割には下手だった。中学でも高校でも、大会で好成績を上げたことはほとんどなかった。そもそも、打ち方に癖があった。体の使い方が悪く、おかげでボールの飛ぶ方向にムラがある。安定しなかったのだ。直すように色々努力はしていたのだが、結果的には変な癖のままだった。
また、体育でやった種目のうち、バドミントン以外ははっきり言って下手だった。サッカーのボールは変な場所に行き、バスケのシュートはあらぬ方に飛び、という具合なのだ。その代わり、食らい付き方だけは一人前だった。全力だったからである。
だから、私はもともと運動の才能はなくて、鈍くさい奴なのだろうと思っている。もちろん、ただ努力が足りなかっただけだと言うこともできる。ある人は1回の練習で物事を覚えるかもしれないが、別のある人は10回練習が必要だ。と、そんな話を聞いたことがある。だから私は後者の方で、まだ8回しかやっていない状況かもしれない。神様ではないから正確にはわからないが、その理論に基づけば身につく規定回数まで達していないことになる。
とはいえ、一般的に「生まれ持った才能がある」というのは前者の1回でできる人、もしくは少ない回数で習得出来てしまう人のことを言うだろう。だから5年ほどかけていまだ身につけられなかった私には、やはりもともとの才能はなかったのだ。