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最速の女王  作者: YASSI
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エレーナの居場所

 アレクセイのオフィスから自室に戻ったエレーナは、独りで洗面台の鏡に向かっていた。ナターシャとスベトラーナはコースに出て走っている時間だ。じっと鏡に映る自分の顔をみつめる。遠くにバイクのエンジン音が聞こえていた。あれはナターシャとスベトラーナの音だ。ここにいる候補生の走りしか知らないエレーナだったが、それが美しいハーモニーを奏でているのが判る。


 スベトラーナは、毎周正確に同じメロディーを奏でている。それを見守るように丁重に音を重ねているのは、ナターシャさんに間違いない。


 自分たちは、実際にはどれくらいのレベルなんだろう?本当に世界に通用するんだろうか?


 アレクセイを信じるしかない。今の自分に残されているのは、両親から授かったこの身体と二つの輪しかないのだから。


 エレーナは、スベトラーナの物入れからハサミを借りた。



 セルゲイは、目の前を通過する候補生たちのエンジン音に耳を傾けていた。


 ようやくまともに回るエンジンに仕上がってきた。日本製の80ccモトクロスバイクのエンジンのフルコピーから発展させた自国製レーシングエンジンはよく壊れた。無理にパワーを引き出しているので、セッティングもシビアだ。

 それにしても、驚くのは彼女たちの上達ぶりだ。おそらくオートバイはおろか、自転車さえ乗った事もない子もいた筈だ。いくらオリンピッククラスの運動神経とはいえ、いきなりGPライダーになれと言われて、短期間でよくここまで成長出来たものだ。しかも、いつ焼き付くかわからない手探りのバイクでだ。自分なら怖くて走れない。

 初めて来た時は、実用バイクで土の上をおっかなびっくりで走り始めた少女たちが、いつの間にかマシンの開発ペースを追い越していた。彼女たちに身合うだけのマシンに仕上げなくてはならない。

 それはつまり、世界トップレベルのレーシングマシンを開発しなくてはならないと言うことだ。はじめからそう命令されてはいたが、どこか夢物語だと思っていた。しかし、ライダーは既にトップレベルに近づきつつある。セルゲイは、責任の重さをひしひしと感じた。


「私のバイクを準備して欲しい」

 候補生の走りを観察し、改良すべき点を思案していたセルゲイは、突然話し掛けられ、振り返って驚いた。ヘルメットを小脇に抱え、ライディングスーツに身を固めたエレーナがそこに立っている。しかも、いつもは後ろに束ねていた肩まで届く位のプラチナ色したブロンドヘアが、ばっさり無くなっている。ポニーテールだけでなく、髪すべてを少年のように短く刈り込んでいた。


 先週、アレクセイに、エレーナをバイクに乗らせるのを禁止されていた。最近の彼女の様子では当然の判断だ。

 つい先ほど、そのアレクセイから、「エレーナがバイクに乗りたいと言ったら、いつでも走れるように用意しておいてやれ」と言われた。何があったかは判らない。だが、そこにいるエレーナの目は、先日までの虚ろさは微塵もなく、自殺願望のような危うさもない。以前のような意思の強さ、否、以前以上の決意を宿らせている。


「ずいぶん早かったね。ちょうど中佐からきみがそろそろ走りたがるから、用意しておくように言われたばかりだ。大丈夫、きみのバイクはいつでも走れるようにしてあるから」

「……」

 エレーナは、自分がアレクセイの思惑通りに動いている事が癪にさわったが、すぐに自分を落ち着かせた。奴はやはり信用出来ない男でも、現段階では自分と目標を共有している。彼の言葉通り、利用されるふりをして、利用させてもらおうと考えを切り替えた。

「今走っている子たちの走行時間が、もうすぐ終わる。それまでにエンジンを暖めておくから、身体のウォームアップをしながら待っていてくれ」

「私の準備はもう出来ています。慌てなくてもいいから、念入りにチェックをしてください。恥ずかしながら、オートバイの仕組みがまだよくわかっていない。あなたたちが頼りです」

 上からの物言いに聞こえなくもないが、セルゲイはむしろ、エレーナの気使いを感じた。彼女は、何度もコーナリング中にエンジンの焼き付きに見舞われ、固いコンクリートの路面に叩きつけられていた。まるでヤスリのような路面に、十代のすべらかな皮膚の多くを削られている。おそらく生涯残るだろう。大事に至っていないのは、彼女の運動神経と柔軟な身体があってのことだ。批難されても仕方ないのに、自分たちに期待してくれている。それだけ、どうしても果たさなければならない目的を抱えている。

 セルゲイは、これ以上彼女を傷つけたくなかったが、エレーナにとっては、一刻も早く世界へ羽ばたきたいにちがいない。それがわかっているだけに、安易な言葉は掛けられない。


 メカニックたちは、エレーナを「壊し屋」と呼んでいた。彼女が一番よくエンジンを焼き付かせていたからだ。それは、彼女がエンジン性能を最大限に使い切っているからでもある。

 エレーナの走りに耐えれるマシンを造る事が、技術者たちの課題だった。

 エレーナが走行禁止になった時、セルゲイは正直ほっとした。いくら改良を重ねても、エレーナはマシンの限界まですぐに追いついてしまう。彼女に急かされるように、マシンの修理と開発に追われ、休む暇もなかった。


 もう休みは終わったようだ。これからまた忙しくなる。もっと忙しくしてくれる予感を感じた。文字通り、きみが身を削ってまで洗い出したマシンの欠点は、すべて改良してみせる。俺たちも命懸けできみが乗るに相応しいマシンに進化させてやる。


 ナターシャたちがガレージにマシンを戻す頃、一台のバイクがコースに出ていった。ゼッケンプレートに描かれた『E』の文字を見なくても、それがエレーナだと気づいた。ナターシャとスベトラーナは顔を見合わせた。二人は同じ心配をしていた。


 今朝のエレーナの様子では、まだとてもバイクに乗れる状態じゃないはず。エレーナに限って自暴自棄になるとも思えないけど、大丈夫なの?


 他の候補生たちも、心配してコース脇に戻り、エレーナの走りを見つめた。体操チーム出身者以外にも、彼女に憧憬をよせる少女は増えていた。たとえ代表を争うライバルであっても、エレーナに敬意を抱かない者はいなかった。

 此処に集められた者たちは誰もが、それぞれの競技で世界を目指せるだけの才能と努力を重ねてきた者たちだ。実力はあっても、指導者のめざすスタイルに合致しなかったり、方針から外れた者たち、中には身長の伸びる見込みがないと言う理由で夢を諦めさせられた者もいる。程度の差こそあれ、みなエレーナたちと似たような経緯で此処に連れて来られた。不安とやるせなさに圧し潰されそうになる彼女たちに、再び闘志を奮い起たせたのは、エレーナの存在だった。

 エレーナが悲しみに暮れている時、まわりは何も出来なかった。エレーナが悲しみの共有や同情など求めていないのはわかっている。ただ見守り、闘志を取り戻すのを祈る事しか出来なかった。


 今、エレーナが再び走り始めた。それがなにを意味するのか、ナターシャとスベトラーナすら判断がつかない。


 エレーナが目の前を通過する。まだゆっくりしたペースだったが、カウルに伏せたヘルメットの奥には、氷河の裂け目から覗くような蒼い瞳が、鋭く前を見ていた。


 エレーナは徐々にペースを上げていった。先週、最後に乗った時より、格段に走り易くなっている。それが心理的なものなのか、セルゲイたちの成果なのかは判らない。彼がベストの状態のマシンを用意してくれたのは確かだ。エレーナは彼に感謝した。


 コーナーが迫る。ほぼ100パーセントのスピードに達している。コース脇から観ている候補生たちが視界の片隅に映った。

 スロットルを僅かに戻し、ノーブレーキでマシンを寝かし込む。倒すと言った方が適切なほど一気に、ブーツの小指の辺りと膝が路面に擦るまでフルバンクさせた。遠心力でタイヤが悲鳴を上げる。肘まで擦りそうになりながらも、バランスは崩していない。

 高いスピードを保ちながらコーナーの頂点を掠めていく。そこからスロットルを開けながら、徐々にバイクを起こしていった。タイヤは横Gに加え、エンジンパワーまで圧しつけられ、さらに悲鳴をあげていた。


 大丈夫、まだ軸は乱れていない。


 身体コントロールのエキスパートは、既存のライダーとは違う感覚でコーナリングの本質を捉えていた。

 路面にブラックマークを刻みつけ、次のコーナーに向かっていく。


 コース脇にいた候補生たちから拍手が沸き起こる。少女たちは、エレーナが復活を確信した。

 誰よりもアグレッシブな走り。スベトラーナやナターシャに比べれば、ラフさも目立つが、それを上回る力強さがある。


 エレーナが走行を終えてガレージに戻ると、候補生仲間に取り囲まれた。自分が走っている時、コース脇で騒いでいたのには気づいていたが、なにがなんだかわからず戸惑う。

「一体なに?なにかまずいことした?」

「みんな心配していたんだよ。このままエレーナがやめちゃうんじゃないかって……」

 スベトラーナが泣きながらエレーナに抱きついてきた。みんなが心配していたことすら気づかないほど思いつめていた事を、初めて自覚した。

「心配させて悪かった。だからとりあえず放してくれ。まずはバイクを降りて、ヘルメットを脱がさせてほしい」

 なんとかスベトラーナを引き離し、バイクをセルゲイに預けた。

 そしてヘルメットを外すと、再び騒ぎが起こった。


「きゃーっ、誰、この美少年?」

「エレーナが男になった!」

「もしかして本当は元から男だったとか」

「私、危険かも?モロタイプだよ」

 悲壮な覚悟をもって髪を切ったエレーナだったが、仲間たちのこのバカな騒ぎに思わず心が和んだ。


 すべてを失ったと思っていた彼女だったが、失っていないものも、まだ沢山あることに気づいた。運命をともにしてきたチームメイト、此処で出合った候補生たち、そして憧れのナターシャ。みんな同じものをめざすライバルであり、信頼しあえる仲間でもあった。孤独じゃないとわかっただけで、これほど勇気が湧くとは思いもよらなかった。

 立場の違いはあっても、セルゲイも、そしてアレクセイすらも味方と認めた。それぞれの思惑はあっても、エレーナたちに協力を惜しんでいない。


 ある意味、此処は邪魔になった連中の寄せ集めだ。それなら全員で協力して、世界を見返してやる。邪魔者の意地を思い知らせてやろうと決意した。


 エレーナにとって、世界から隔絶されたこの地が、第二の故郷となった。


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