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最速の女王  作者: YASSI
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英雄の死

 エレーナたちは、鉄道で三日掛かって聞いた事もない町に連れていかれた。最後の数時間は、ずっと長いトンネルを走っており、外の様子はまったくわからなかった。実際は、トンネルと言っても地中深くを通っているのではなく、上空からわからないようカモフラージュされているだけである。


 列車から降ろされて目にしたのは、番号が描かれていなければ区別もつかない高層アパートが無機質に並んだ町並みだった。エレーナは自分の生まれた町にどことなく似ていると思った。故郷より、遥かに殺風景だ。

 居住区域を抜けると滑走路が何本も並ぶ広大な土地が広がっていた。彼方にかまぼこ形の格納庫が延々と並んでいた。全体が定規で牽いたように整然としているが、何の飾り気もなく、活気も感じられなかった。


 アメリカの偵察衛星がこの町を確認したのは80年代初めである。以前から、ソ連の何処かに秘密裏に軍用機の開発生産をしている秘密の町があると言われていた。

 同国人であっても、そこで働く従業員と家族、軍の限られた人間しか、その地区に近づく事も許されない、地の涯にある秘密の町に連れて来られた。そこの滑走路が、彼女たちを世界最速のレーシングライダーに鍛え上げる場であった。


 此処まで来るとエレーナも不安になる。啖呵を斬ったものの、オートバイなど乗った事もない。それでも表情には出さず、自信満々に振る舞い続けた。

 彼女たちの生活する所は、飛行場の隅にある兵舎で、三人部屋が与えられた。エレーナとスベトラーナ、もう一人は先に来ているライダー候補だと言う。これから四六時中一緒に過ごす相手がどんな人か、期待と不安を抱いて部屋に入って驚いた。引退した体操界のヒロイン、二人の憧れのナターシヤ・オゴロワその人だった。


 二人は憧れのナターシヤと同室に、これまでの不遇を忘れ大喜びした。ナターシヤも二人の事を知っていて、ここまでの経緯を考えれば心中は複雑であったが、逢えたことを歓んでくれた。この時、エレーナもスベトラーナも、憧れの選手に会えた13才の少女の笑顔をしていた。


 そこでのトレーニングは、予想通り過酷なものだった。体力的には、体操時代に較べても耐えられないものでない。

 怖いのは、やはり事故だ。一年で50人近くいた候補者が、半数以下になっていった。ほとんどが怪我による離脱である。エレーナと一緒に来たチームメイトも二人が長期治療の必要な怪我で去っていった。残っている者も生傷は絶えない。

 軽量化と動き易さを優先した独自のレースウェアは、滑走路の舗装に削られれば、忽ち皮膚が剥き出しになった。しばらくして公式な安全基準を充たすウェアが支給されたが、リスクが完全に無くなるものではなかった。


 どんなに辛く苦しい時も、宿舎の部屋で三人で過ごす時間はかけがえのない時間だった。

 運命を共にしてきた仲間が、スポーツ選手としての希望が失われるのを見るのはつらい。そして、それがいつ自分の身に起こるか。どんな困難状況でも立ち向かってきたエレーナにとっても、鍛え上げてきた身体が、鉄とコンクリートによって壊されるのが怖い。ナターシャとスベトラーナの前でだけは弱音を吐く事が出来た。

 そんな時も、ナターシヤは力強く励ましてくれた。

 彼女は、二人に体操時代にもチームメイトが落下で半身不随になった時の話をしてくれた。

「どんな競技にだってリスクはつきものよ。私だって怖くて演技出来なくなった時期があったわ。でも世界をめざすならリスクを怖がってばかりじゃダメ。無謀は駄目だけど、勇気も必要よ。裏打ちされた自信、二人とも持っているでしょ?体操で新しい大技試す時の危険性に比べたら、オートバイなんて全然大した事ないじゃない?」

 ナターシヤの言葉に、どれほど勇気づけられた事か。

 スベトラーナにとっては、他の者の前では絶対に見せないエレーナの素顔に、ここでの生活も悪くないと思える時間だった。


 三人は、共に励まし合って、レーシングライダーとしての基礎を身につけていった。そして、ここでもエレーナとスベトラーナがトップを争うようになっていた。


 エレーナを本当に悲しみに暮れさせたのは、世界を震撼させたあの事故が起きた時だった。


 彼女は突然、生まれ故郷と父親を失った事を告げられた。


 エレーナが生まれ育ったのは、ウクライナ北部のプリピャチと言う町である。巨大な原子力発電所の従業員居住地として造られたその町で、消防士をしていたウラジミールと小学校教師のサラの夫婦の間に、エレーナは長女として生まれた。


 その原子力発電所で火災が発生した直後に、放射能に対する装備も、危険性も知らされる事もないまま、ウラジミールは現場に入り、懸命に消火活動を行った。そして大量被曝した。故郷は死の町となり、思い出の詰まったアルバムすら、二度と取りに戻れない。


 世界から隔てられた地にいたエレーナたちが事故を知らされたのは、事故発生から三ヶ月も過ぎた頃だった。


 エレーナには、特別にモスクワで催される英雄喪への出席が許されたが、彼女は拒否した。

 同情と愛国心高揚に利用されるのに耐えられない。其処に父の遺体はない。ウラジミールは事故後、三週間は生きていたと言う。その間の様子も、事故の原因も国家秘密にされた。父の看病をした母も間接被曝し、入院していると言う。見舞いはおろか、病院さえも教えてもらえなかった。すべて偽善に思えた。


 エレーナは三日間トレーニングを休み、部屋でただ泣き続けた。

 スベトラーナもナターシヤも、なにも出来なかった。家族も故郷も失ったエレーナを想い、共に泣くしかなかった。

 トレーニングに復帰しても、それまでの精彩は戻らなかった。集中力の欠如した彼女に、監督のアレクセイはバイクに乗る事を禁じた。彼女は生きる気力すら失っているように見えた。


 エレーナだけ、別メニューの基礎トレーニングを命じられて一週間が過ぎた頃、アレクセイに呼ばれた。彼のオフィスで、父親に政府から授与された勲章を渡された。

 彼女にとって、それは偽善の証しにしか思えなかった。いったい何が起こって、どうやって死んでいったのかもわからない。エレーナには父親に関わる品は、故郷を出る時に持って来た、たった一枚の写真だけである。怒りをぶつける相手すらわからない。


「悔しいか?エレーナ」

 アレクセイは悲しみに沈んだエレーナに訊ねた。彼女は力無く頷いた。一年前、自分の頬を張った戦乙女の姿はそこに見当たらない。エレーナがこれほど脆い面を持っているとは、アレクセイも驚いたと同時に安堵もした。どんなに強い者でも、弱点はある。強い者ほど、その弱点は致命的になる可能性がある。今のうちにそれがわかったのは、幸いと言えた。これを乗りきれば、彼女はもっと強くなるだろう。


「悔しさより、哀しみに打ちのめされているという感じだな」

「……」

「おまえが私を信用していないのは知っている。私にはおまえを慰めたり、励ましたりする事も出来ない。だが、これだけは覚えておけ。人はどんなに悲しくても、腹は減るし、糞もする。それが人間の本性だ。父親を亡くした若い娘に、随分酷い事を言っているのは自覚している。だが、それが事実だ。頭がどう考えようと、本能は生存のための活動を止めない。いずれおまえの本能は、悲しむ事より、戦う事を優先するだろう」

 アレクセイの言葉は、悲しみに染まったエレーナの心を抉った。悲しみで食欲をなくしていても、一日何も食べなければ、空腹を感じた。トイレを我慢する事も出来ない。そしてこの国の仕組みに対する不信がが、もはや抑えきれなくなっているのを見透かされている気がした。

 アレクセイは、エレーナの変化を見逃さない。

「自分の存在を示したいなら力をつけろ。これからおまえが立ち向かう相手は、私など比べものにならないほど強いぞ。今のおまえの声など、何処にも届かない。この先もおまえを利用し、踏みにじろうとするだろう。踏みにじられたくなければ、力をつけろ。利用されるふりをして利用してやれ。私はおまえたちを利用する。おまえも私を利用しろ。おまえが世界の女王になるのに、協力してやる」

 エレーナは顔を上げた。アレクセイの顔を正面から睨みつける。一年前の第一印象は最悪だった。今も決して好意の持てる人物ではない。ただ、少なくとも、これまでの指導者よりは正直者である事は認めた。


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