小さな女王
「ハラショー!素晴らしいぞ、同志セルゲイ。今の台詞を聞いたか?あれがこの状況で13才の小娘の吐く台詞か?小便漏らして、泣きわめく場面だろ。それがどうだ、彼女の言葉が他の娘たちの動揺まで鎮めた。まさに戦乙女だ!」
モニターに向かって大喜びするアレクセイ・ジーロフ中佐に対して、セルゲイと呼ばれた青年は言い様のない不快感を抱いた。アレクセイは冷めた視線を感じて振り返った。
「何か言いたそうだね、同志セルゲイ。遠慮する事はない。思ったままの意見を聴かせてくれ。それがきみの仕事だ」
アレクセイは、国家が推し進めるモータースポーツ参戦計画の二輪部門総監督である。セルゲイはその補佐であり、技術責任者でもあった。
彼は少し躊躇したが、これ以上サディスティックな遊びにつきあわされるのは、生理的に耐えれなかった。
「悪趣味が過ぎます。彼女たちの精神面の強さは充分にわかったでしょう。ただの身体検査に、これほどの不安と恐怖を与える必要がどこにあるのですか?今すぐ馬鹿げた茶番をやめさせてください」
彼は言ってしまってから自分が言い過ぎた事を後悔した。相手の階級は中佐である。セルゲイは軍人ではないが、ここではアレクセイの気持ちひとつで、彼の運命などどうにでもなる。
アレクセイは、若い頃には自転車競技選手として活躍をした元アスリートだ。オリンピックはじめ、アマチュアの大会で数々の栄光を手にし、プロの大会でも、「出場すれば名実共に世界のトップ」と言われた名選手だった。しかし、社会主義体制はプロスポーツへの出場を認めていなかった。代わりに国家は彼に『英雄』の名誉を与えた。そして士官学校を出ていないにもかかわらず、中佐の地位が与えられた。選手引退後は、スポーツ選手の精神的適性を説いた独自の指導方針で、体育学校指導者の任に就いていた。精神的適性と言っても、闇雲な根性至上主義ではなく、トレーニング法においては、科学的根拠に基づいた非情なまでの合理主義を貫いている事でも有名である。
「人間の限界は、どんなに才能があろうとたかが知れている。能力が同じなら、最終的に勝敗を決めるのは精神力だ」
かつて自転車競技の世界で勝ち残ってきた経験から得た持論だった。しかし、それは時に他の指導者とぶつかる事も少なくなかった。指導者の指示を、機械のように正確に従う駒こそ、最良の選手だという考えが、多くを占めていた時代だった。
誰もが尻込みする、未経験且つ無謀な計画の責任者を任せられたのも、そのあたりの事情があったのかも知れない。しかしセルゲイは、単なる駒でなく、選手の意識を尊重するアレクセイのやり方を好意的に思っていた。この国の政策の斜め上を行く自分とは共通点もあり、補佐役に指名された時は、あまりの無謀さに呆れもしたものの、彼が本気でライダーを育てれば、クラスによっては頂点を極める事も可能かも知れないと思った。
だが、今の彼の姿からは、少女たちの運命を弄ぶ変狂的独裁者かマッドサイエンシストにしか思えない。
セルゲイは3年間、エンジニアである事を隠して、日本のソ連大使館に職員として駐在していた。国家の命令で、西側の最先端自動車工学を盗むためだ。
特許というものを、絶対不可侵だと信じる日本の企業は、違法な手段で盗み出さなくても、かなり高度な情報もオープンにしていた。当然、重要な部分は秘されていたが、エンジニアたちと個人的に話しをすれば、簡単に口を滑らせた。彼が文官だと油断もあったのだろう。断片的な情報を寄せ集め、整理し統合していく。細かなデータがなくても、輪郭は見えてくる。すぐにコピー出来る訳ではないが、それだけでも、祖国の研究室にとっては、貴重な指針となる。膨大な費用と時間が節約されるだろう。
そして彼は、サーキットにもよく足を運んだ。そこには、最先端のテクノロジーがある。彼がモータースポーツファンだと知った技術者たちは、ますます親しく説明をしてくれた。
やがて自費でレース用オートバイを買い、ローカルレースに出場し始めると、メーカーの技術者だけでなく、プライベートチームのライダーやメカニックまでもが、レースのノウハウを一から教えてくれた。試作品のパーツをわけてもらった事もある。
この頃には、セルゲイにとって、技術を盗むと言うより、学ばせて貰うという感覚になっていた。
たとえ技術者であっても、人間と人間のつきあいの大切さ、面白味は、アレクセイ中佐とも共有出来ると思っていた。だが、変態趣味は持ち合わせていない。
技術者としてだけでなく、西側のモータースポーツについての助言も彼の仕事だが、上官の趣味を批判するのは含まれていなかった。
「同志セルゲイ、3年も堕落主義体制に身を置いて、生温い価値観に染まったようだな」
「……失礼しました」
背中に冷たい汗が流れた。
「だが悪趣味である事は認めるよ。但し私とて個人的趣味ばかりでこんな演出した訳ではないぞ。きみも彼女たちの報告書を読んだろう。私が理想とする子たちだ。体格、運動能力、精神力。完璧に揃っている。中でもあのエレーナに関しては、完璧過ぎて誇張されている疑いがあった。この国の報告書は水増しが常になっているからね」
その報告書に関しては、セルゲイも同意見だった。特に変態コーチを撃退した経維など、にわかに信じ難い。
「しかし、これではっきりしたよ。人は絶望的状況にこそ、本性を現す。あの子は私の想像を超える本性を見せた。私の最終兵器だ。西側のレース界がひっくり返るぞ。資本主義の犬どもに、真のスポーツとはどういうものかを教えてやる」
それについてもセルゲイは意を同じくした。日本滞在中、サーキットで知り合った人々は、皆、友人としては素晴らしかったが、ライダーのスポーツ選手としての資質は、レベルが低いと言わざる得ない。才能、肉体、自己管理、精神力などアスリートとしての最低限の条件すら満たしていないライダーもいる。ローカルレースだけの話ではない。それが世界GPに出場しているライダーたちですら、ここに連れて来られた少女たちに比べれば、ママゴト同然の自己管理しかしていないのを見てきた。しかもそんなライダーたちでも、マシンにさえ恵まれれば、そこそこの地位にいる。
確かに、モータースポーツは特殊な競技だ。プレーヤーの身体能力は、あまり重要視されていない傾向がある。しかし、セルゲイ自身が経験してわかった。レーシングライダーには、反射神経、バランス、瞬発力、持久力、勇気、冷静さ、それらすべてを要求するスポーツだという事が。
確かに彼女たちがレース界をひっくり返す可能性は十分にある。否、むしろこのプロジェクトが失敗するとしたら、彼女たちのせいでなく、自分たち技術屋の責任と言える。アレクセイを全面的に信用はしかねるが、セルゲイはこの無謀と思っていた挑戦を、本気で取り組もうと決めた。
「これだけの逸材を、権力と保身の為に簡単に切り捨てるとは、我が国の体操界が世界をリードし続けられるのもそう長くはないな。しかしあれだな、同志セルゲイの言う通り、これ以上彼女たちを脅かす必要はない。私の大切な宝石たちを安心させてやろう」
アレクセイたちがホールに入って来たのは、エレーナが別室に向かう直前だった。
先に別室に入れられていたスベトラーナも再び連れて来られる。彼女の入っていった時と変わらぬ姿に全員が安堵した。
そして、アレクセイはこれからの彼女たちの運命を事務的に説明し始めた。
まず、もう体操競技への復帰は閉ざされた事が宣告され、GP参戦プロジェクトのライダー候補に選抜された事を告げられた。そしてこれから他の競技から選抜された者たちと更に厳しく篩に掛けられる事、怪我や最悪、死亡する危険性もある競技である事が説明された。
望まない者、或はこれからの選抜に洩れた者は、口外しない事を条件に故郷へ帰り、一市民として平穏に暮らせる事、又、傷害を負った場合も充分な補償をし、死亡した場合も国家の英雄として、名誉と遺族の生活まで約束した。
それは軍隊並にリスクが高い事を意味していた。
最後に、アレクセイは適性を試す為に悪戯な不安と恐怖を与えた事を謝罪した。
アレクセイの階級は中佐である。中佐と言えば、一般兵士からすれば神も同然だ。命令一つで兵士を死地に赴かせられる。それほどの地位にある者が、十代前半の少女たちに謝罪するのは極て異例な事である。セルゲイを含め、その場にいた誰もが驚いた。ただ一人を除いて。
アレクセイは、エレーナの心を掌握するには、決して力づくではいかないと判断していた。彼女に対し敬意を示すのが得策と考えた行動だ。だがそれは演技だけでない。彼は本心からエレーナに敬意を抱いていた。
しかし、ここでもエレーナの反応は、アレクセイの予想の遥かに上をいっていた。
”パーン!“ と皮膚を叩く音がホールに反響した。エレーナがアレクセイの頬を平手で張った音だった。
一瞬、場が凍りついたのち、兵士たちがエレーナを押さえつけようと飛び掛かったが、アレクセイが制止した。
エレーナは、下着姿のまま、堂々と氷のような瞳でアレクセイを睨みつけている。
「貴方が私を世界で戦わせてくれるなら、どんな競技だろうとやってやる。
だが、今度こんな形で私たちを試したら、私は貴方を殺す。私たちは今日、最悪を覚悟した。だからもう怖いものはない。私がさっきまで考えていた事を教えてやる。私と仲間を此処に連れてきた張本人をどうやって殺すかだ。この基地の兵隊全員に犯されても、そいつだけは絶対に殺すと決めた。私たちは理不尽な仕打ちに、もう我慢出来ない。二度とするな!
それを約束するなら、私たちは世界一になって貴方の出世に協力してやる」
まったく立場の判っていない発言だ。全員に犯されても私を殺すだと?現実に彼女が出来るのは、一人かせいぜい二人ぐらいに噛みつくか、股間を蹴るぐらいだろう。しかしどうだ、この度胸と根性は。そしてこの震えるような威圧感。協力してやるだと?素晴らしいぞ、どこまでも私の想像の上を行っている。
アレクセイは、この小さな女王に、この場で膝まづきたい気分だった。