壊された夢
夢に向かって駆け昇っていた少女たちの階段は、突然崩れ落ちた。
世界ジュニア体操選手権直前、代表メンバーを対象に事前にドーピングチェックが行われた。薬物使用がスポーツ界全体で問題化し始めた時期である。抜きでた選手には、絶えずドーピングの疑惑が噂されていた。
スポーツ省としては、世界の檜舞台でドーピングが発覚すれば、恥だけで済まない。発育途上のジュニア選手に対し、競技力向上の為に薬物を使用していたとしたら、世界中からパッシングされるのは逃れられない。功を焦った一部の指導者だけの責任では、世界が納得しないだろう。国そのものが世界中から非難されるのは間違いない。
女子体操競技では、あまり筋肉増強剤などで競技力の向上は期待出来ないし、他の薬物も、かつては人体実験まがいの研究がされていた事もあったが、デメリットの方が大きいという事で、少なくとも国家の指示としては禁止されている。それでも、万が一を期して、本番前に国内で検査しておく事になった。国家の関与がなくとも、体制そのものが批判される。
そしてスポーツ省からの命令で採取された代表メンバー全員の血液と尿から、禁止薬物が検出された。
急遽、代表チームは合宿中の食中毒とされ、代表メンバーが入れ替えられた。
エレーナたちは、身に覚えのない罪を否定した。どんな影響があるかも知らない。連盟の上層部も彼女たちが自らドーピングする知識も、入手する方法もないのはわかっている。食事も全て管理されている。おそらく、実績を作りたい指導者によって、当人たちも知らない間に投与されていたのだろう。
指導者たちは連行され、エレーナたちは寄宿舎に閉じ込められた。少なくとも、完全に薬物が検出されなくなるまで、競技への復帰は出来ないと宣告された。
何かの間違いで、きっとすぐ復帰出来ると思って練習を続けていた彼女たちだったが、何ヵ月経っても復帰の目処もなければ精神的に参ってくる。
自分たちに何の落ち度もない理不尽さ。何のケアもない副作用の恐怖。前任と派閥の違う新しいコーチ陣からの冷遇。新しい選手の台頭……。
代役だった補欠メンバーが、今や正式な代表チームになっている。スベトラーナの心も折れそうになった。しかし、エレーナは違った。黙々と練習を続け、仲間を励ました。スベトラーナも気力を振り絞って彼女に倣った。エレーナとの約束を守る為に。
「競技会にさえ出場させて貰えれば、実力を証明してみせる」
エレーナの言葉は、彼女たちの唯一の希望となった。一人一人がし烈な競争を勝ち抜いてきた選手たちである。誰もが自分の力に自信と誇りを持っていた。
施設内では、すべてがランクづけされている。器具使用の優先順位もランク順だ。これまでピラミッドの頂点にいた彼女たちが、早朝と深夜にしか満足な練習が出来なくなったが、エレーナの輝きに全員がつき従った。コーチもおらず、お互いがお互いを補助し合い、技術の指摘し合う深夜の自主練習。辛くはあったが、充実した時間だった。むしろ、それがなければスベトラーナも他の仲間も完全に心が折れていただろう。
しばらく、そうした日々が続いたが、突然、荷物をまとめるように言われた。彼女たちの運命は、激流に流される木っ端のように翻弄されていた。
彼女たちが連れていかれたのは、郊外の軍施設。スベトラーナは不安と恐怖に震えが止まらなかった。さすがのエレーナも脅えの色が隠せない。
体操学校を退学にされるなら、故郷に帰らされるだけだ。なぜ軍の施設に連れて来られたのか?
功績の為に、子供に薬物を使う連中だ。捕まったコーチ陣より高い地位の者が関わっていたとしたら、力を使って証拠を抹消しようとしても不思議はない。彼女たちも、そういう噂は何度か聴いた事があった。
窓に鉄格子の嵌められた大きなホールで全員、下着以外脱ぐように言われる。十代の少女に対する配慮はまったくない。ホールの端には男の兵士が下卑た視線を向けているが、逆らえる状況でなかった。
最初にスベトラーナが、別室に入るように命じられる。以前、変態コーチに襲われかけた記憶が甦り、膝が震えて歩けない。兵士の一人が近寄って背中を押すが、その場に崩れ落ちそうになる。
積み重ねてきた努力が、こんな形で終らされる悔しさに涙が溢れる。エレーナが守ってくれた純潔が散らされるのが悲しい。そうなる前に舌を咬み切ろうと決意した。
その時、エレーナの声がホールに響き渡った。
「スベトラーナ!私たちの体は、こんな連中に何されても、穢されるような鍛え方をしていない!どんな事があっても私たちは一緒だ。絶望するな!私が世界のてっぺんまで連れて行く。私は何をされても、絶対に約束を果たす!だから諦めたらだめだ、忘れるな!」
振り返るとエレーナは、ほとんど日焼けしていない、真っ白な肌を晒した下着だけの姿で堂々と胸を張っていた。プラチナ色した金髪が、窓を背に逆光で輝く。二人の兵士にたちまち抑えられたが、一瞬、彼女の全身が眩しく白銀に輝いたように見えた。まるで氷の妖精のようにも見えた。
エレーナ自身も怖いに違いない。スベトラーナにしか判らなかったが、声のトーンが僅に高い。怖くても、スベトラーナとチームメイトを勇気づける為に、そしておそらくは自分自身を奮い起たせる為に叫んでいた。
(エレーナは覚悟を決めている。私がみっともない姿を晒したら、みんなの不安が増すだけだ。最悪な事になっても、エレーナの一番の友だちとして恥ずかしくない態度でいよう)
スベトラーナは、牽き立てようとしていた兵士の腕を振り払って、自らの足で歩み始めた。膝の震えは止まらない。それでも精一杯胸を張って別室へ向かった。その姿に泣き出していた子たちも、声を噛み殺した。
今日、この場で人生が終わろうと、このチームにいた自分を誇りに思おう、と全員が覚悟した。