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最速の女王  作者: YASSI
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少女たちの誓い

世界最高峰のオートバイレース、GPの世界であらゆる記録を塗り替えたと言われる『氷の女王』ことエレーナ・チェグノワの若き日。

『最速の女神たち』の前の時代になりますが、前作の回想シーンだけでは描き足りないエレーナの少女時代を、詳しく書いて見ました。『最速の女神たち』を既に読まれた方は、より深くハマってもらえたらうれしいです。この作品から読み始める方も、楽しんで貰えるように頑張ってみます。まあ、投稿ペースが遅いので、まだの方は同時に『最速の女神たち』も読んでみてください。

 1980年代初め、ソ連邦ジュニア体操競技大会の12才以下の部で、二人のとび抜けた才能を持った少女が現れた。


 一人はスベトラーナ・カラシコワ。幼少の頃にその才能を見出だされ、6才からモスクワの国立体操学校で徹底した英才教育で育てられたスポーツエリートであった。彼女の実力は既に上のクラスでも入賞出来るレベルにあり、12才以下では敵う者がいないと思われていた。

 その大本命と対等の演技をし、総合では敗れたものの、跳馬と平均台では上回る得点を出したもう一人が、それまでまったく無名だったエレーナ・チェグノワと言う少女だった。


 体操連盟の指導者たちは、連邦全土から秀れた才能を発掘していたが、ウクライナの片田舎にいた、計り知れない可能性を持つ少女を見落としていた。

 幼少期に才能を見極めるのは難しい。子どもたちは、毎日成長していく。ある程度のセンスはわかるが、それがどこまで伸びるのかを判断するのは、極めて難しい。秘めていた才能は、突然開く事もある。

 彼らもウクライナの国内大会でのエレーナを視ていたが、その時は地方大会の優勝者の一人としか感じなかった。それでも充分に優れた才能なのだが、将来、世界最強の代表チームに加われる程の逸材とは思われなかった。

 しかし、国内大会で優勝した事で、エレーナ本人は、憧れていた代表チームが手の届く夢と感じた。その興奮と期待は、練習への意欲と集中力となり、短期間で秘めた才能を一気に開花させる事となった。大舞台でも、スポーツ学校のエリートたちに一切気後れしない度胸も持っていた。


 彼女の登場は、関係者を驚かせた。しかし誰よりも衝撃を受けたのは、スベトラーナだった。同年代に敵う相手はおらず、15才以下の部でも通用すると言われていた自分と、同じレベルの同じ歳の少女が突然現れた。低年齢化の進んだ当時の女子体操界では、そのままオリンピックレベルの実力でもある。それにもましてショックだったのは、彼女自身がエレーナの演技に見とれてしまった事実にである。

 おそらく最新の採点規準をよく理解していないであろう演技内容は、改善すべき部分も多くあったが、スベトラーナの眼には他の誰よりも輝いて映った。逆に言えば、適切な指導を受ければ、完全に自分も負けていた事になる。彼女は、嫉妬よりも憧れの感情を抱いた自分に戸惑った。


 そして一月後には当然のようにエレーナは、スベトラーナと同じ国立体操学校に転入し、二人は同じ部屋で生活するようになった。


 エレーナとスベトラーナはすぐ打ち解けた。お互いライバルではあっても、スポーツ学校の寄宿生活は二十四時間一緒である。初めは緊張してぎこちない関係だったが、同じ夢を描く者同士、すぐに仲良くなれた。二人とも憧れの選手がナターシヤ・オゴロワだと言うのも気があった。競技力において同年代では抜きん出ていたスベトラーナにとってはいい刺激にもなり、新参者に対する他の生徒の妬みと嫌がらせからも、エレーナを守った。もっともエレーナ自身は格下の者の嫉妬など、意にも介さない様子だったが、こういう環境での嫉妬心がどれ程どす黒く、陰険であるかを味わってきたスベトラーナは、気が気ではなかった。


 練習では、二人はいつも競い合い、コーチたちも驚くほどのスピードで難度の高い技をマスターしていった。どちらかと言えば、スベトラーナの方が技の細かな部分まで気を使い、バリエーションも多彩だった。一方エレーナは、完成度は低くても、競技会などで追い込まれた場面で大技を成功させる勝負強さがあった。どちらにしろ、年齢制限が無ければ、すぐにオリンピックに出てもメダルが狙えるレベルに達していた。

 ジュニアの大会では、必ず表彰台に二人の姿があった。それが国際大会であっても、頂点に立つのはいつもスベトラーナかエレーナのどちらかだった。二人ともジュニアという枠では収まらない存在になっていた。誰もが未来の体操界は、二人が中心になると思っていた。



 アメリカで開催されるオリンピックに、ソ連がボイコットを表明したのはちょうどその頃である。二人には、世界情勢はおろか、体育館の外の情報すら知らされていなかったし、興味もなかったが、その時の記憶は鮮明に覚えている。

 それは二人の憧れであり、目標としてきたナターシヤが金メダル確実と言われ、その瞬間を楽しみにしていた大会だったからだ。そして直後にナターシヤの引退が発表された。年齢的に次のオリンピックにはピークを過ぎている。二人は自分のことのように悔しがった。

 自国の参加しないオリンピックは、ほとんど報道されなかったが、技術の参考のため、体操競技のビデオだけは閲覧が許可された。


 明らかに自分たちより低いレベルの選手がメダリストになっていた。


 ナターシヤさんもこのビデオを観たとしたら、どんな気持ちでいるのだろう。


 エレーナもスベトラーナも、悔しさに涙を堪えきられなかった。そして、

「この次のオリンピックでは、私たちがメダルを取り戻そう。団体も個人も、総合も種目別も、どの種目のメダルも全て偉大なる祖国に持ち帰ろう」

 と二人で誓いあった。


 二人は前にも増して練習に打ち込んだ。


 ある時、スベトラーナは練習中に左足の痛みを感じた。学校専属の医師からは、成長途上の骨格に対し過度のストレスと疲労の蓄積と言われた。一人前の選手になる過程で誰もが経験するものだ。大事はない。しばらく、エレーナとは別メニューをこなす事になった。


 その日、元メダリストの男性コーチからマシントレーニングの指導を受けていた。通常は他に何人か筋力トレーニングしている者がいるトレーニング室だが、その日は何故かコーチと二人きりになった。

 あまり居心地がよくない。かつての「英雄」は、女子選手の間でよくない噂がある。それでも多くのメダリストを育てた実績があり、スポーツ省上層部のお気に入りでもあるため、誰もが気づかないふりをしていた。


 スベトラーナは、幼くても目鼻立ちのはっきりした美少女と言っていい顔立ちをしていたが、容姿に自信を持った事はない。幼い頃から体操選手として鍛えてきた身体は、女性らしい丸みはほとんど表れてきていない。小柄な身長とまだ13才という年齢からも、彼女自身、男から欲望の対象になるとは思ってもいなかった。


 必要以上に体に触れてくる指導。やがて体まで密着してくる。スベトラーナが危機感を感じて逃れようとした時には、既に遅かった。口を塞がれ、上にのし掛かられていた。

 激しく抵抗するが、かつて世界に通用するまで鍛えられた大人の男の腕力には敵う筈もない。スベトラーナの声にならない悲鳴とベンチプレス台の軋む音だけが虚しく聴こえる。トレーニングウェアが膝まで下ろされた。

『どうして……?嫌!』

 何故かエレーナの顔が浮かんだ。

『助けて!』

 涙が溢れた。


「……!」

 突然、鈍い音と共にコーチの体が床に崩れ落ちた。

 涙の溢れた瞳を開けると、そこにダンベルを片手に持ったエレーナの姿があった。

「大丈夫?」

 スベトラーナは泣きながらエレーナに抱きついていた。どうしてエレーナが来てくれたのかも解らないが、とにかく嬉しかった。しかし、エレーナは彼女を気づかうのもほどぼどに、倒れたコーチの方を睨みつけていた。

 その男はすぐにふらふらと立ち上がっていた。まだ意識が朦朧としているようだったが、ダンベルで殴られた頭を手で押さえ、その手が血で濡れているのに気づくと逆上した。

「おまえら、俺にこんな事して只で済むと思うなよ!おまえたちの将来を潰してやるぞ!」

 悪人のセリフはいつも同じだ。エレーナはスベトラーナを庇うように後ろへ押しやり、身構えた。

 コーチが猛然と襲い掛かってくる。エレーナは再びダンベルを頭めがけて振り抜いた。しかし今度はかわされる。エレーナは押し倒され、両手を抑えつけられた。やはり男の力には敵わない。それでもエレーナは毅然として言い放った。


「おまえこそ、わかっているだろうな!私たちは未来の金メダリストだぞ!おまえなど家族一同シベリア送りにしてやる!」

 とてものし掛かられた13才の少女の言葉とは思えない迫力だった。過去の栄光を食い潰してきた男が一瞬怯んだ瞬間、エレーナは股間を蹴り上げた。


 悶絶するコーチを、騒ぎを聞きつけたスタッフが取り押さえた。その場の状況と二人の証言からもう言い逃れは出来ない。以前から悪い噂はあったし、他のスタッフもよく思っていなかった。エレーナの宣言通りとはいかなくとも、過去の栄光は抹消されるのは間違いない。


「助けてくれてありがとう……。私、怖くて何もできなくて……」

 スベトラーナは涙ぐみながら礼を言った。しかし、エレーナは優しく涙を拭ってやり、

「なんか嫌な予感がしたんだ。でも、これまでずっと助けてくれてたのは、スベトラーナの方だ。私がここに来たばかりの頃、同級生とかの嫌がらせから、私を守ってくれてたじゃないか」

「……」

「私、強がってたけど、あの頃、結構キツかったんだ。スベトラーナがいなかったら、耐えられなかったかも知れない」

 先ほどの暴漢に対して見せた自信と迫力からは想像もつかない一面を見せた。エレーナが生涯で弱味をさらけ出せたのは、スベトラーナと後に、姉のように慕う事になるナターシヤの二人だけである。


「そうだ!金メダルの獲得と、もうひとつ誓いをたてよう。私たちは競技場以外では、どんな時もお互い助け合うんだ。試合では真剣勝負をするけど、それ以外はずっと一緒だ」

 スベトラーナに異存はなかった。それどころか、エレーナが対等な立場と認めてくれたのが嬉しかった。そしてエレーナに憧れる理由が、はっきりわかった。体操選手としての実力は決して負けていないと思っていたが、エレーナには自分にない強さがある。自分が頂点に駆けあがることに、なんの疑いも持っていない。それがエレーナの輝かせている正体だ。

 そのエレーナが自分を頼りにしてくれていたことが誇らしかった。


(私はエレーナの輝きに焦がれている。

 私もあなたのように強くなりたい。そして、いつもあなたを守れる存在になりたい)

 スベトラーナは、彼女だけのもう一つの誓いをたてた。


 その約束を守り抜く事がどんなに困難で辛い事かを、まだ純粋な二人の少女は知らなかった。


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