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雲の上の405号室

作者: 岩槻大介

 貧乏人は、国をあげて同情される。

 いや、そんなふうに言ったら母ちゃんに怒られちゃうな。

 この国は貧乏人にもちゃんと味方してくれるんだ。


 1974年の冬、父ちゃんが冗談で応募した新築団地の入居権が当たった。

 江戸川の堤防沿いに新しく建設中の団地群。窓から朝日と夕日が両方見られる夢のような生活。たしかそんなうたい文句で入居者を募っていた。

「住もう。三人で。よし決めた。俺が決めたことは、絶対にかなうんだ」

 新聞の入居者募集広告を見て父ちゃんはそう言った。

「よく言うわよ。かなった試しがないじゃない」

「うるさい。かなうんだ。かなえるんだ」

「どうでもいいけど、期待し過ぎないでよ。外れた時のショックが大きいから」

 母ちゃんはそう言いながら、まんざらでもなさそうだった。

 それで、本当にかなっちゃったんだ。父ちゃんの願い、というか勝手な宣言が。

 三人で、というのを除けば。

 なぜならその直前に、母ちゃんが事故で死んじゃったから。


 父ちゃんは、俺が三歳の時に突然「絵本作家になる」と言いだして会社を辞めた。

 でもこの国は、貧乏人の味方はしてくれても、ただの無謀な夢にはやすやすと味方はしてくれなかった。


 あれは俺が小学校の入学式を三日後に控えた日だった。

 その頃にはもう、母ちゃんのことは別に無理やり忘れる必要はないんだと気づいて、人前でも涙を我慢しなくなって、そしたら俺と父ちゃんにも不思議とちっちゃな笑顔が戻ってきていた。

 その日はやたらと天気が良くて、おまけに江戸川の川岸にはズラっと桜なんかが咲いちゃって。

 覚えてる。桜の下の道を、俺と父ちゃんは手をつないで歩いた。

 完成する前にその団地を一回見に行こう、って父ちゃんが言い出したのだ。

「賢一。引っ越しはゴールデンウイークあたりになりそうだ。それまでに自分の荷物をまとめとけよ」

「うん。分かった」

「何も心配するこたぁないぞ。これからは父ちゃん、頑張って働いて、朝日と夕日の中でお前をでっかくしてやっからな」

「うん」

 実際、そのちょっと前あたりから、父ちゃんはスーパーマーケットで働き始めた。

「これで、いいんだ」

 父ちゃんはバカボンパパみたいなことを呟いて、俺の手をきつく握った。

「俺が決めたことは、絶対にかなうんだ」

 よく言うよ、絵本作家にだって結局なれなかったくせに、と俺は思った。


 C棟の405号。そう書かれた紙きれを片手に、父ちゃんは真新しい階段を何度も上がったり降りたりした。

「あった。ここだ。うわ、すげぇな賢一。4階だぞ。雲の上にいるみてぇだ」

「父ちゃん、持ち上げてよ。見えないよ」

 まだ小さかった俺は、外廊下の手すりが邪魔して景色が見えなかった。

 父ちゃんは俺のことを抱き上げ、ほれ、見てみろ、と言った。

 本当だった。本当にそこは高く、ずっと遠くまで街並が見下ろせた。公園も、小学校も、たくさんの誰かのうちの屋根も。

 俺は久々に眼球をフル回転して風景をむさぼり見た。

 母ちゃんが死んでからは泣いてばかりいたので、おかげで目が動く動く。

 ほら、自転車のタイヤとかって油を垂らすとすっごくよく回るようになるじゃない。あれと同じ。涙は、もしかしたら油でできているのかもしれない。

 と同時に、もうひとつの久々を俺は感じていた。

 久々に、本当に久々に、父ちゃんが俺を抱っこしてくれた。

 その時俺、なんだか泣きそうになっちゃって。でも悲しくないのにそんなきもちになるのはおかしいから、ひょっとしたら俺はあたまの病気になっちゃったのかも、ってすげー心配になった。そんなことはどうでもいいか。


 その後、外廊下を往ったり来たりしていた父ちゃんが、ふいに405号室のドアに顔をべちょっとくっ付けた。

「わぁ、賢一、ここ見てみ」

 まだ鍵を渡されていないため中に入れなかった父ちゃんは、発見した覗き穴、いわゆるドアスコープってやつから部屋の中を見ていた。

「ほら、ちょっとだけ中が見えるぞ」

「部屋の中? わぁ見たい、見たい!」

 なんだか少し悪いことをしているような気になったけど、ここは俺たちが住む部屋なんだから別にいいじゃん、と自分に言い聞かせた。

 ドアスコープのレンズはまだ取り付けられていなかった。丸い小さな穴がドアの中央に開いているだけ。俺は父ちゃんに膝を抱えてもらいながら、その小さな穴から必死で部屋の中を覗き見た。

 あ、広いぞ。お勝手の床がずっと奥まで続いて、あ、その向うに畳の部屋も見える。

 俺は歓喜して足をバタバタさせた。抱えている父ちゃんが何か文句を言っていたが、耳に入らなかった。

 俺は、明らかに興奮していた。すげぇ。父ちゃんすげぇ。405号室を当てた父ちゃん、アホだけどすげぇ。畳は春の陽光に照らされて青々としている。あ、その向こうにベランダも見える。空が見えて、洗濯物が、白いエプロンが風に揺れている。すげぇ、すげぇじゃん。

 俺と父ちゃんはあとちょっとしたらここに住むんだ、と思ったらさらに足が震えた。ここに住んで、寝たり、遊んだり、ご飯を食べたりオナラしたりするんだ。もう泣かない。俺は、もう泣かない。ここは泣いちゃいけない場所だ。泣いちゃいけない雲の上の405号室なんだ―――。

 ……。

 エプロン?

 俺はもう一度部屋の奥を覗いた。

 ベランダには洗濯物なんてなかった。あるはずがないよ。まだ誰も住んでないんだもん。

「さぁ、もういいだろ。帰るぞ」父ちゃんがそう言って俺を下した。

「父ちゃん、ここ、ずっとあるよね」

「ずっとって?」

「だから、俺がお兄さんになって、大人になって、とにかく、大きくなるまでずっとあるよね」

「あたり前だ。それに、ここにはお前の部屋もあるんだ」

「俺の、部屋?」

 気が遠くなりそうだった。

 俺の、俺だけの、部屋。そんなものがこの世界にあるなんて。

「毎日“ただいま”って言うのが楽しみになるだろうな」

「うん」

 俺はドアに向かって言ってみた。「ただいま」

「お、賢一、なんかお前、サマになってるじゃん。一気にお兄さんになったみてぇだぞ」

「そう? ただいま。ただいま、ただいま、ただいまー!」

 途中から父ちゃんも一緒になって声を出した。

「ただいま、ただいま、ただいま、ただいま、ただいま、ただいまー!」


 中で白いエプロンを着けた母ちゃんが「おかえり」と言ったような気がした。





             ―――daisuke iwatsuki 2012―――

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