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世界紀行  作者: 蛍火
2/10

街へ

 見る限り、草原は地平線まで続いていた。

 まさに見渡す限りの大平原だ。

 青年、アルスはそこで、大迷宮、『世界』へ進入したのだと実感が湧く。

「すごいな、これ」

 端的に感嘆を表し、少しニヤけながらさわさわと靡く草原を歩き出す。さくさくと小気味いい音がアルスの耳に響き、どことなく故郷を想起させた。

 黒い髪に同色の瞳、纏う衣服まで黒で染められた男の背中には、これまた漆黒の剣が装備されていた。姿はまるで影のような男だったが、その顔には一切の曇りはなく、精悍な顔つきは水で流されたあとのようにすっきりとしている。年は二十歳前後と見受けられ、黙っていれば大抵の女性からは好印象を受けそうだった。

 さくさくさく……、アルスは数歩歩いて振りかえる。

 自分が入った直後はあった扉が消えうせ、辺りは全く草の原だけとなってしまっていた。

 もう、後戻りはできない。

 自分に言い聞かせるように言って、再び前を向く。

 ここは、どこの世界にあるどんな大迷宮よりも深く、かつ広いダンジョンだ。

 街、山、森、洞窟、塔、城、草原、砂漠、海、神殿など、ダンジョンの中に更にダンジョンがあるという矛盾を体現し、あたかも一つの世界であるかのように存在する。

 大予言者と謳われた詩人がそう言い残し、アルスはそれが真実であったのだと理解する。

 世界の様にあるから、ダンジョンとしての名前がそのまま『世界』。簡単な理由だったが、同時に簡潔に分かるほど広大で深いということを表していた。

 ダンジョンに入ったものは例外なく帰らぬ人となり(詩人は唯一の帰還者ではないかと言われていたが、本人が否定した)、最初のうちは誰も立ち入らないようになっていた。しかし、その詩人がダンジョンの奥深くに眠ると言った宝物の話が、アルスの元いた世界の住人に火を付けた。


 如何なる願いでも聞き入れ、叶える『宝具』。


 詩人は宝物の話をこのように述べた。

 今や向こう側となってしまった世界では、その宝物の話を聞いて俄然、やる気が湧いたのだろう。一人、また一人とダンジョンへ通じる扉がある祭壇へとやってきて、こちら側へと踏み出した。

 アルスもその中の一人だ。当然、狙いはその宝物にある。

 噂によると、ライデンワーツという国ではその総力を挙げて進入したと聞くが、アルスが見た現実は総力をダンジョンに注ぎ込んだ所為で弱体化し、他国に侵略されたその国の姿だった。ライデンワーツ以外に国を挙げて進入するところがないのは、弱体化を恐れてのことだろうと判断できる。

 しかし、ライデンワーツの噂からも分かる通り、詩人の言った『宝具』はそれほどまでに魅力的な代物なのだ。欲しがるものがいないはずがない。

 ダンジョン、『世界』に進入する全ての者は皆、それを狙ってやって来た者たちだ。

 アルスもその一員として、大草原の草を踏みしめている。

 他の者と同じように、『願い』を胸の内に秘めて。

 さわ……。

 突然、草が風に吹かれた以外の理由で動いた。

 アルスはそれに素早く反応し、歩んでいた足を止める。

 何者かが、草の陰に隠れてこちらを窺っているのだ。

 何者だ? いや、人ではないかもしれないな。魔物か?

 アルスの中で様々に可能性が膨らんでいく。

 元いた世界には魔族などといった、ファンタジーな存在はいなかった。というのも、かつて『勇者』と呼ばれた者が『魔王』なる存在を討ち滅ぼしてからも魔族などを殲滅していき、最終的には絶滅へと追いやったからだ。

 以上の理由より、アルスは魔物を書物でしか見たことがない。

 緊張が走る反面、同時に期待感も湧いた。

 アルスの黒目が草の動きを捉える。

 少しずつ、自分に近付いてきていた。

 そして、それは唐突に飛び出してきた。

「グアァァ!」

 牙を剝いてアルスに飛びかかってきたのは、蛇のように長い体躯に毛をもじゃもじゃと生やした犬頭だった。蛇と犬のキメラのような魔物だ。

 アルスはその魔物の姿を見て目を輝かせながら、手は容赦しなかった。

 犬の頭部がアルスの首筋に飛びつく寸前、アルスの神速抜刀術が映えた。

 シャッと剣が抜かれた音も刹那、抜刀と同時に振り下ろされた刃が魔物の首に食い込む。

 そして、犬の頭部は刎ねられた。

 飛びつこうとした勢いもそのままに、首の断面から鮮血を噴射しながら前方へ吹っ飛ぶ。残った体の方もビクビクと痙攣しながら、同じように血を噴いて寝転がった。

 へぇ、さすがダンジョンだ。魔物がいやがる。

 アルスは手慣れているらしく、今しがたこびり付いた血を横薙ぎに払ってから、元の鞘におさめる。

 それから、さっきまで目を輝かせていたのにも関わらず死体には目もくれずに再び歩き出した。

 今ので、この『世界』には魔物までいるということが証明された。つまり、非常に危険な地帯だということだ。街に入ったとしても、魔物が侵攻してこないとは言い切れないだろう。

 どこでも警戒を怠るなってことか。

 早くもダンジョンでの生き方を悟りながら、アルスは歩くのをやめない。


 道中、何度か先ほどと同種の魔物に出会いながら、アルスはようやく街に辿り着いた。

 疲弊の様子もないようだったが、並の戦士であれば魔物の餌になっているか、もしくは歩き疲れてその場でへたり込むかのどちらかはしそうなものだ。そうならないということは、暗にアルスが常人でないことを物語っていた。

 見渡す限りの平原はすでに背後に回り、振り返らなければ見えなくなっていた。

 代わりに目の前に広がるのは、やたらと高く(そび)える壁に囲まれた街。

 いかつい街づくりだなぁ、と感想を抱きながら、草を踏む感触が石畳のそれに変わる。

 漆黒の剣士の姿は、壁の高い街へと吸い込まれていった。



 † † † † † †



 もう泣きだしたい。

 そう思っていることが顔に出て、目に湿っぽさを含む少女が草原を歩いていた。

 真っ青なベレー帽をずらした様に被り、涙をこらえたその瞳は明るく澄んだ空のような色合いだった。その水色は腰ほどまである長い髪の毛にも伝染しており、着用している純白のワンピースと相俟って明るく澄みきった印象を与える。その手には短く、玩具と見紛うばかりの杖が握られており、それが辛うじて「もしかして魔術師かな?」と思わせる要因となっていた。端正な顔立ちは同性から嫉妬されそうな程美しく、愛らしい。杖さえなければ、どこぞの国の姫君と言われても納得がいく姿をしている。

 しているの、だが。

「わ、キャァ!」

 王族のように毅然とした振る舞いでは一切なく、石につまづいただけでアタフタと自ら足を縺れさせにいくような少女は、他から羨まれるほどの顔から地面に突っ込んだ。身に着けていたポーチから、何やら道具のようなものが散らばり出る。

 幸い、手をついたことで顔面直撃は免れたものの、何もないところでつまづいたことへの情けなさでしばらく憮然としてしまう。膝を草の上についたまま、今度は本当に泣き出しそうになっていた。

 家に帰って、お布団に包まって寝たい……。

 そう思いながら、草の上に散らばったものをかき集める。

 手鏡などの小道具、食糧かなにかが入っていそうな袋、また、本人の名前らしきアイリと大きく表紙に記された手帳……などなどをポーチに詰め込みながら、またも大きく息をつく。

 アイリは『世界』に入って一日もしないうちに、ダンジョンでの生活を諦めかけていた。

 理由は二つあって、歩いても歩いても広がる大平原に希望が見出せなくなったというのが理由の一つ。そしてもう一つはただ一人で心細くなったのだ。せめてあと一人、一人でもいてくれればその寂寥感も拭われただろうが、この広大な草原には人どころか、虫一匹の姿すら確認されなかった。どこぞの花にも話しかけていそうなアイリだが、さすがに風くらいしか話し相手としていなさそうな場所では心細くて死にそうらしい。ウサギという動物と少し似たところのあるアイリであった。

 立ち上がって、純白のワンピースについた汚れを払う。そして希望へと縋るように周りを見回すと、やはり何もなかった。またまた、落ち込む。

 この世界には私一人きりだとか、そんなことないよね……。

 そろそろ世界に対して不安と疑心を募らせ始めたアイリ。もはや末期である。

 うなだれて歩き出そうとすると、そこでアイリの耳になにか、音が飛び込んできた。

 金属と金属が弾きあう、キンキンとかしましい音だ。目と耳と鼻がよく利くアイリだからこそ、やたら遠くから聞こえる戦闘音も生々しく聞こえた。

 音は止まない。

 アイリは怖くなって、逃げ出したい衝動に駆られた。そして、その衝動のまま走りだす。 

 今までは、魔物がいるということで大人しく歩いていたのだが、出来るだけ戦闘から離れたい一心となった今のアイリにそんなことを考えている余裕はない。こんな隠れる場所もないような草原では、敵に出会った時点でおしまいなのだ。なぜなら、アイリは弱い。

「み、見習いの魔術師なのにぃ~っ」

 泣き出しそうになるのを、必死の声で押しとどめようとした結果、むしろ大粒の涙が目じりに溜まってしまうこととなる。とことんドジな少女である。

 しかも、運まで悪いらしい。

 アイリが必死になって走っていると、前の草原でなにかがうごめいた。

「ひっ!」

 短い悲鳴を上げ、急停止する。ついでにスリップしそうになり、危うく尻もちをつくところだった。

 かさかさ、かさかさと草が左右に揺れ、アイリの不安まで揺する。

 何? 何が出てくるの?

 神経質になっているアイリが一歩、慎重に後ずさる。

 しかし、それが契機となったように、隠れていた影はバッと飛び出してきた。

 犬の頭をした、毛むくじゃらの蛇だ。

 シャギーテイルっ!

 アイリは図鑑で見たことのあるその魔物の名前を見事言い当て、突進して噛みつこうとしてくるそれの攻撃を寸でのところで避けた。頭を抱えながら横へ飛び込むようにしたため、側頭部をもろに打ち付けることは無かったが、アイリの柔らかそうな手の甲が少し擦りむく。

 シャギーテイルは目標を見失い、しばしの間探すように辺りを見回していたが、どうやら臭いで場所を特定したらしく、急にアイリの方を振り返って威嚇を始めた。

 態勢を立て直している最中であったアイリは、勿論ながらその威嚇に気圧され、縮み上がる。

 しかし、アイリはそこでそういえば、と思い当たることがあった。

 シャギーテイルは臆病な魔物だ。ドシドシと大きな足音を立てて近づいてくれば、防衛本能から対象を攻撃しようとしてくる。また、威嚇するのも、近付かないでくれ、というサインなのだ。

 つまり、シャギーテイルは刺激さえしなければ攻撃してこない。

 アイリはそう思い当たり、咄嗟に詠唱しようとした口を固く結ぶ。

 そして、徐々に後方へ下がって最終的には退避しようという計画を実行に移す。

 シャギーテイルとのにらみ合い。

 死ぬか生きるかの極限状態で、アイリの思考は冴えていた。

 しばらく下がって、距離をとったところで、アイリの口が開かれる。

「”私の意思を其の者へ”、私はあなたの敵ではありません」

 アイリが言った瞬間、持つ杖から淡く発光する魔力がシャギーテイル目掛けて飛んで行った。

 その突然の出来事に、アイリに飛びかかろうとした犬頭の魔物はしかし、そこでアイリの意思が伝わったかのように急に大人しくなり、その場からそそくさと去っていった。

「ふ、ふぇ~~~~……」

 思わず大きな溜息をついて、その場にへたり込んでしまう。

 今のは、アイリが意思表示をする魔法で相手に敵意がないことを伝えたことで、どうやら退散をしてもらったらしい。相手も相手で怯えているのだから、この場から早く離れたいのはお互い一緒なのだ。

 アイリはそのままずっと座りこんでいたい気分だったが、現実はそう甘くない。

 アイリはまたすぐに、立ち上がる羽目になった。

 ザウッ という、風を薙ぐ音が聞こえたからである。

 見ると、どうやら他のシャギーテイルと戦っていたらしき何者かが剣を振るったところらしい。シャギーテイルの首が吹っ飛び、頭部と胴体部から血飛沫が撒き散らされていた。

 黒い髪に黒い瞳、さらに黒い衣服を身に纏い、挙句には漆黒の剣を手に持つ精悍な顔つきの青年だった。一言で言えば影のようで恐ろしかったが、顔がいいということで少なからず油断を誘っている。厳しい表情ではなく、明朗な表情もそれに一役買っていた。

 青年は剣に付着した、まだ水っぽいその赤色を横薙ぎに払って再び歩き出す。

 あの人は強い人だ、と直感的にアイリは悟った。

 青年についていけば、あるいはダンジョン攻略も楽になるかもしれない。

 アイリは簡単にそう思って、青年からかなり離れた距離を保って歩くことにした。

 腰をやや屈め、草にまぎれるようにしながら、漆黒の剣士の後を追う。


 しばらくの後、アイリは読み通りに街へたどり着くことができた。

 青年の姿が街へ消えてから、自分も街へ入っていく。

 青いベレー帽を被る水色の少女が、街へ到着した。



 † † † † † †



 犬頭の蛇がいたので近付いてみた。すると、どういうわけか彼らはこちらに襲いかかろうとはせずに、一目散に逃げ出すのである。

 拍子抜けですねぇ。

 怪しい男が薄笑いを浮かべて近付いてきたら、それは確かに注意するべきなのだろうが、この男の場合は注意を払うだけでは足りずに、どことなく危険な雰囲気まで含んでいた。

 それはまあ、主に見かけが多分に関わっているのだが。

 紫色の薔薇が飾られた影のごとくシルクハットを傾けて頭に載せ、肩にも奇妙な鳥が乗っていた。濃い紫色の、袖がフリルのようにびらびらしたシャツの上から、赤い刺繍の施された白いマントを羽織っている。年は大体二十代前半から半ばといった見た目であり、右目に碧玉、左目に紅玉でもはめ込んでいるかのような、オッドアイの持ち主だ。すらっと長く伸びた足は、漆黒のズボンと上手く調和がとれている。

 元いた世界でも、この男の様に奇怪で、おどけた姿の者は稀だったろう。

『ロマヌエット、どこにいく?』

 突然、右肩に乗っていた鳥、とぼけたような表情の鸚鵡(オウム)が、主人である男の名を呼んで、訊ねた。この鸚鵡、何が奇妙かと言うと羽が赤から青のグラデーション、もっと簡単に言えば、虹色をしているのだ。

「街を目指していますよぉ」

 ロマヌエットと呼ばれた道化は、カタコトと口を動かしながらそう言った。

 街があると確信しているあたり、どうやら彼も『世界』内部の事情を知っている者らしい。まあ、訪れる客人は往々にしてそういうものなのだが。

 逃げ出した犬頭を目で追いながら、上機嫌に鼻歌を歌って何の迷いもなく歩き出す。

「パロは食べたいものありますかぁ?」

『肉ーっ、肉ーっ』

 極彩色の鸚鵡は羽をバタつかせながら、金切り声のような絞った声を張り上げて主張した。

「なんの肉ですかぁ?」

『肉ーっ!肉ーっ!』

 ロマヌエットとパロの会話は成り立っていない。しかし、本人たちだけで通じる何かでもあるらしく、お互いに発言に対しての質問を投げかけたりはしなかった。

 草原の雰囲気に合わせた鼻歌はやがて、高音域に達する。その時、ロマヌエットは純白の手袋を装着した両手を重ね合わせて、どこから取り出したのか、ポンッと弾けたような音とともに鳩が三羽飛び出した。さらに、次にその手を見てみるとそこには黒いステッキが握られている。

 その奇怪な姿に相応しい、奇術だった。

 今しがた手に持ったステッキをヒュンヒュンと勢いよく回して、道中を楽しんでいるようである。

「んー、さすが『世界』と呼称されるだけのことはありますねぇ。本当に一つの世界がそのままダンジョンになったかのようですよぉ」

『デスヨォ、デスヨォ』

 誰に言うわけでもなく、余裕たっぷりの奇術師はつぶやく。

 そこで、鼻歌が止んだ。

「パロ、お客さんですよぉ」

『お客ぅっ、お客ぅっ』

 奇術師の眼が、剣の切っ先を捉える。



 † † † † † †



 ターニャ・チャルネ・ライデンワーツは途方に暮れていた。

 食糧もない。水もない。街もない。目の前に広がるのは広大な大草原だけ。装備品は兜も鎧もなく、あるのはただ一つ、ライデンワーツの国に伝わる宝刀だけだった。唯一の頼みの綱である宝刀であるが、勿論食べられるものではないし飲める代物でもない。空腹と渇に対しては、何の役にも立たないものだ。

 ライデンワーツ国の『世界』進入から一週間程度だろうか、ターニャは自分の護衛に当たっていた者の謀反行為によって命からがら逃げたわけなのだが、僅かばかり所持していた食料や水分は今日ですべて使い切ってしまった。絶体絶命の危機である。

 だからこんなくだらないことしたくなかったのよ!

 口からそんなことを言う気力も失せかけていたが、心の中でそれだけは思うことができた。

 空を見上げると、真上から太陽が自分を照りつけ、見下ろしていた。

 風が横を通り過ぎるたび、嘲笑うかのようにターニャのセミロングの金髪を撫ぜていく。

 顔には憔悴が色濃く見られるが、それでもキリッと美しくも凛とした両の眼だ。今は辺りを警戒しているためか、非常に鋭くなっている。見るものを安眠へ誘うような碧色をした瞳が左右に忙しなく移動していた。

 高貴そうな紅いローブは、すでにいくつかの戦闘の所為で破けたり泥がついたりと散々だった。ターニャが動きやすくしようということで、ビリビリと思い切りよくいったのも原因だが。

 せめて、誰か通りがかれば。その人から食料と水を少しでもいいから、分けてもらえれば。

 もう何度目かになるその願いを引っ提げて進む足取りは、どこか重たい気がした。

 あるいは、宝刀を抱えているせいかもしれない。しかし、これを手放すと本当にその身一つとなってしまうので、迂闊に捨てることもできない。

 ターニャはこのどうしようもない危機に直面して、深く深く溜息をつく。

 そもそも、自分は王族の生まれで永遠に贅沢をして暮らせる身分にあったのだ。向こう側にいるときにはそんなことを考えたこともなかったターニャだが、今は空腹と喉の渇きにやられているせいで豪勢な食事やゴブレットに注がれるワインなどを想像してしまう。

 それが昔、と言っても一週間程前だが、その時は当たり前の生活だったのだ。それが、父に当たる国王の『世界』進入計画の所為で脆くも崩れてしまった。結果、自分は今こうして生死の狭間を彷徨うことになってしまったのだ。そのことを考えると、怒りが沸々と込み上げてくるのを感じる。

 国を挙げてダンジョンに突入し、『宝具』を以て世界に幸福と平和をもたらして見せるという大義名分を掲げていた父君は反逆者の凶刃に倒れ、娘である自分はこうして死にかけで生きている。

 あいつらは最初から、これを狙っていたんだわ。

 そうと気づいた時にはもう遅かったのだが、ターニャは憎らしい敵の姿に復讐を企て始めていた。

 父は、心やさしいお人だった。とある一戦にて、妻を亡くした父は平和に対する思いを一層募らせた。ダンジョン突入の際に掲げた大義名分は嘘偽りのない本音だっただろうし、いつだって国王としてではなく、父親として接してくれた。母親を早くに失った自分としては、頼れる唯一の人だったのだ。

 ターニャの目じりにうっすらと溜まるものがあった。それは手に拭われて、すぐに乾いてしまう。

 くよくよしてても仕方ない、とにかく、生きよう。そしていつか必ず復讐してやる。

 そう胸に誓って、ターニャは勇んで足を踏み出す。

 フンフフ~ン、フ~ン、フフ~ン♪

 ターニャが第一歩を踏み出した瞬間、全くの同時にそんな鼻歌が聞こえてきた。

 え、これって……。

 ターニャの眼に動揺、驚愕、そして殺気が籠る。

 これは、たしか、あの時に聞いた、歌。

 目に映ったのは、ステッキを振り回す奇術師。

 この歌は確か……。

 見たこともないような格好で、上機嫌な長身の男だ。

 あいつらが、賛歌として歌っていた、曲?

 ターニャは自らの父親が殺されたとき、下卑た声がとっていた音程を思い出す。


 気づくと、ターニャの体が奇怪な男に突進していた。



 † † † † † †



「はい捕獲ー」

「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!」


 先に街に入っていったと思っていた青年が、急に目の前に現れて両手首を掴まれた。しかも片手で。アイリの声は半分断末魔の叫びとなっており、出現した青年の鼓膜を劈く。

 青年の眉間に皺が入り、不快なのを顔に出した。

「うるさいっ!」

「ごめんなさい!」

 青年が一喝すると、アイリは断末魔をしゅんと収めて縮こまる。とはいっても両手首をがっちりと掴まれているので、セクシーに体を捩るだけの結果となってしまった。

「ごめんなさい離してくださいお願いしますっ!」

 涙眼を零しそうになりながら、アイリが懇願する。傍目には、年端もいかない少女を襲っている青年の図だったが、青年は大人しくその手を離して、

「なんで俺の後を付けてきた」

 と聞く。

 アイリはばれていたことに驚きを隠せず、目を合わせるのも困難になるほど動揺する。そしてこれは困ったことになったと冷や汗が背を伝った。

「え、あ、のですね、私、街、行きたい、から、来た、付いて」

 しどろもどろになりながら、実にわかりやすい単語繋ぎの文を口から吐き出す。青年は不思議そうな顔をしてその様子を眺めていた。自らの失敗をそれにて悟り、アイリの思考が羞恥心と焦燥感で爆発しそうになる。簡単に言うところの、『馬鹿』の状態である。

「要するに、街へ行きたかったが方向がわからず、その辺を適当に歩いていた男を見つけたから、それに付いていけば街へたどり着けるだろうと思って付いてきたわけだな?」

「そ、そうですそうです!」

「全く、顔が可愛いから付いてくるのを許してやったようなものだぞ! 感謝しろ!」

「あ、ありがとうございます!」

 青年が補足してくれたことで会話が円滑に進んだ。それに対するお礼も含めて、ペコペコと頭を下げる。頭を下げながら、そういえば一回もこちらを振り返らなかったのに顔のことを言われたのはなぜだろう、と疑問に思った。

「お前名前は?」

「あ、アイリです」

「そうか、俺はアルス。よろしくな」

 相好を崩して、アルスという青年が頭を叩いてきた。乱暴ではあったが、不思議と嫌な気分にはならない。そればかりか、どことなく安心感を生みだすほどだ。

「もう街に着いたから安心だな、それじゃ」

 パッと黒衣を翻し、立ち去るアルス……「ちょっと待ってくださいよっ!」「な、なんだ!」を、アイリは必死の形相で止めた。

「私ほとんど丸腰で食糧だって尽きそうですし、水もカラカラなんです! 今放っておかれたらいずれ死んでしまいます!」

「何が言いたいんだ」

「私もご一緒させてください」

 アイリは一生懸命になって腰を折った。

 武器となるようなものは、ないこともないが玩具のようで当てにならない。食の問題も今述べた通りであり、ほとんど死にかけだった。しかも、今では珍しい職種となった魔法師だが、それも見習いでまだまだ初級の魔法ですら使いこなせていない始末である。こんな非力な少女を一人残しておくとどうなるかは火を見るより明らかだろう。

 アルスの困ったような溜息が聞こえる。

「あのなぁ、たしかに俺は今日進入したばかりで食料も水もたんまりとあるが、二人分を養うとなるとキツイ。だから無理だ」

「お、お願いします! 荷物持ちでも料理でもなんでもしますから!」

 アイリの声は真剣そのものであり、それが今だけの協定ではないことを裏付けていた。

 アルスの溜息に、困惑が色濃く混じる。

 やがて決断したのか、息を吸い込む音も聞こえた。


「言っておくが、毎食たらふく食えると思うなよ」

「あ、ありがとうございますっ!」


 アルスが歩き出すと、アイリの姿がそれを追いかけた。



 † † † † † †



 決着はあっさりとついた。

「剣術に長けているようですが、私には通じませんねぇ?」

 くぷくぷと、気味の悪い含み笑いを抑えきれないように声を漏らしながら奇人は言った。

「いきなり命を狙ってくるだなんて、あなた、何者ですかぁ?」

 神経を逆なでする語尾の伸ばし方だ。ターニャはそれに毒づきながらも、両手に手錠をされ、背中にどっかり座られているので反抗することすら叶わない。

 剣は確かにこの男を捉えたはずだった。しかし、その姿は幻影にと溶けるように消え失せ、気づいた時にはこの態勢を強いられていた。全く、何がどうなってこうなったのか見当もつかない。ターニャの美貌に苦々しさがありありと滲む。

『ロマヌエット、肉ぅっ!』

 ロマヌエットと呼ばれた男の肩越しに、キンキン喧しい声を張り上げる鳥が恐ろしいことを言う。自分を食べるつもりだろうか、と覚悟を決めるところだった。

「人の肉は不味いと聞きますから、それはやめておきましょうねぇ。代わりに、彼女から美味しい情報を引きずりだしてしまいましょう。肉汁みたいにねぇ」

 またもくぷくぷと笑んで、ターニャはゾッとする。

 この男は危険だ。

 今更のように気づいた自分が心底恨めしかった。もう少し冷静であれば、この男の纏う不気味なオーラに感づくことも出来ただろうに。頭に血が上っていたせいで冷静さを欠き、このような結果を招くに至ってしまった。自分はとんだ間抜けだ。

 ターニャは自己嫌悪しながら、どうにか逃げる術が転がっていないかと思案する。碧の瞳は草むらの間を駆け巡り、一つでも自分の力になりそうなものを探そうと躍起になっていた。

「質問です」

 背中に少し体重を掛けながら、その拷問を楽しむようにロマヌエットが発言する。

「あなたはライデンワーツの方ですよねぇ? 眼の色から判断すると、王族と言ったところでしょうか。そしてその二十歳くらいの年に見える顔。ライデンワーツ国王の娘といったところでしょうか」

 質問などと言いながら、憶測で真実を暴いていく奇術師。

 今ロマヌエットが述べたことは紛れもない真実である。まあターニャ自身は二十歳じゃなくて十九歳だと強く主張しているが、それも心の中だけなのでくぷくぷ笑う男には認識されない。

「あなたは、ライデンワーツへ反逆した輩の正体を知っていますか?」

 ここからが本題だとでも言わんばかりに、言葉に強みが籠っていた。

 ターニャは首を横に振る。

 ロマヌエットの微笑が少しばかり、崩れた。しかしそれも一瞬。すぐに元の表情に戻る。

「そうですか、でしたらもう用はないです。お疲れさまでしたぁ」

 ロマヌエットが掛けていた体重から解放された感覚、とともに手を封じていた錠が外れた。

 一体どういう仕掛けなんだろう。

 ターニャは置かれた状況を考慮せずに、暢気にそんなことを考えた。

「では、失礼」

「あ、ちょっとまって!」

 ターニャが暢気にしているうちに、奇術師が去ろうとしたのであわててそれを止める。

 ロマヌエットが微笑のまま、首を傾げる。

「あ、あなたは私の国の何を知ってるの? さっき、なんか賛歌みたいなもの歌ってたけど」

 ターニャが素朴な疑問を口にする。

 対するロマヌエットは、うーんと唸るような仕草をした。悩んでいるというよりは、ただ単にこちらを焦らして楽しんでいるという風情である。


「私の目的はただ、あなたの父君を殺したであろう男の始末ですよ」


 ロマヌエットの声は、草原に靡く風の音に余韻として響いていた。


 それから奇術師と姫君は、微妙な距離感のまま街へとたどり着いた。

 街はまた新たに二人、客人を迎える。




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