ガロー
ガロー(餓狼)
カンブリアの森地に無魂学者が出たという話が都に伝えられたのは、先代王ジョセフの御世のこと、当代王シビルがまだお若く、世が安寧であった頃のことでございました。無魂学者と申しますのは、世を捨て、人里離れた森閑の僻地でおのれの我理に盲執した学者の成れの果ての姿でございます。
およそ学というものは、人に伝えるために練られるべきものでございますから、自慢を満たすためだけの道は、自然と歪になるものです。そして、あて無き独行は心にうろを生み、そこに山海の邪気が入り込むのです。ですから学は、なるたけ人気の多いところで、守護を受けながら修めるべきなのです。
ともかく邪気というものは人の魂を好むものでございますから、魂を喰われたこの学者は無魂学者となりました。悪いことにこの学者は北方守備の呪部隊あがりの者でございまして、どこでどう手に入れたのか、禁呪編の解読を密かに進めておりました。そして邪気に道義と人倫を抜かれた歪な精神はすぐさま、無差別に禁呪を放ち放浪する化け物となったのでございます。
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禁呪を使う無魂学者の鎮圧は、地方守護侯の手には余りました。たちまち犠牲者は増え、街道の物流が途絶え始めました。カンブリア森地は、北海航路の玄関であるジュラへとつながる要所でありましたから、これに困る者は大勢ございました。また、消耗の末の自壊を期待しようにも、かの無魂学者は元々屈強な軍人であったとのことでしたから、それまでには恐らく二週間ほどもかかるだろうという予想になりました。聖教会は事態を憂慮し、王都より討伐隊をカンブリアに送ることとなりました。不規則に独行する災厄のような標的を捉えるために、急ぎ機動力のある少数部隊が編成されました。その構成は、いわゆる『勇魚、腕、鷹、弓』と呼ばれるものでございました。
左右の『腕』には不死鬼の排除に熟達した男女の重剣士、ハザマとネリが選ばれました。『弓』には、この王土には稀な陰陽呪を修めたシナの双子の姉妹、シロウリとクロウリが選ばれました。そして要の『勇魚』には、「エスドの黒竜退治」で名を馳せた騎士ロクスリが呼ばれました。彼らはそれぞれが一個中隊と等しいか、それ以上の力を持つと賞された実力者でありましたから、聖教会が彼らを束ねで召喚したという事実に、王立議会の人々は事態の深刻さをまざまざと知ったのでした。そしてそれは、手付けとして騎士らに渡された報奨金の額を知ったとき、さらに確信されたのでした。
「地を汚し怨魔を呼び込む禁呪の封を、どうかよろしく頼む」
聖教会守長の目はうつろな憂いを帯び、退魔の成功を楽観していないことが分かりました。
「ガローをこれへ」
神聖獣が呼ばれました。ロクスリをはじめとする部隊の者は、初めて見る白い巨大な狼に、最早動揺を隠しませんでした。王土を覆う超広域結界の中心である聖教会、その守護を任じられた神聖獣を部隊に組み入れるとは、自分たちはどれほどの魔を相手にするのでしょうか。
「どうかよろしく頼む」
聖教会守長は再び頭を下げました。
『鷹』はガローが務めることになりました。
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早馬を乗り継ぎ、討伐隊はカンブリアに急行しました。そして僅かな休息ののち、現地の守護軍の案内を受け、歩みを進める災厄の元へと赴きました。
脳髄を邪気に巣くわれたとはいえ、無魂学者も一個の生命であり、その営みを外れるような行動を取れるはずがございません。ですから山地を下った災厄は、北海に注ぐジルベ川に行き当たると、恐らくはその水をあてにしてのことなのでしょう、それに沿って北上し始めたのでございました。流域は人の住まいも多く、守護軍は周辺住民の退避を促しはじめたところでありました。
そのおかげで犠牲者の数は次第に減りました。しかしカンブリアの地は、禁呪によって徐々に汚れているのでございました。深緑の木々は灰色に立ち枯れ、大地は乾き、いつまでも冷めない熱を持ちました。
討伐隊の行く手には、次第に荒涼とした灰色の風景が広がりました。それはこの世の終わりかと見まがう絶望の風景で、そうして隊はその先端にようやく、災厄の元凶が幽鬼のごとく歩く姿を見たのでした。隊は馬を降り、送りの軍人は引き下がりました。そして戦闘が始まったのでございます。
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無魂学者の発生は稀であるとはいえ、手に入る限りの情報を集め、あらかじめ戦闘策を打ち合わせていた討伐隊は、相手が不可知な行動をとり始める前に致命の一撃を与えるべく、行動を開始しました。
無魂学者の恐ろしさは、無魂の者に特有の、破壊衝動と反射行動のみを行動規範とした躊躇ない攻撃、そして山海に通じる存在である邪気から与えられる無尽の呪力なのでございました。そしてかの無魂学者が、その脳に残された知識を元に繰り出すのは、受けた者に死すら許さぬ禁呪。願わくば、災厄に一言だに発せさせず、沈黙のままに絶命させることを。
シナの双子は陰陽呪をつぶやき始めました。呪というのはすなわち、声によって大気を震わせ、己が望む通りの雰囲気とすること。ふたえの響きは山夜に生じた霧のごとく速やかに足元を滑り広がりました。シナの教えでは、森羅万象は陰陽の雰囲気の釣り合いの元に全きを得ているとされております。ところが双子の呪は、討伐隊の者のみにその釣り合いを残し、辺り一帯の雰囲気に偏りを生じさせるのです。これによって、双子の庇護を受けざる者は、万全の能を発揮することが最早叶わないのでした。相手がこちらをそれと識する前の、遠方からの縛り上げ。それが『弓』の務めなのでございます。
双子のつぶやくうねりからみ合うような呪を聞きながら、隊は急速に災厄との距離を縮めました。理知を失った無魂学者でしたが、それでも生物的な本能の知らせを感じ、無差別に両手から放っていた禁呪を止め、自らに近づきつつある隊の方に目を向けました。酷く充血した目。その瞳孔は不ぞろいに開いており、邪気の進入経路であった両耳は、肌に残ったそのときの違和感に我慢ならず反射的に擦り続けたせいでしょうか、根元からちぎれ無くなっているのでありました。
無魂学者は焦点の合わない目を接近する部隊に向け、両の手のひらを見せつけるように広げました。そこは既に灰色に炭化しており、禁呪の照射源となっていることは明らかでした。
無魂学者は黒々とした口を開き、禁呪を唱え始めました。高低ふたつ重なるように流れ聞こえるおぞましい声は、あたかもぴたりと重なるように柱に釘付けされた老人と幼女が上げる悲鳴のように、寸毫のずれも無く響くのでした。すると、無魂学者の両の手のひらのあたりの大気が陽炎のように揺れました。双子の陰陽呪は奏功していないのでしょうか。部隊は急速に緊張し、しかし災厄への歩を緩めずに接近しました。
突然側方から白い影が躍り来て、無魂学者の腕に牙を立てました。それは『鷹』たるガローなのでした。そのすばやさで敵をかく乱し、戦いの主導をこちらに奪い返すもの。身の丈を越す白狼の襲来に、災厄は姿勢を崩しました。手のひらの陽炎は消え、災厄は反射的にガローに向かい合いました。部隊に攻撃の機会が訪れました。
『腕』は機を逃しませんでした。ガローが無魂学者から距離を置いた瞬間、駆け寄ったハザマは重く柄の長い戦斧を横ざまに振りました。刃の鈍いそれは、相手の膝を砕き、足止めをするでしょう。仮に避けられたとしても、次の瞬間にはハザマの背後から跳躍したネリの剣が相手を襲うのです。長短距離合わせた連携の攻撃。その呼吸は、長年を共にした二人ならではのものなのでした。相手を力で押さえつけ、足止めする『腕』。そしてそこに、大魚の尾の一打ちがごとく、破邪の呪がこめられた『勇魚』ロクスリの大剣が振り下ろされるのです。
すべては流れ下る清流のごとく瞬下に進みました。ハザマの戦斧の刃が無魂学者の膝で鈍い音を立てました。騎士ロクスリは息を吸うと、大剣の柄を握りました。無魂学者の動きは緩慢で、シナの双子の呪がその体を縛っていることは明白でした。だれもが勝利を確信しました。
しかし、無魂の災厄は、武勲で名高い北方部隊の出身だったのです。
ハザマは自らの斧が、無骨な軍靴の底で受け止められているのを見ました。それは、無魂学者の体奥に染み付くほど叩き込まれていた部隊の体術のなせる業で、はっとしたハザマの耳に、禁呪のふたいろの響きが届いた瞬間、
「ハザマ!」
陽炎がハザマの上半身をつつみ、灰色に朽ちたハザマは戦斧を握ったまま前のめりに倒れました。次の瞬間、涙を拭かずに跳躍したネリは、剣を災厄に振り下ろしました。最高の相棒、そして最愛の男を目の前で亡くした『腕』はしかし、どこまでも己の責に忠実なのでした。しかしその視野が灰色の手のひらでふさがれた瞬間、
くたくたと崩れ落ちる、灰色に炭化したもう一方の『腕』。ああ、大抵の呪であれば、彼らが常に身にまとう防護呪を破ることなどあたわないのに。
ロクスリは戦友達の名を叫びながら、大剣に込めた破邪の呪をやむなく解きます。両の『腕』を失った今、自ら災厄の足止めをしない限り、強力な敵に大呪を打ち込むすべは無いのです。
無魂学者は崩れ落ちた遺骸を跨ぎ越して、いちどきに数を減らしてしまった隊のほうに歩み寄りました。その瞬間。
巨大な全身をぶつけるようにして再び襲い掛かった神聖獣は、一気に無魂学者の喉を狙います。災厄となっても人体の急所は同じ。神の祝福を受けた白い大牙は、禁呪使いの皮膚をやすやすと貫きました。しかし。
無魂学者の、比べればあまりにも細い喉。それを食いちぎる前に、ガローの大顎はくたりと力を抜きました。そして立ち上る陽炎。無魂学者は、寄りかかるようにして力尽きた、もはや上半身だけの姿と成り果てた白狼の体を、無表情に押しやりました。それは濡れた音を立てて地に落ち、悲しそうな目をロクスリに一度だけ向けて、それきり沈黙しました。
指呼の距離で、無魂の者はロクスリを見ました。引き裂かれた首の傷といえば、それは煙を上げて見る見ると修復されてゆくのです。そして、もはや感情が失われたはずのその顔には、微かな嘲笑。
そして、それだけでロクスリには十分だったのです。
かつて竜を殺し勇者と呼ばれたロクスリは怒りで我を忘れました。それは僅かの間でしたが、その白い神聖獣との交流は、勇者に無二のぬくもりをもたらしていたのでした。背後からシナの双子の引き止める声が聞こえました。部隊の編成が大幅に崩れた今、一旦引き下がり、体勢を立て直すべきなのです。歴戦の勇者にはそれが十分分かっていました。しかし今は。
どうしても無理だ。
荒ぶる勇者の大剣に、あらゆる呪の力が乗せられました。それは殺竜の剣。生きる呪そのものである竜をも打ち破る剣を、ロクスリは目の前の敵に振りかざしました。そして続く神速の技。体重を乗せて踏み込んだ一撃。しかし。
ロクスリは突然自分の腹から生えたものを不思議な目で眺めました。それはハザマの戦斧の長い柄で、ロクスリの背中から突き出した石突は、赤黒く濡れて艶やかに光りました。
無魂学者は握る戦斧の刃の付け根から手を離すと、灰色の手のひらを勇者の顔に向けました。そして、その手のひらを不思議そうに見つめる表情を見て、再び微かに笑いました。そして陽炎が立ち上り始めました。
しかしその時、災厄は突然よろめくのでした。絶望の底に落ちていた手負いの勇者は、目にした光景をにわかに信じられず、立ち尽くしました。
灰の骸と化したハザマとネリが、無魂学者の両足にしがみついています。
災厄は嫌がるように足を振るのですが、骸は決してその手を離しません。
ロクスリの目からとめどなく涙がこぼれます。それはおそらく、二人が生前それぞれ自身にかけておいた、その死と共に発動するよう仕込まれた不死鬼の呪。人らしい死を捨ててまで、責に忠実であろうとしたその志。
「勇者殿!」「今こそ!」
見ればいつの間にか無魂学者の両腕にシナの双子がしがみついています。その口からこぼれるのは、ひとつの命に一度きりの陰陽呪。シロウリとクロウリの体に、それぞれ陰と陽の気が集まります。それは無魂学者から奪ったもの。気は万物の存在を支える力そのもの。それを奪われたものは、もはやそれ以上存在し続けることあたわず。しかし余剰の気を引き受けたほうもまた、ただではすまないのです。
無魂学者は四肢の束縛を引き剥がそうと、狂ったように身を震わせます。しかし、ぼろぼろと崩れてゆく灰の骸も、全身の肌から血をこぼし始めたシナの双子も、決してその手を離さないのです。陽炎が幾度も立ち上りました。シナの双子の両足が灰化して崩れ始めました。しかしその手は決して離されないのです。
おお、無魂学者の体から、存在までもが薄まるかのように、色が消えてゆきます。
それは戦友達が、自らの命と引き換えにかき集めた、ほんの一握りの機会。
勇者ロクスリは再び大剣に破邪の呪を込めました。身を貫いた戦斧の傷から、命はとめどなくこぼれてゆきます。しかし、そんなことはもうかまわない。
勇ましいお前達がしたように、俺も自分の責を全うするのだ。
かすかに焦げるような匂いと共に、大剣が白熱を帯びました。ロクスリは今や、自分がその剣になったかのような気持ちとなり、目の前の災厄を強く睨みました。
そして剣は断固として振り下ろされ、
次にロクスリが息を大きく吐いたとき、灰色の大地に立っているものは、最早彼以外にはないのでした。
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黒い脳漿がどくどくと溢れ広がる中、腹に戦斧の柄を刺したままの勇者は、戦友の遺骸がそれ以上穢れることのないよう、無魂学者だったものから引き離しました。
魂が肉体とつながっていれば、黄泉路に向かう彼らを戻すことは可能でした。しかしもはや、それが叶わないことは明白でした。そしてまた、勇者ロクスリの魂も、肉体から離れようとしているのでした。ついに彼はその場に倒れ伏し、しかし何とか顔を横に向け、まだ青を残していた空を見上げるのでした。
その色はあまりにもありふれた鮮やかさなのでした。
勇者はまだ世界が続いていることを嬉しく思いました。
涙で潤んだ瞳は、やがてゆるゆると閉じようとしました。
しかし、ふと、その視野に影が差したように思いました。
誰かが死にゆくロクスリの顔を覗き込んでいるのです。
しかし、失われてゆく命のともし火はもはや弱く、勇者はその瞳に映る姿が誰なのか、見定めることがなかなかできないのでした。
「なかなかいい仕事だったな、兄ちゃん」
勇者は何か応えようとして、唇はかすかに動きました。
「そりゃあんがとよ」
奇妙にしゃがれた声は苦笑しました。
「けれど、俺はあんたが好きだから懐いてたんじゃねえよ」
言いながら神聖獣は勇者の頭蓋を咥え込みました。復元されたばかりの下半身が、まだ白い煙を上げています。
「勇者の魂ってのを一度喰ってみてえな、そう思って見てたんだよ」
ああこれだから魂喰いはやめられねえ。そう神聖獣はつぶやいて、赤く充血した目をとろとろと輝かせました。
それから、ごちゅり、とつぶれる音がして、それが勇者の聞いた最後の音になりました。
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ふと、音がした気がして、夜更けまで書類を作っていた聖教会守長は、階下に下りて古い楡のドアを押し開けました。そして掲げた手燭のちらちらする明かりの中に、弱弱しくうずくまる獣の姿を見つけたのです。
「ガロー」
思わず守長は駆け寄ると、幼い頃にここに連れてこられて以来の付き合いとなる白い獣を抱きしめました。それから豊かな毛並みに包まれた体をくまなく調べました。そしてどうやら怪我は全て修復されているということを確かめ、ようやく安堵しました。
神聖獣は何も言わず、それまで咥えていたものを守長の足元にそっと置きました。
それはロクスリが首から提げていたクロスで、
それだけで守長は全てを悟ったのです。
「彼らは全てを賭して王土を守ったのだな」
再び訪れた安寧と、支払われた代償のあまりの大きさ。
「ああガロー」
一言では言い表せない感情が守長の胸に溢れ、守長は再び、白い獣を抱きしめるのです。
「くうん」
神聖獣は老いた聖教会守長に身を預けたまま、ふさふさとした尾をパタパタと振りました。
王都の夜は静かに冷たく更けてゆき、
獣は自分にしがみつき震える男の頭蓋から目を離そうとしないのでした。
(終)




