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また、一緒にごはんを食べよう。

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/28

「旅行にまで、やることリスト持ってこないでよ」


 莉子に言われて、私はスマートフォンの画面を伏せた。


「持ってきたんじゃない。増えたの」


 ゼミのグループ発表で、担当を決めたはずの資料が、なぜか全部私のところに集まっていた。


 誰かが遅れるたび、誰かが困るたび、私の予定だけが都合よく書き換わる。


「断ればいいのに」

「それができたら、趣味の欄に『断ること』って書いてる」

「じゃあ、この土日は断る練習ね。まずスマホをやめて」


 莉子が私の手からスマートフォンを抜き取り、鞄の外ポケットに差し込んだ。


 車窓の向こうでは、山が少しずつ近づいていた。


 大学三年の秋。

 土曜日の昼下がりだった。


 宿を見つけてくれたのも、電車を調べてくれたのも、莉子だった。

 私は着替えを鞄に詰めただけで、いま、温泉旅館へ向かっている。


「ほんとにいいの? 宿代、半分払うよ」

「今回は私が誘ったんだから、いいって」

「ここまでしてもらうと悪いって。今度は私がおごるから」


 莉子は、窓から差す光に目を細めた。


「うん。楽しみにしてる」


 彼女とは、入学してすぐに仲よくなった。


 履修登録に失敗した日も、初めてのバイトで客に怒鳴られた日も、莉子はだいたい、おいしいものを持って隣に座った。


 最初は、みんなそうなのよ。


 同い年なのに、少し年上の人みたいなことを言った。


 それから、泣いててもお腹はすくよ、と自分の唐揚げを一つ分けてくれた。


 気づけば、二年半も一緒にいた。


「留学の前に、もう一回くらい旅行したいね」


 私が言うと、莉子は少しだけ唇を尖らせた。


「また、その話」

「まだ先のことだけど」

「美緒には先でも、私にはすぐなの」


 来年の春から、私は半年間、交換留学へ行くことが決まっていた。


 留学の連絡の入れたとき、莉子は誰より喜んでくれた。

 それなのに、それからときどき、置いていかれる子供みたいな顔をする。


「半年なんて、すぐだよ」

「私には、すごく長いと思う」

「帰ってきたら、また一緒にごはんを食べよう」

「帰ってくるまで待てない」


 そう言ってから、莉子は冗談にするように笑った。


「毎日通話してよ」

「時差があるじゃん」

「起きてるほうが頑張る」

「絶対、私じゃん」


 笑いながら、莉子が私の鞄を自分のほうへ引き寄せた。


 また、外ポケットでスマートフォンが震えていた。


「この二日間はさ。なんにも考えなくていいよ。私に任せて」

「それ、一生言ってほしい」

「いいよ」


 あまりに簡単に言うので、私は笑った。



     *



 旅館は、拍子抜けするくらい普通だった。


 山の中にあるから、もっと古びた建物を想像していたのだけれど、玄関は自動ドアだった。


 傘袋をかぶせる機械があって、その隣には消毒液が置かれている。


 よく磨かれた床。

 季節の花。

 小さな売店。


 ロビーのテレビでは、知らない芸能人が巨大な餃子を食べていた。


 窓際では、白髪のおじいさんが新聞を読んでいた。

 その向かいのソファで、若い男の人が観光パンフレットをめくっている。


 どこにでもある、週末の旅館の風景だった。


「ようこそ、しずり屋へ」


 女将さんは、薄紫の着物を着た、五十歳くらいに見える人だった。


 声を張らないのに、よく通る。

 疲れたところに柔らかい布をかけてもらうような声だった。


 莉子が予約の名前を告げると、私たちはソファへ案内された。


 温かいおしぼりと、蜂蜜の入ったお茶。


 莉子が宿帳を書いているあいだ、私はそばに置かれた感想帳をめくった。


 料理がおいしかった。

 接客が丁寧だった。

 また来たい。


 丸い文字や、達筆な文字が並んでいた。


『大切な人と、忘れられない時間を過ごせました』


 その下には、二人で手をつないでいる絵が描かれていた。


「いい宿っぽい」

「美緒、こういうところ好きだと思って」


 莉子はペンを置いた。


「お苦手なものはございますか」


 女将さんの問いに、私は、ありません、と答えようとした。


「辛いものは、控えめでお願いします」


 先に莉子が答えた。


「かしこまりました」


 私も何か言うべきかと思ったけれど、実際、苦手なものはほとんどなかった。


 出されたものを残さないのは、昔から少しだけ自慢だった。


 案内された部屋は、山茶花(さざんか)という名前だった。


 二階の角部屋で、窓の外には川が流れていた。

 赤くなりかけた木々が、水面に映っている。


 座卓には栗のお菓子。

 洗面台には使い切りの化粧水。


 枕は、柔らかいものと硬いものを選べるらしい。


「すごい。人間の機嫌を取るためのものが全部ある」

「美緒はとりあえず栗で取れるね」

「安く見ないで。お茶も必要」


 莉子は笑いながら、急須に湯を注いだ。


 私は扉の裏にある館内図を見た。


 階段の位置と、非常口の緑色を確認する。


 廊下の突き当たりの扉から、外階段を使って庭へ下りられるらしい。


「また逃げ道調べてる」

「寝る場所の出口くらい、知っておきたいじゃん」

「美緒らしい」


 そう言った莉子の声が、少しだけうれしそうだった。



     *



 お風呂には、生姜が入っていた。


 薄い布袋に入れられたそれが、湯口の近くにいくつも浮かんでいる。


 湯気を吸い込むと、鼻の奥に、きりっとした匂いが残った。


「変わってるね」

「養生が売りなんだって」


 莉子は肩まで浸かり、大きく息を吐いた。


 私も真似をした。


 お湯が体を支えてくれる。


 頭の中でずっと鳴っていた、あれをしなきゃ、これを返さなきゃ、という声が、少しずつ遠くなっていった。


「なんか、私、ちゃんと大事にされてる気がする」

「いつも自分を大事にしなよ」

「それができないから、今日は生姜に甘やかしてもらってるの」


 笑った拍子に、お湯が顎に触れた。


 湯船の縁に置かれた莉子の爪は、薄い水色に塗られていた。

 旅行のために塗ったと言っていた色だ。


 私は何も塗っていない自分の爪を見た。


 バイト先では禁止されているし、どうせすぐ剝がれるからと、長いこと何もしていなかった。


「今度、私もやってみようかな」

「塗ってあげるよ」

「変な色にしない?」

「しない。美緒に似合うの、ちゃんと知ってる」


 湯上がりには、冷たい果実水が用意されていた。


 夕食は薬膳料理だった。


 木の実を散らした粥。

 根菜の煮物。

 茸のお吸い物。

 名前のわからない赤い実が入った小鉢。


 見た目は地味だったけれど、どれも丁寧な味がした。


 濃いものを食べたときの満足とは違う。

 空いていた場所へ、ちょうどよい大きさのものが収まっていくような食事だった。


「どうぞ、よくお召し上がりください」


 料理を運んできた仲居さんが、私のお椀へ粥を足した。


「体の内側から、ゆっくり整えてまいりますから」


「内側まで接客されてる」

「美緒の内側、だいぶ散らかってそう」

「勝手に見ないでよ」


 私は覗き込まれた口を、急いで閉じた。


 莉子がスマートフォンを持ち上げた。


「一枚、撮っていい?」

「いま? 私、お粥持ってるよ」

「うん。そのままで」


 私はお椀を抱えて、変な顔をした。


 莉子は撮った写真をしばらく見つめ、それから、満足そうにうなずいた。


「いい顔」


 少し照れた。


 このところ、自分の写真なんて撮っていなかった。


 記録するのは、講義の板書と、提出物の控えと、失くすと困る書類ばかりだった。


 食後には、香油を使った手足のお手入れがついていた。


 莉子はくすぐったいからと辞退したけれど、私は遠慮なくお願いした。


 敷いてもらった布団に横になると、仲居さんが枕元へ蓋つきの湯飲みを置いた。


「こちらは、お休みのお茶でございます。少し冷ましてからお召し上がりください」


 私は、はい、と答えた。


 温かな手が、ふくらはぎや肩をゆっくり押してくれる。


「よく頑張っていらっしゃいますね」


 ありふれた言葉なのに、不意に目の奥が熱くなった。


 頑張った結果ではなく、頑張っている自分を、そのまま認められた気がした。


「お力を抜いてください。ここでは、何もなさらなくてよろしいんですよ」


 私はもう一度、はい、と答えた。


 お茶は、あとで飲もう。

 あと、少しだけ。


 温かな手が肩甲骨の間を押した。


 私は、自分がどれだけ疲れていたのか、ようやくわかった。


「ずいぶん、ほぐれてまいりました」


 眠気の向こうで、仲居さんがそう言った。



     *



 目を開けると、部屋には私しかいなかった。


 時計は九時四十分を指していた。


 布団の上で、うつ伏せに近い格好のまま眠っていたらしい。


 枕元には、手をつけていない湯飲みがあった。


 座卓に、莉子の字でメモがある。


『お夜食の相談してくるね』


 そういえば、十時に小さな夜食が出ると聞いていた。


 ここまでしてもらって、さらに夜食まである。


 私は起き上がって、思いきり伸びをした。


 肌に、薄く甘い匂いが残っていた。


 生姜と、香油と、お風呂の木の匂い。


 自分が、どこかきれいな場所にしまわれる前のものになったような気分だった。


 喉が渇いていた。


 湯飲みの蓋を取ると、甘い香りがした。


 いまは、その香りが少し重たかった。

 冷たい水が飲みたかった。


 自動販売機は一階だったはずだ。


 スマートフォンは座卓の端で充電していた。


 水を買って戻るだけなので、財布だけを持って部屋を出た。


 階段へ向かう途中で、廊下の奥の引き戸が開いた。


 中から、明るい笑い声が漏れた。


 お食事処、と書かれた木の札。


 私たちは部屋食だったので、中を見ていなかった。


「お待たせいたしました」


 女将さんの声がした。


 私は、なんとなく足を緩めた。


 長い卓があった。


 その上に、男の人が寝ていた。


 ロビーでパンフレットをめくっていた、若い人だった。


 白い布を胸元までかけられ、目を閉じている。


 布は、呼吸に合わせて小さく上下していた。


 卓の両側には、浴衣姿の客が座っていた。


 何かの、催しだろうか。


 そう思おうとした。


 新聞を読んでいたおじいさんが、男の人の手を持ち上げた。


 孫の手を取るような、優しい仕草だった。


 おじいさんが、口を開けた。


 顎が、胸まで下りた。


 その中へ、男の人の手が、手首まで入っていった。


 硬いものの折れる音がした。


 男の人は、目を開けなかった。


 女将さんが、すぐに白い布を差し出した。


 着物を汚さないようにするための動きだった。


 私は後ずさった。


 スリッパの踵が、廊下を擦った。


 おじいさんと、目が合った。


 目だけは、昼間と同じだった。


 女将さんが振り向くより先に、私は横の通路へ逃げ込んだ。


 片方のスリッパが脱げた。


 拾えなかった。


 息が喉に引っかかった。


 声を出したら、何かが始まってしまう気がした。


 壁に背中を押しつける。


 すぐそばに、配膳用の台車があった。


 大きな漆塗りの盆。

 畳まれた白い布。


 そして、挟み板につけられた一枚の紙。


 自分の名前が、目に入った。


 山茶花。

 佐伯美緒。


 その下に、細かな字が並んでいた。


 生姜湯   四十分。

 薬膳    完食。

 香油揉み  済。

 休ませ茶  配膳済。

 仕上がり  二十二時。


 紙の端をつかんだ自分の指から、甘い匂いがした。


 さっきまで、よい匂いだと思っていた。


 肩を押してくれた手。

 粥を足してくれた人。

 湯船に浮いていた生姜。


 ずいぶん、ほぐれてまいりました。


 私は口を押さえた。


 胃の中に入れたものを、全部吐きたかった。


 肌に残っているものを、皮膚ごと剝がしたかった。


 莉子。


 スマートフォンを取って、莉子を連れて。

 警察に電話しなければ。


 私は壁から背中を離した。



     *



 部屋へ戻ると、莉子は座卓の前にいた。


 髪を結び直していた。


 鏡の横に、薄い水色の指が見えた。


「莉子」


 自分の声が、自分のものに聞こえなかった。


「逃げよう」


 莉子は鏡越しに私を見た。


「どうしたの」

「ここ、だめ。すぐ出よう。説明はあとでするから」


 彼女の手首をつかんだ。


 温かかった。


 いつもの莉子の手だった。


 それに触れた途端、目から涙が出た。


「人が、食べられてた」

「美緒」

「本当なの。見たの。私の名前もあって、お風呂とか、ごはんとか、全部、あれ」


 うまく言えなかった。


 でも、莉子ならわかってくれるはずだった。


 私は空いている手をスマートフォンへ伸ばした。


 それより先に、莉子が画面を伏せた。


 その上へ、手を置いた。


「見ちゃったんだ」


 握っていた手首が、急に重く感じた。


 廊下で衣擦れがした。


 振り向くと、女将さんが立っていた。


 片方の手に、私が脱ぎ捨てたスリッパを持っていた。


「お足元が冷えますよ」


 穏やかな声だった。


「来ないで」


 私は莉子の腕を引いて、自分の後ろへ隠そうとした。


「来ないでください」


 女将さんは足を止め、深く頭を下げた。


「お客様。まことに申し訳ございません。こちらの不手際で」


 謝っているのだと思った。


 私たちに、何かを説明するつもりなのだと思った。


 けれど、女将さんが顔を向けていたのは、私ではなかった。


「怖い思いはさせないって、言いましたよね」


 莉子が言った。


 初めて聞く、冷たい声だった。


「眠ったまま、何もわからないようにって」

「お茶をお飲みになる前に、お休みになられたようでございます。こちらの確認が足りませんでした」


 女将さんの視線が、枕元の湯飲みへ移った。


 私は、莉子の手を放した。


 彼女はそれを追いかけるように、私の指へ触れた。


「ごめんね」


 その一言で、いままで見たものの並び方が変わった。


 宿を予約したのは、莉子だった。


 宿帳を書いたのも。

 私に何も考えなくていいと言ったのも。


 お苦手なものはございますか。


 女将さんは、私に聞いていたのではなかった。


「私を」


 舌が、うまく動かなかった。


「食べるの?」


 莉子はすぐには答えなかった。


 その沈黙に、私はまだ期待した。


 違うと言ってほしかった。


 どんな苦しい説明でも、いまなら信じられる気がした。


 莉子は、泣きそうな顔のまま、小さくうなずいた。


「美緒、向こうに行っちゃうでしょう」

「半年だよ」


 私は言った。


「半年したら、帰ってくるよ」

「そのあとは?」


 彼女は、まっすぐ私を見ていた。


「卒業したら? 働き始めたら? そのあとも、ずっと一緒にいられる?」


 いつもの寂しがり方だった。


 電車の中で見せたのと、同じ顔だった。


「友達、だったじゃん」

「だった、じゃないよ」

「こんなの、友達じゃない」

「私は、美緒のこと大好きだよ、食べちゃいたいくらいに」


 いつもと同じ言い方だった。


 私が発表を褒められたとき。

 落ち込んでいる莉子に、お菓子を買っていったとき。

 ふざけて、どのくらい好きなの、と聞いたとき。


 同じ声で、同じ目をしていた。


 それが、わかった。


 この二年半が全部嘘だったと言われたほうが、まだよかった。


「食べたら、私はいなくなっちゃうよ」

「いなくならないよ」


 莉子が私の頰に触れようとした。


「声も、記憶も、ちゃんと残る。ずっと私の中にいられる」


 女将さんが、柔らかな声で続けた。


「そのためのお支度でございます。お身体も、思い出も、できるだけ損なわれませんように」


「それを、生きてるって言わない」


 私は莉子の手を払い、座卓の縁を両手で持ち上げた。


 鏡が畳に落ちた。


 スマートフォンが充電コードを引きずって滑った。


 倒した座卓を避けようと、莉子が膝を引いた。


 女将さんが一歩、横へずれた。


 その隙間へ体をねじ込んだ。


 廊下を走った。


 残ったスリッパも脱ぎ捨てた。


 裸足の裏が、床に貼りついた。


 後ろから、莉子が私の名前を呼んでいた。


 返事はしなかった。


 廊下の途中に消火器があった。


 私は壁からそれを外し、追ってくる影へ白い粉を噴きつけた。


 廊下が見えなくなった。


 咳が出た。

 目が痛かった。


 それでも、近くの非常口の表示が、白い向こうにぼんやり光っていた。


 扉の裏の館内図を思い出した。


 この先の扉を開ければ、外階段へ出られる。


 莉子に笑われた。


 また逃げ道調べてる、と。


 そうだ。

 調べていた。


 私は知っている。


 どこへ行けばいいのか。


 今度だけは、自分でわかっている。


「美緒、危ない!」


 後ろで声がした。


 私は止まらなかった。


 消火器を片手に抱え、もう片方の手で扉の横棒を押した。


 開いた。


 ちゃんと、開いた。


 冷たい夜気が頰を打った。


 川の音がした。


 外階段の手すりの向こうに、庭の灯りが見えた。


 裸足を一歩、外へ出した。


 そのとき、手首が引かれた。


 薄い水色の爪だった。


「大丈夫。つかまえた」


 莉子が言った。


 転びかけた私を助けてくれたときと、同じ声だった。


 私は消火器を振り上げた。


 彼女の肩に当たった。


 鈍い音がしたのに、つかむ力は緩まなかった。


「離して」


 声が裏返った。


「離して、お願い」


 扉の縁に指をかけた。


 爪が痛かった。


 外は、すぐそこだった。


 莉子がもう片方の手を伸ばし、扉を押した。


 私は指を引っ込めた。


 扉が閉まった。


 消火器が腕から滑り落ち、重たい音を立てた。


「莉子、助けて」


 わかっていた。


 私をつかんでいるのが、その莉子だということくらい、わかっていた。


 それでも、とっさに出てきたのは友達の名前だった。


 怖いときに呼ぶ名前を、私はほかに持っていなかった。


 白い粉の中で、莉子が困ったように笑った。


 目と鼻は、そのままだった。


 口だけが、知っている場所で終わっていなかった。


 後ろで、女将さんが言った。


「お客様。どうぞ、こちらへ。お支度は整っております」


 莉子は私だけを見ていた。


 その目が、こんなときまで優しかった。


「大丈夫」


 彼女は言った。


「ひとりぼっちには、しないから」



     *



 朝、私はまだ、考えることができた。


 川の音が聞こえた。


 玄関の向こうに、山が見えた。


 赤くなりかけた木々。

 朝の光。

 誰かがキャリーケースを引く音。


 帰れる。


 そう思って、泣こうとした。


 涙は出なかった。


「お忘れ物はございませんか」


 女将さんの声がした。


 私は顔を背けようとした。


 けれど、顔は動かなかった。


「大丈夫です」


 声が出た。


 私が言おうとした言葉ではなかった。


 目の前に、手が持ち上がった。


 細い指が、耳の横の髪を直した。


 薄い水色の爪だった。


 玄関脇の大きな鏡に、莉子が映っていた。


 私は、いなかった。


 鏡の前に立っているのは、莉子一人だった。


 鏡の中の莉子がまばたきをすると、私の視界も一瞬暗くなった。


 私は腕を上げようとした。

 首を振ろうとした。


 どちらも、できなかった。


 浴衣の肩には、昨夜、消火器をぶつけた傷も残っていなかった。


「このたびは、ご満足いただけましたでしょうか」


 女将さんが尋ねた。


 莉子の唇が動いた。


「はい。とても」


 声は、隣からではなかった。


 もっと近いところから聞こえた。


「本当、お願いしてよかったです」


 やめて。


 私は叫んだ。


 口は開かなかった。


 声にしようとした言葉が、どこへも出ていかなかった。


 莉子の指が、私の鞄からスマートフォンを取り出した。


 画面には、母からの着信が残っていた。


 指が迷いなく、暗証番号を押した。


 知っているはずがなかった。


 一度だって、教えたことはなかった。


 でも、私は知っていた。


 知っている数字が、思い出そうとするより先に頭の奥から引き出されて、それに合わせて、莉子の指が動いた。


 私は何もしていない。


 何も、させてもらえていない。


『昨日は早く寝ちゃった。心配しないで。ちゃんと食べてるよ』


 私がいつも使う絵文字まで、ついていた。


 送信される。


 やめて。

 違う。

 お母さん、これは私じゃない。


 どこかで、女の人がため息をついた。


 若い人の声ではなかった。


 ――最初は、みんなそうなのよ。


 耳から聞こえたのではなかった。


 自分の考えごとの途中に、知らない人の言葉が割り込んできた。


 知らない声なのに、その言い方を知っていた。


 莉子が、失敗して落ち込んでいる私を慰めるときの言い方だった。


 少し離れたところで、男の人が咳払いをした。


 その奥にも、誰かがいた。


 小さく何かをつぶやいていた。


 一人ではなかった。


 私はようやく、彼女の言葉の意味を知った。


 ひとりぼっちには、しないから。


「お連れ様のお荷物も、そのままお持ちになりますか」

「はい」


 莉子は私の鞄を、自分の肩にかけた。


「大事なものも、入ってるので」


 女将さんは、最初に迎えてくれたときと同じ深さで頭を下げた。


「それでは、皆様。どうぞ、お気をつけて」


 莉子が歩き出した。


 外の空気は冷たく、光はまぶしかった。


 全部、私にもわかった。


 川の音も。

 砂利を踏む感触も。

 体の内側にある、満ち足りた重さも。


 わかりたくなかった。



     *



 駅に着くと、莉子は私のスマートフォンを開いた。


 母へのメッセージ画面に、文字を打つ。


『莉子とはここで別れたよ。少し一人で寄り道してから帰るね』


 私は、文末に句点をつけない。


 心配させたくないときには、笑顔の絵文字を一つだけ使う。


 莉子は、どちらも知っていた。


 私の記憶の中から取り出したのだ。


 送信してから、スマートフォンの電源を切った。


 私の鞄と一緒に、駅のコインロッカーへ入れる。


 扉を閉めた。


 鍵を抜いた。


 ホームへ向かう途中、莉子はその鍵を、ごみ箱の奥へ落とした。


 止められなかった。


 何一つ、止められなかった。



     *



 一週間後、莉子は小さな部屋で、同じ質問に答えていた。


「美緒さんと駅で別れたというところから、もう一度お願いします」


 机の向こうにいる警察の人は、莉子の顔と、手元の紙を交互に見ていた。


 旅行の帰り、駅で私とは別れた。

 そのあとから連絡が取れなくなった。


 莉子は、そう繰り返した。


 私のスマートフォンと鞄は、三日後、駅員が期限切れのコインロッカーを開けたことで見つかった。


 しずり屋は、私たち二人が朝、そろって宿を出たと証言していた。


 玄関の防犯カメラには、その時間だけ、白いノイズしか残っていなかった。


 莉子の説明を裏づけるものはあった。


 同時に、あまりにもきれいにそろいすぎていた。


「旅館へ行く前、美緒さんと何か揉めたことはありませんでしたか」

「ありません」


 莉子は目を伏せた。


「大切な友達でした」


 嘘ではなかった。


 それが一番、恐ろしかった。


「こちらでも確認を続けています。何か思い出したら、小さなことでも知らせてください」


 警察の人は、莉子の説明に納得したとは言わなかった。


 それでも、その人が質問している相手と、助けようとしている相手が、同じ椅子に座っていることには気づかなかった。


 私は何度も叫んだ。


 すぐ目の前に、助けてくれる人がいた。



     *



 母に会ったとき、莉子は泣いた。


 私も泣いていた。


 でも、視界をにじませたのは莉子の涙だった。


「あの子、旅行では、どうだった?」


 母が尋ねた。


 目の下に、濃い影ができていた。


 着ているカーディガンのボタンが、一つずれていた。


「楽しそうでした」


 莉子は自分のスマートフォンを取り出した。


 私が、お粥を持って笑っていた。


 ふざけた顔をしていた。


 何も知らずに、友達のカメラへ向かっていた。


 莉子の指が、私の顔を少し大きくした。


「ずっと、こうやって笑ってました」


 母が画面に触れた。


「そっか」


 それだけ言って、口元を押さえた。


 私は写真の中にはいなかった。


 ここにいた。


 お母さん。

 こっち。

 ここだよ。


 母が、莉子の手を握った。


「ありがとうね。あの子と、仲よくしてくれて」


 温かかった。


 母の親指の内側に、小さな硬いところがあった。


 昔からある、あの感触だった。


 莉子が、その手を握り返した。


 私は、離したくなかった。


 けれど、手を離す時を決めたのも、莉子だった。



     *



 それから一か月のあいだに、莉子は立花千尋と何度も昼食を取った。


 きっかけを作ったのは莉子だった。


「美緒が、千尋ちゃんのことをよく話してたよ」


 嘘ではなかった。


 千尋は、サークルの一年生だった。


 新歓で輪に入れず立っていたところへ、私が声をかけた。


 そのときの表情も。

 好きな食べ物も。

 どんな言葉をかければ安心するのかも。


 全部、私の記憶に残っていた。


 莉子は、その記憶を使った。


 私が座っていた席に座り。

 私が選びそうな菓子を渡し。

 私が相手を安心させるときの笑い方をした。


 千尋は、少しずつ莉子に心を開いた。


 私には、それを止められなかった。


 その日も、二人は学食の窓際に座っていた。


 私たちがよく使っていた席だった。


「あの。これ、よかったら」


 千尋が、小さな焼き菓子の袋を机に置いた。


「莉子先輩、最近ちゃんと食べてないみたいだったから」


 莉子が袋を開けた。


 甘い匂いがした。


「ありがとう」


 焼き菓子を一つ、口に入れる。


 私にも味がした。


 優しい味だった。


 どこか遠くで、あの女の人の声がした。


 ――泣いてても、お腹はすくよ。


 それは、莉子自身の言葉ではなかった。


 莉子の中にいる、誰かの言葉だった。


 そして、いま。


 莉子は、私の言葉を使って千尋を安心させている。


「千尋ちゃん」


 莉子が言った。


「来月の第二土日って、空いてる?」

「たぶん、大丈夫ですけど」

「温泉、好き?」

「好きです。最近、行ってないですけど」


 莉子の胸の奥で、何かがゆっくり動いた。


 空腹だけではなかった。


 千尋のことを、もっと知りたい。


 近くに置きたい。

 どこにも行かないようにしたい。


 私に向けられていたものと、同じ感情だった。


「じゃあ、旅行に行かない?」

「えっ、私とですか」

「千尋ちゃんと行きたいの」


 千尋は驚いたあと、うれしそうに笑った。


「行きたいです」


 やめて。


 私は叫んだ。


 断って。

 私を信じなくていい。

 その人から離れて。


 声にはならなかった。


「食べられないもの、ある?」

「辛いものだけ、少し苦手です」

「わかった。宿に伝えておくね」


 莉子はテーブルの下で、スマートフォンを開いた。


 真っ黒な画面に、白い文字が浮かんだ。


『しずり屋 お連れ様受付』


 莉子の指が動いた。


『次のお連れ様が決まりました』


『立花千尋』

『大学一年生』

『来月第二土曜日より一泊』

『辛いものは控えめ』

『前回と同じ山茶花の間を希望します』


 送信する。


 すぐに返事が届いた。


『承知いたしました』


『生姜湯』

『薬膳料理』

『香油揉み』

『休ませ茶』


『立花千尋様』

『仕上がり 二十二時』


 私は、莉子の指を止めようとした。


 一本だけでも動け。


 スマートフォンを落とせ。


 画面を割れ。


 何もできなかった。


 莉子が画面を閉じると、旅館とのやり取りは跡形もなく消えた。


 千尋は、何も知らずに焼き菓子の袋を丁寧に畳んでいた。


「宿代、払います」

「いいよ。今回は私が誘ったんだから」

「でも、悪いです」

「じゃあ、次は千尋ちゃんがおごって」


 その会話を、私は知っていた。


 電車の中で、莉子と交わした会話だった。


「この二日間は、なんにも考えなくていいよ」


 その言葉も知っていた。


「全部、私に任せて」


 千尋は、何の疑いもなくうなずいた。


「楽しみです。旅館のごはん、おいしいといいですね」


 莉子が笑った。


 語尾で小さく息を抜き、相手を安心させるように声を明るくする。


 それは、私が友達を誘うときの笑い方だった。


「うん」


 莉子は言った。


「また、一緒にごはんを食べよう」


 今度は、その言葉の意味を、私は間違えなかった。

読んでくださり、ありがとうございました。


知らない場所へ行くとき、知っている人が隣にいることほど、心強いものはないと思います。

その人がいつも自分を助けてくれる、大切な友達なら、なおさらです。


今回は、「優しさが嘘だった話」ではなく、「優しさだけでは安心できない話」を書きたくなりました。


生姜のお風呂も、薬膳料理も、温かな手も。

途中までは、本当に泊まってみたい旅館です。


「また、一緒にごはんを食べよう」


読み終えたあと、この何気ない約束が、少しだけ違って聞こえたらうれしいです。

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