実家を追い出された不遇の娘ですが、自らの悲劇を暴露本にして出版し、破滅の特等席を買いました。
雨上がりの生ぬるい泥と、線香代わりに焚いた安っぽい白檀の臭いが混ざり合って、鼻の奥がツンと痛む。昨夜の告別式なんて、最初からなかったみたいだ。応接室の空気は、もうとっくに腐りきっていた。
「さっさとその手提げひとつで出て行け、エレナ!」
ガツン、と分厚いオーク材のテーブルが鳴る。
声を張り上げたのはマルグリットだ。父が死んでまだ一日も経っていないのに、奴隷みたいに塗りたくったファンデーションの隙間から、ひび割れた目尻の皺を歪めてニヤついている。
その脇にはジュリアン。三十を過ぎて仕事もせず、親の金で酒と女を買い叩いてきた連れ子だ。血走った目で私を見下ろす顔が、やけに熱を帯びていて胸がむかむかする。憎しみというより、ねっとりした湿疹みたいな視線。
「これが親父の遺言状だ。オルコット商会も、この屋敷も、全部俺のものだ。お前には金貨一枚残らん」
黄ばんだ紙切れを突きつけられても、私の足はピクリとも動かない。喪服の裾が冷えた床を撫でる。息を吸う。胸の奥に溜まった冷たい空気をただ吐き出す。視線だけで見返してやると、ジュリアンの額に青筋が浮かんだ。
「なんだその目は……!昔からそうだ、お前はいつも俺をバカにしやがる!帳簿が読めるから何だ?親父のお気に入りだから何だ!?胸くそ悪いんだよお前は!」
奴がポケットに突っ込んだ手を荒々しく引き抜いた。クシャクシャになった汚いティッシュと一緒に、手のひらから転がり出た鈍い光。
サファイアのブローチ。母さんが死んだ日、冷たくなった胸元から私が外した、唯一の形見。
「返して」
手が勝手に伸びていた。
ガッ!!
「ぐっ、……!」
革靴の硬い踵が、私の右手の甲を床ごと踏みつける。メリ、と皮膚の下で骨と肉が嫌な音を立てて潰れた。強烈な激痛が遅れて脳を殴りつけ、膝がガクガクと砕ける。絨毯に顔が近づくと、カビと湿った泥の匂いがダイレクトに鼻腔を刺した。
「ハッ!ほら、欲しいなら拾えよ!」
靴底で踏みにじられるサファイア。パキッと甲高い音がして、繊細な金細工が歪み、青い石が粉々になって弾け飛んだ。
「お前は俺を見ていりゃいいんだよ!勝手にどっか行こうとすんじゃねえ!」
ジュリアンが喉を鳴らして咆哮する。奴の手には、私の机の引き出しから引っ張り出してきた万年筆があった。母さんからもらった最後の誕生日の贈り物。
パキッ。
二つに折れた軸から、ドロッとした濃紺のインクが溢れ出し、ジュリアンの指先を汚す。汚い唾が飛んできた。そのまま奴は、私が何夜も徹夜して書き殴った原稿の束を鷲掴みにした。
「なんだこの落書きは!カリカリカリカリ気取った文字書きやがって!俺の知らん世界に行こうとしてんじゃねえ!」
破裂するような音を立てて、紙の束が真っ二つに裂ける。千切れた原稿が舞い、そのまま暖炉の炎の中へ放り込まれた。
メラ、と紙の端が黒く縮れ、私が紡いだ言葉が、ただの灰になって煙突へ吸い込まれていく。
(……ああ、そう)
手の甲の痛みが、じんじんと熱を帯びて麻痺していく。ジュリアンのこの狂気。劣等感?違うな。ただの執着だ。泥みたいにしつこくて、薄気味悪い愛着。ゲロが出そうだ。
それに、昨夜の父さんの顔が嫌でも脳裏にチラつく。
息が引き取った瞬間、マルグリットは涙一つ流さず公証人を呼びに部屋を飛び出していった。残された静かな部屋で、私は冷たくなった父さんの顔を見つめていた。幼い頃、膝の上で本を読んでくれた父さん。商売の話を嬉しそうにしてくれた父さん。……だけど母さんが死んで後妻を入れてからは、私の顔を見るたびに。
「お前さえいなければ」
「死んだ妻の面影が邪魔だ」
怒鳴り散らすだけの老害に成り下がっていた。
胸の不快感に耐えかねて、ベッド脇の薬棚を漁ったときのことが思い出される。奥の隙間に転がっていた、小さな褐色の瓶。底に残っていた微量の結晶と、焦げた苦みのある独特の臭い。
『紫煙草』だ。
飲み続ければ頭が狂い、疑心暗鬼の果てに心不全を起こす禁忌の毒。
毒のせいで狂っていた。私を冷遇したのも、あの毒のせい。……だから何だっていうの。
同情なんて湧いてこなかった。綺麗な悲しみなんて、最初から私の中にはない。毒を盛られる前から、父さんは母さんの面影から逃げるようにあの女を抱き寄せ、私を庇うことから逃げ続けたんだ。正気を失っていたから?違う。ただ、自分が弱かっただけだ。
父さんの死で、この館に留まる理由は綺麗さっぱり消えた。
「おい、聞いてんのかエレナ!路頭に迷って野垂れ死ね!」
ジュリアンの怒号。右手の甲から滴る赤黒い血が、絨毯に重い染みを作っていく。
ゆっくりと立ち上がる。血塗れの右手を左手で覆い、顔を上げた。
「何だその目は……!謝れ!俺に謝れよ!」
ジュリアンが少し後退る。自分を否定されるのが怖くてたまらない顔。
唇を少しだけ開く。
「……私に、兄なんていません」
「な……ッ!?」
「あいにくね。私を縛れるものなんて、もうここには何一つないの」
足元に転がるサファイアの破片を、靴底で踏みつぶしながら歩き出す。左手で転がっていた手提げ鞄を持ち上げ、一度も振り返らずにドアノブを回した。
背後でジュリアンが何か叫び、マルグリットの下品な高笑いが廊下に響く。「せいぜい娼婦にでもなるがいいわ!」なんて声は、途中でどうでもよくなった。
重い木製扉を開けると、雨上がりの冷たい風が頬を打つ。毒とカビと腐臭に満ちた館の空気を、吐き出すように大きく息を吸った。
……隠し口座には、個人名義で溜め込んだ十分な印税がある。私を待っている読者もいる。それに何より。
この惨めな裏切りも、踏みつけられた手の痛みも、全部次の原稿の良いネタになる。
右手の血を拭いもしないまま、私は泥の跳ねる道を歩き出した。
◇
向かったのは、街の端の静かな住宅街に立つ邸宅だ。父さんにもあの親子にも内緒で、自分で稼いだ金で買った私の城。
重い鉄門をくぐると、玄関前に男がひとり立っていた。高級なスーツを着込み、銀縁眼鏡の奥で神経質そうに目を走らせている。私の専属担当編集者、ハンスだ。
「遅いですよレナ先生!新作の打ち合わせからもう三日も……ああっ!?」
ハンスの口が止まる。私が抱えていた右手に目が留まったからだ。皮膚が破れ、乾いた血がこびりついた手。
ハンスは悲鳴のような息を吐き出すと、飛んできて私の手を包み込んだ。壊れ物を扱うみたいな、不自然な優しさで。
「なんということだ……!あなたの宝物のような手が!誰です、こんな酷い真似をしたやつは!?」
部屋に押し込まれ、ソファに座らされる。ハンスは手慣れた手つきで箱から消毒液と包帯を取り出し、床に膝をついて傷の手当てを始めた。
「義兄に踏まれました。母さんのブローチを割られ、万年筆を折られ、原稿は暖炉に放り込まれました」
淡々と事実だけを口にすると、ハンスの手が止まった。ゆっくり顔を上げる。そこに怒りも同情もなかった。眼鏡の奥で、気味が悪いくらい爛々と目が輝いている。
「……素晴らしい」
うっとりと息を漏らすハンス。
「その痛み、奪われた絶望、身内からの裏切り……!今のあなたには、誰も真似できない生々しい『毒』が詰まっている!復讐なんて警察に任せればいい!今すぐその怒りをペンにぶつけるんです!あなたの苦しみこそ、読者が喉から手が出るほど欲しがる最高の蜜だ!」
(……ああ、この男も狂ってる)
冷めた目でハンスを見下ろす。ジュリアンが暴力で私を囲い込もうとしたなら、ハンスは私の「作品」に憑りつかれ、痛みに悶行する姿を貪り食おうとする狂信者だ。
まあいい。利用できるなら狂人だろうが何だろうが構わない。
「ええ、書きますわ。ただの物語じゃない。あの館のドブネズミどもと、毒で狂った父さんの悲劇をそのまま書いた暴露本をね」
包帯が巻かれた右手の指先で、ハンスの胸元を突く。
「ただし証拠がいるの。ハンス、あなたの裏のコネを使って、あの女が父さんに盛っていた禁忌の毒草——『紫煙草』の売買記録を洗って」
「紫煙草!毒殺ですか!ゾクゾクしますねレナ先生!お任せください、王立警察の裏ルートに通じる『私の特別なコネ』で、闇の商人どもから記録を引っぱり出してみせますよ!」
ハンスは踊り出さんばかりの足取りで、深々と頭を下げると部屋を飛び出していった。
◇
新居での生活は呆れるほど快適だった。隠し口座の金と、これまでに築いた太いコネ。精神的な余白ができると、あの館での胸糞悪い記憶がそのまま滑らかなインクとなって原稿用紙を埋めていった。
一方で、私を追い出したオルコット商会は着実に傾いていた。
新会長気取りのジュリアンは毎夜酒を煽っていたらしいが、裏帳簿を回し、金利を計算し、取引先との面倒な交渉をすべて片付けていたのが誰だったのか、奴はまるで理解していなかったのだ。
売掛金の計算が合わないと悲鳴を上げる番頭をジュリアンは殴り飛ばし、給料の未払いに怒る職人たちを暴力で追い払った。結果、熟練の職人はいなくなり、客は逃げた。
焦ったあの親子に、ハンスが裏で流した「絶対に儲かる海外投資」の話が引っかかる。二人は飛びつき、商会の残金すべてをドブに捨てた。
すべては私の書いた筋書き通り——のはずだった。
屋敷を出て四ヶ月目の夜。激しい雨が窓を叩く中、ドアが壊れたような音で鳴った。
鍵を開けると、全身濡れネズミのハンスが立っていた。余裕ぶった顔は消え失せ、眼鏡がガタガタと揺れている。
「ハンス?何のマネです」
「さ、惨事です……!の大大変なことに……!」
部屋に転がり込んできたハンスは、掠れた声を絞り出した。
「毒のルートを探らせた『裏のコネ』ですが……あいつら自身が、闇市場で『紫煙草』を流していた元締めだったんです!」
眉が跳ねる。
「どういうこと」
「こちらの動きで察知されました!組織は証拠隠滅に動き、あの女に毒を売った拠点は火をつけられ、記録は全部灰です!薬売り自身も口封じで消されました……!」
頭を抱えて床にへたり込むハンス。
「私のミスです……!決定的な毒の購入記録が手に入りません!これじゃあの女を罪に問えない……!」
絶望に沈みながら、ハンスの目がまた歪な光を帯び始める。
「ですが……ああ、なんということだ!完璧な計画が破綻する絶望!先生、その蒼白な顔……ゾクゾクします!この悲劇も小説に盛り込みましょう!」
「黙りなさい、ハンス」
低く言い放つと、ハンスの口が凍りついた。
深く息を吐き、机の引き出しから「一冊の黒いノート」を取り出す。実家を出るとき、父さんの書斎から盗み出しておいた二重帳簿の写しだ。
「証拠が燃えた?薬売りが消えた?……だから何なの」
パラパラとページをめくり、ある数字の列を指で叩く。
「裏が消えたなら、表の『金の流れ』から引きずり出せばいいだけでしょ」
「え……?」
「あの女は毒を買うために、毎月商会から多額の金を抜いていたの。偽造手形を使ったつもりでしょうけど、私の目を誤魔化せるわけがないじゃない」
数字の羅列を見つめる。頭の中で金脈が繋がっていく。
「使途不明金が流れた架空口座、手形を割り引いた闇金、その金の行き先。金の糸を辿れば、売買記録なんてなくても『毒を買うために商会の金を流用した』決定的な横領と殺人の線が繋がるわ」
ハンスが息を飲み、口ぐちをぐぐっと開けたまま固まった。自分のヘマで詰んだはずの盤面を、目の前の少女が己の指先一本でひっくり返したのだ。
「素晴らしい……最高だ、レナ先生……!」
震えるハンスを無視して、書き上げたばかりの厚い原稿の束をデスクに叩きつける。
『欲深き継母と無能な連れ子〜毒に狂った男と破滅の館〜』第一巻、完成。
「ハンス、出版の手配を進めなさい。それと、この帳簿の解析資料を憲兵隊へ匿名で送るわ。準備は終わりよ」
窓の外、雨の打ちつける暗闇を見つめる。
追い詰められたドブネズミどもが、どんな不細工な面で泣き叫ぶか。せいぜい特等席で見物させてもらうとしよう。
◇
発刊から三日。王都中の本屋から『欲深き継母と無能な連れ子』の在庫が消えた。
大人気覆面作家「レナ」の久々の新作という理由だけじゃない。そこに書かれた人間の汚さが、ゴシップに飢えた民衆の野次馬根性に火をつけたのだ。
死んだ妻の財産を掠め取り、夫に毒を盛って狂わせた後妻。三十を過ぎても働きもせず、親の威光で暴力を振るう無能な連れ子。居場所を奪われ、傷を負って追い出された娘。
「おい、この登場人物の口癖……」
「『俺を見ろ』って職人を殴り飛ばすやつ……オルコット商会のジュリアンじゃねえか!?」
「厚化粧の継母って、そのままマルグリットだろ!」
口コミは泥水みたいに一気に街を覆った。心理描写も舞台のモデルも生々しすぎて、オルコット商会のことだと誰もが直感したのだ。
……だが、私が仕掛けた「告発」は、計算外の熱を帯びて暴走し始めた。
「あの毒婦を許すな!」
「前会長の仇だ!叩き潰せ!」
過剰な「正義感」に酔い痴れた民衆が、正気を失った群衆に変わる。松明と石コロを握りしめた連中が、実家の屋敷と商会を取り囲んでいた。
ドカッ、バリーン!!
怒号。叩き割られるガラス。門扉が引きちぎられ、庭の植木に火が放たれる。私が狙った社会的失脚は、民衆の野性によってただの物理的な破壊へと姿を変えていた。
◇
「ひぃぃっ!なに、この野蛮人どもは!警察は何をしてるの!?」
応接室で髪を振り乱すマルグリット。窓の外からは怒号と炎の爆ぜる音が嫌でも届く。商会の職人は全員逃げ、ハンスの嘘投資で金は一銭もない。そこへこの暴動だ。
「母さん!もう無理だ、逃げるぞ!」
青ざめたジュリアンが飛び込んできた。手には金庫から掻き集めた金品を詰めた革袋。
「ジュリアン!私も連れて……」
「触るなババア!!」
縋りつく腕をジュリアンが力任せに突き飛ばした。
「全部お前のせいだ!親父に毒なんて盛るからこうなったんだろ!俺は何も知らん!」
「なんですって!?あんたのためにやったんじゃないの!この恩知らずの豚!!」
床に這いつくばったマルグリットが吠える。その瞬間、歪んだ玄関のドアが叩き壊された。
「そこまでだ!!」
民衆を押しのけて踏み込んできたのは、憲兵隊の特捜班だ。先頭の男が、私が匿名で送りつけた二重帳簿の解析資料を突きつける。
「マルグリット・オルコット!前会長への毒殺および横領の容疑で逮捕する!金の流れから毒薬購入のルートはすべて割れている!」
「ひっ……!」
女が息を詰まらせた隙に、ジュリアンが裏口へ逃げ出そうと背を向けた。
「待ちなさいジュリアン!隊長さん、違います!毒を買ってこいと私に命じたのはこの息子です!こいつが主犯なの!!」
マルグリットが泥這いでジュリアンの足にしがみつく。
「ふざけるな離せ!毒の瓶を持ってたのはお前だろ!」
「あんたが指示したんじゃない!手を汚さずに自分を会長にしろって泣きついた癖に!」
「死ねババア!!」
ジュリアンがマルグリットの顔面を固い靴底で蹴り飛ばした。鼻血を噴き出しながらも、女は執念でジュリアンの服を引きちぎらんばかりに爪を立てる。
警察と、割れた窓から覗き込む野次馬の前で繰り広げられる、醜悪な肉親同士の擦りつけ合い。
「見苦しい、二人とも押さえつけろ!」
隊長の怒号。憲兵が飛びかかる。服を破かれ血で汚れたジュリアンは、金目のものの袋だけを抱え、裏口の煙の中へ必死の面持ちで消えていった。
「ジュリアンーっ!私を置いていくな!お前も地獄へ落ちろ!!」
手錠をかけられたマルグリットの絶叫が、煙の中に消えていく。
◇
数街区離れた高台。高級馬車の窓から、私はその惨状を見下ろしていた。
黒煙を上げて燃えるかつての実家。引き立てられていく後妻。逃げ惑う群衆。
隣のハンスが興奮で鼻息を荒くしながら、手帳にペンを滑らせている。
「素晴らしい……!恐ろしいほどの地獄絵図だ!自分の書いた物語が民衆を狂わせ、家を焼き尽くす……!レナ先生、あなたの復讐はあまりにも美しく、そして破滅的だ!」
「ハンス。うるさいわ」
静かにカーテンを引いた。
「毒の証拠が消えようが、民衆が暴徒化しようが……腐った人間が自分の醜さで勝手に自滅する結末は変わらないの。……さて、残るドブネズミはあと一匹ね」
実家も商会も、もう二度と立ち上がれない。完全に詰みだ。
膝の上に置いたサファイアのブローチ——差押えに入る前に、ハンスのルートで買い戻した母さんの形見——を、指の腹でそっと撫でる。まだ少し冷たい。
引き金は、もう引き切っていた。
◇
破滅から一週間。冷たい雨が降りしきる路地裏は、ドブとドロに塗れた腐臭が充満していた。
「……くそッ、返せ、俺の金だ……俺の金なんだ……!」
泥水の中に膝をつき、水に濡れてふやけたパンくずを拾い集める男がいる。破れたボロ布を纏い、髪は脂と泥でドロドロに固まっていた。オルコット商会の新会長と威張っていたジュリアンの無惨な成り果てだ。
あの時、母親を見捨てて奪い取った金庫の現金と貴金属は、駆け込んだ違法賭博場で一晩で全部スられた。裏社会の連中に身ぐるみ剥がされ、ボコボコにされて路地裏へ放り出されてから三日。自分で稼ぐすべも、誰かに集かる才覚もない男は、路上で泥水をすするだけの寄生虫になっていた。
チャリ……チャリ……。
規則的な足音が、雨の音を切り裂く。ぬかるみの入口に止まったのは、金箔の彫刻が施された最高級の黒塗り馬車だ。御手が扉を開ける。
降り立ったのは、漆黒のシルクドレスに身を包んだ私だった。胸元には、競売の手から力ずくで買い戻したサファイアのブローチが輝いている。後ろには護衛の男たちと、濡れた眼鏡を拭いもせずペンを走らせるハンスが控えている。
「……え?えれ……な……?」
泥の中から顔を上げたジュリアンが、血走った目を丸くした。踏みつけ、嘲笑い、家から叩き出したはずの腹違いの妹。自分とは比べものにならないほど気高く、巨万の富を身に纏った姿。
「エレナ……!エレナじゃないか!!」
ジュリアンの顔に、身勝手な期待が浮かぶ。
「生きていたんだな!頼む、助けてくれ!俺は騙されていたんだ、全部あのババアが勝手にやったことで俺は被害者なんだ!金をくれ!商会の金はお前が持ってるんだろ!?俺はお前のお兄様だぞ!!」
『俺を見ろ』というしつこい執着。ジュリアンは泥塗れの手を伸ばし、私のドレスの裾へ這い寄ってくる。
「……俺を見ろ!俺を捨てるなエレナぁぁッ!!」
「無礼者」
私が眉を動かすより早く、護衛の鉄甲の手がジュリアンの首根っこを掴み、そのまま雨のぬかるみへ叩きつけた。
「ブフォッ……!!」
顔面から泥の中に没するジュリアン。ゲホゲホと泥水を吐き出しながら地を這う男を、私はただ見下ろした。
「身の程をお知りなさい、ドブネズミ」
胸元のブローチにそっと触れる。
「私に兄などいませんと言ったはずよ。暴力でしか他人を繋ぎ止められず、最後には縋り付くことしかできない哀れな生き物。……フフ、最高の『取材資料』になったわ」
「取材……?お前、何を言って……ッ!」
「あなたの醜態は、私の新作の最終章を飾る最高のエピソードになるの。どうぞ、その泥の中で永遠に己の無能さを噛み締めて生きていって頂戴」
二度と視線を合わせず、足を翻す。
「待て!待ってくれエレナ!金を!俺を見ろ!エレナぁぁぁぁッ!!」
泥の中で叫ぶ情けない悲鳴を背中に浴びながら、馬車へ乗り込んだ。
◇
次に向かったのは、王立中央刑務所の地下深くにある最厳重面会室だ。
鉄格子の向こう、湿った石壁の部屋に座らされていたのはマルグリットだった。分厚い化粧は削げ落ち、乱れた髪のまま心身ともに参りきっている。
「エレナ……ッ!」
私を見るなり、マルグリットは鉄格子に突進してきた。
「ここから出しなさい!私は毒なんて盛っていない!全部あのジュリアンって豚が私を脅してやらせたのよ!あいつを捕まえなさいよ!!」
息子に裏切られ、罪を擦りつけられた恐怖で、女の精神は崩壊寸前だった。
鉄格子の手前で腰を下ろし、静かに口を開く。
「お父様を殺し、私を追い出した罪で裁かれる気分はどうかしら、マルグリット」
「あんた……覚えているのよ、私はあんたの継母よ!?商会は!?オルコット商会はどうなったの!?」
「『オルコット商会』なら、もう存在しないわ」
冷たく吐き捨てる。
「差し押さえられて競売にかけられた資産と権利は……私の印税で全部買い取ったの。でも『オルコット』なんて名前はドブに捨てて、私の母さんの名を冠した新会社として、明日から再出発するわ」
「な……ッ!?」
「あなたが奪おうとした金も、地位も、商会も……何一つあなたの手には残らなかったわね。信じていた自慢の息子に捨てられ、薄暗い牢獄で一生を終える……それが、あなたが選んだ結末よ」
マルグリットの顔から血の気が失せた。嫉妬し、痛めつけ、奪い尽くしたはずの娘。その圧倒的な力によって、自分たちが生きてきた痕跡すら塗り潰され、消去されたのだ。
「ああ……あああ……っ!!」
絶望のあまり膝から崩れ落ち、頭を抱えて泣き叫ぶ女。
横でハンスが満足そうに手帳へペンを走らせている。
「うむ!完璧な絶望だ!挿絵の構図として最高ですよ!」
◇
重い鉄扉を出ると、雨は上がっていた。雲の隙間から、冷たく澄んだ光が差し込んでいる。
「ふう……すっきりしたわ」
空を見上げ、呼吸を整える。父の死と裏切り、毒薬、ドブネズミどもの執着。すべてを原稿用紙の上で叩き潰し、自分の足で立ち上がった。
「レナ先生!次回作の構想ですが、次はどんな地獄を描きましょうか!?」
目を輝かせるハンス。
「急かさないでハンス。まずは、買い戻した母さんの商会の立て直しよ。……それに」
馬車のステップに足をかける。
「次の取材旅行の準備もしなきゃね。世界は広いのよ……まだまだ、私の小説のネタになる愚か者が、山ほど転がっているんだから」
一度も振り返らずに、扉を閉めた。
湿った泥道を、馬車が力強く走り出していく。




