たぬき
何気ない景色や、季節の移ろいに心が動く瞬間があります。
この作品には、大きな出来事はありません。
ただ、一つの神社と、一匹のたぬき、そして静かに巡る四季があります。
読み終えたあと、少しだけ足を止めて、風や木々の音に耳を澄ませたくなるような物語になっていれば幸いです。
――雨宮 灯
第一景 坂の途中
秋が深まるころになると、その神社へ足が向いた。
理由を考えたことはない。
人と話すより、この石段を上るほうが、少しだけ息が整う日があった。だからなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
駅から十分ほど歩いた坂の途中に、小さな鳥居がある。朱の色はところどころ剥げ、柱の根元には乾いた土がこびりついている。人がよく通る道から少し外れているせいか、そこだけ町の音が薄かった。
坂の下では、信号の変わる音が鳴っている。
自転車のブレーキ。
買い物袋の擦れる音。
誰かの笑い声。
それらを背中に置いて、鳥居をくぐる。
石段はまっすぐ上へ続いていた。
両側には銀杏の木が並び、黄色い葉を惜しげもなく散らしている。朝のうちに誰かが掃いたのだろう。端へ寄せられた葉の山は、昼の風でもう崩れかけていた。
一段目に足を置く。
靴の下で、葉が乾いた音を立てた。
見上げると、社の屋根が枝のあいだから少しだけ見える。大きな神社ではない。石段を登りきった先に、小さな拝殿と手水鉢、それに古い石灯籠があるだけの場所だった。
それでも、ここへ来ると町が遠くなる。
急がなくてもいい場所が、この町にも残っていた。
二段、三段と上がる。
そのとき、石段の脇で銀杏の葉がふくらりと持ち上がった。
風ではなかった。
葉の下から、丸い背中がゆっくり現れる。
一匹のたぬきだった。
たぬきは私を見るでもなく、鼻先を落ち葉へ差し込んでいる。前足で器用に葉を返し、土の匂いを嗅ぎ、また別の葉を返す。
耳だけが、ときおりこちらへ向いた。
逃げる気配はない。
近づいてくる気配もない。
私は石段を一つ分空けて腰を下ろした。
それ以上は近づかなかった。
たぬきも、それ以上こちらへ来なかった。
石は昼の日差しをまだ少し残している。冷え始めた空気の中で、そのぬくもりだけが季節に取り残されているようだった。
風が吹く。
一枚の銀杏が肩へ落ちた。
払わずにいると、たぬきが一度だけ顔を上げた。
黒く濡れた鼻先に、細かな土がついている。
目が合った。
ほんの一瞬だった。
見つめ合ったというほど長くはない。
ただ、お互いがそこにいることだけを確かめたような時間だった。
たぬきはすぐに視線を外し、また落ち葉の下を探し始める。
枝の向こうを、薄い雲が流れていく。
社の鈴が、遠くで小さく鳴った。
誰かが参拝を終えたのだろう。
たぬきの耳が、ぴくりと動く。
それだけだった。
また、葉を返す音だけが続いた。
乾いた葉が裏返り、湿った土が息をする。
境内には、その小さな音だけが静かに積もっていく。
私は時計を見なかった。
見なくても困る用事はあったはずなのに、この石段では思い出さなかった。
風がもう一度吹く。
銀杏の葉が陽の光を受けながらゆっくり舞い、たぬきと私のあいだへ降りた。
どちらも動かない。
葉だけが静かに石へ触れる。
秋は、こんな音で深まっていくのかもしれないと思った。
第二景 落ち葉の下
葉を返す音は、小さかった。
乾いた音ではない。
湿り気を含んだ土が、葉の裏からゆっくり息をつくような音だった。
たぬきは急がない。
一枚返し、匂いを確かめる。
また一枚返す。
前足は小さいのに、不思議なくらい器用だった。
ときおり鼻先が土へ潜り、黒く濡れて戻ってくる。
私は、その動きを見ていた。
何を探しているのだろう、と考えはした。
けれど、答えを探そうとは思わなかった。
風が枝を揺らす。
銀杏の葉が一枚落ちる。
たぬきの背へ触れるかと思った葉は、少し手前へ降りた。
たぬきは気づかない。
落ち葉の下だけを見ている。
手水鉢から、水が落ちた。
澄んだ音がひとつ。
境内はまた静かになる。
その静けさへ、小さなどんぐりが転がった。
たぬきは前足で押さえ、鼻先を寄せる。
しばらく動かない。
やがて、どんぐりを葉の上へ戻した。
また葉を返す。
また止まる。
木漏れ日が少しずつ石段を上がってきた。
私の靴先まで届き、また離れていく。
雲が流れたのだろう。
境内の光は、誰に断ることもなく形を変える。
たぬきは突然、小さく体を起こした。
葉の下から栗がひとつ現れる。
前足で抱える。
少し大きい。
口にくわえようとして落とす。
もう一度くわえる。
また落とす。
丸い体が少しだけ揺れた。
私は思わず息を漏らした。
たぬきはこちらを見ない。
栗を前足で押さえ、向きを変える。
今度はうまくくわえた。
顎を少しだけ上げる。
そのまま石段を一段登る。
途中で栗が転がった。
ころり、と乾いた音がする。
たぬきは転がった栗まで歩き、また前足で抱える。
風が吹く。
一枚の銀杏が、丸い背へそっと落ちた。
たぬきは気づかない。
葉はしばらく揺れ、やがて石段へ滑り落ちる。
その音だけが、小さく残った。
たぬきは栗をくわえ直し、また一段登る。
私は、その背中を見送っていた。
境内には夕方の光が少しずつ差し込み始めていた。
社までは、あと少しだった。
第三景 社の前
石段の上には、午後の光が静かにたまっていた。
社の屋根から伸びた影が、境内を少しずつ覆い始めている。
たぬきは栗をくわえたまま、最後の一段を登った。
石畳へ前足を置く。
そのまま社へ向かうのかと思ったが、途中で足を止めた。
風が吹く。
拝殿の鈴が、小さく鳴る。
誰もいない。
鈴だけが揺れている。
たぬきの耳が、その音へ向いた。
しばらく動かない。
やがて、ゆっくり振り返った。
目が合う。
黒い瞳だった。
何も映していないようで、何も隠していない目だった。
私は動かなかった。
たぬきも動かなかった。
風だけが、そのあいだを通り過ぎる。
銀杏の葉が一枚、ゆっくり落ちてくる。
葉は私とたぬきの真ん中へ降りた。
たぬきは葉を踏まない。
小さく横へ回り込み、栗をくわえ直す。
そのまま社の脇を抜けた。
奥には細い獣道がある。
落ち葉が積もり、人の足跡は見えない。
たぬきは迷わず、その道へ入っていった。
丸い背中は木漏れ日の中をゆっくり揺れる。
やがて、木立の向こうへ消えた。
枝が一度だけ揺れる。
光も揺れる。
それだけで、境内はまた静かになった。
私は社の前へ立つ。
賽銭箱の木は、長い年月で角が丸くなっていた。
鈴の縄も少し色褪せている。
頭を一度だけ下げる。
風が頬を撫でた。
遠くで鳥が一声鳴く。
目を開ける。
境内には誰もいない。
石段の途中に、小さな栗がひとつ残っていた。
私は拾わなかった。
風が吹く。
銀杏の葉が一枚、栗のそばへ落ちる。
もう一枚。
また一枚。
黄色い葉は栗を隠さず、その隣へ静かに積もっていく。
私はしばらく眺めていた。
やがて石段を下りる。
境内へ戻ってくるのは風だけだった。
その風は林の奥へ吹き抜け、たぬきが歩いていった細い道を、静かに揺らしていた。
第四景 坂の下(改稿版・追加)
その日から、私は何度か神社の前を通った。
毎回、石段を登ったわけではない。
鳥居を見上げるだけの日もあった。
仕事帰りだった。
西日が坂を長く照らし、鳥居の影が歩道まで伸びている。
私は立ち止まる。
少しだけ見上げる。
それだけで歩き出す。
今日は登らなかった。
理由はない。
登らない日があってもいいような気がした。
鳥居の向こうでは、銀杏が一枚ずつ落ちている。
その音は、ここまでは届かない。
町の音のほうが少しだけ大きかった。
信号が変わる。
車が曲がる。
誰かが携帯電話で笑っている。
その向こうに、静かな神社がある。
同じ町にありながら、違う時間が流れているようだった。
また別の日。
雨が降っていた。
石段は濡れ、銀杏の葉は石へ貼りついている。
鳥居の下まで歩いた。
手を伸ばせば届く距離だった。
それでも、くぐらなかった。
雨粒が鳥居から落ちる。
ぽつり。
また、ぽつり。
その音を聞いているうちに、空が少し暗くなってきた。
私は傘を持ち直し、坂を下った。
数日後。
風が強かった。
黄色かった銀杏は少しずつ枝を離れ、石段には茶色い葉が混じり始めている。
秋は深まるというより、静かに終わろうとしていた。
私は鳥居をくぐった。
一段だけ登る。
そこで立ち止まる。
境内までは行かなかった。
風が林を渡る。
葉が舞う。
それだけを見ていた。
たぬきは現れない。
会えないことを寂しいとは思わなかった。
どこかで今日も葉を返し、栗を探しているのだろう。
そう思うだけで十分だった。
私は石段を下りる。
町へ戻る。
鳥居をくぐると、車の音が急に近くなる。
神社は背中で静かになっていく。
振り返らない。
振り返らなくても、そこにあることを知っていた。
やがて、銀杏の木は葉を落としきった。
枝だけになった境内は、秋より少し広く見えた。
朝の空気は日に日に冷たくなり、吐く息は白くなり始める。
ある朝、窓を開けると、町はいつもより静かだった。
夜のあいだに、雪が降っていた。
第五景 冬の朝
冬は、音からやって来た。
朝早く目が覚める。
窓を開けると、町はいつもより静かだった。
夜のあいだに雪が降ったらしい。
屋根も、電線も、公園の遊具も、みな同じ白さをまとっている。
私は手袋を片方だけはめ、家を出た。
吐く息が白い。
坂道には、まだ誰の足跡も少なかった。
鳥居の前で立ち止まる。
朱色だけが雪の中で浮かんで見えた。
くぐる。
石段は白く続いている。
一段目へ足を置く。
雪が小さく鳴いた。
秋の葉とは違う。
音は柔らかく、足元で静かにほどけていく。
二段、三段と登る。
石段の端に、小さな跡が続いていた。
丸い足跡。
四つ並び、少し離れ、また四つ。
社のほうへ向かっている。
私は、その跡を踏まないように歩いた。
境内へ着く。
手水鉢は薄く凍り、水は静かに眠っている。
鈴の縄には雪が積もり、風が吹くたび細かな粒が光った。
社の裏の林を見る。
何も動かない。
鳥の声もない。
林の入り口まで、小さな足跡だけが続いている。
その先は木々の影へ溶けていた。
私はしばらく立っていた。
風が吹く。
枝の雪が、さらりと落ちる。
その音だけが境内を渡っていく。
鈴は鳴らさない。
社の前で、一度だけ頭を下げる。
帰ろうとして石段へ向き直る。
白い道に、自分の足跡がまっすぐ続いていた。
その隣には、小さな足跡。
私は石段を下りる。
一段。
また一段。
途中で足を止める。
秋の日、たぬきが葉を返していた場所だった。
今は雪が静かに積もり、小さな足跡だけが残っている。
私は少しだけ立ち止まる。
また歩き出す。
鳥居が近づく。
町の音も少しずつ戻ってきた。
車が走る。
人が歩く。
誰かが笑う。
背中で鈴がひとつ鳴った。
風だったのだろう。
私はそのまま坂を下る。
白い雪が一片、鳥居をくぐって静かに舞い降りた。
地面へ触れると、もうどこへ落ちたのか分からなくなった。
第六景 春を待つ
冬が終わるころには、雪はもう残っていなかった。
石段の隅だけが少し湿っている。
朝の冷たさはまだ残るものの、風はどこか柔らかくなっていた。
鳥居をくぐる。
いつものように石段を登る。
木々は枝だけになっている。
その先に、小さな芽がいくつも膨らんでいた。
一段。
また一段。
落ち葉はほとんど姿を消し、石の色がよく見える。
石の継ぎ目では、小さな苔が静かに色を戻していた。
境内へ着く。
手水鉢の氷は溶け、水がゆっくり揺れている。
鈴の縄も冬より少し軽そうに見えた。
私は社の前へ立つ。
春の匂いを吸い込む。
林の奥で、葉の擦れる音がした。
丸い背中が、木立のあいだから少しだけ見える。
たぬきだった。
こちらへ来ない。
逃げることもない。
鼻先を少し上げる。
しばらく、そのまま動かなかった。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
たぬきは林の奥へ歩いていく。
枝が静かに揺れる。
光がこぼれる。
境内はまた静かになった。
私は石段を下り始める。
一段。
また一段。
鳥居をくぐる。
町の音が戻ってくる。
信号が鳴る。
自転車が坂を下る。
どこかで子どもが笑っていた。
風が吹く。
小さな花びらが一枚、肩をかすめていく。
私は振り返らない。
花びらは坂を越え、町のほうへ流れていった。
春の風が、背中を通り過ぎる。
第七景 巡る季節(完成稿)
秋が深まる。
駅から十分ほどの坂道を歩く。
信号が鳴る。
自転車が坂を下る。
町は今日も、いつもの朝を始めていた。
鳥居をくぐる。
そこから先だけ、音が少し遠くなる。
石段には銀杏の葉が積もっていた。
一段。
また一段。
靴の下で、葉が小さく鳴る。
見上げる。
枝のあいだから秋の空がのぞいていた。
高く澄んだ空を、一枚の雲がゆっくり流れていく。
境内へ着く。
社は静かだった。
手水鉢には水が満ち、石灯籠には午後の光が残っている。
私は石段の途中へ腰を下ろす。
石は陽だまりを少しだけ抱いていた。
風が吹く。
銀杏の葉が肩へ落ちる。
払わない。
葉はしばらく肩にとどまり、やがて石段へ紛れた。
林の奥で枝がひとつ揺れた。
丸い背中だったのかもしれない。
光だったのかもしれない。
私は、そのまま座っていた。
風が吹く。
社の鈴が、小さく鳴る。
私は立ち上がる。
社へ一度だけ頭を下げる。
石段を下りる。
一段。
また一段。
鳥居が近づくにつれて、町の音が戻ってくる。
信号が鳴る。
誰かが笑う。
電車が走る。
鳥居をくぐる。
肩をかすめるように風が吹いた。
背中で、葉を返す音がした気がした。
私は坂を下る。
理由は、もう思い出そうともしなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『たぬき』は、季節が巡るように、人の心も少しずつ変わっていくことを描いた物語です。
忙しい日々の中で忘れてしまいがちな、静かな時間の温かさを感じていただけたなら、これ以上うれしいことはありません。
またどこかで、お会いできる日を楽しみにしています。
――雨宮 灯




