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もう、結婚はやめにします。四度目だと、さすがに学習しました  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 想像以上でした


「提示された条件で結構」


便箋の真ん中に、その文だけが書かれていた。


便箋自体は、私が一週間前に父の書斎で見たのと同じ、軍部の紋章入りの紙だった。けれど一週間前のものより、書き方はずっと簡素だった。あの時の紙には形式ばった挨拶があった。家紋の下に、誰からの手紙で、いつのもので、後を継ぐ立場として何を考えていて、家と家のあいだをどう整えるつもりか、というようなことが、父の読みやすい順に並んでいた。


今度の紙には、それがない。


書いた本人の字なのだろう。紙の右下に署名はなかったが、一週間前の紙にもなかった。グレイフィン家は、署名で家紋を立てない家らしい。署名がいらない返事をする家は、約束を破らない家だ。約束を守ると思っているから、署名で確認する必要がない。


私の条件は二つあった。私は貴家の五人目の亡き奥様にはならない覚悟で参ります。閣下にも、私を五人目の肖像画にしない覚悟をいただけますか。その両方が「結構」だ、ということだ。


私は便箋を引き出しにしまった。母の形見の手鏡と、修道院願いの紙の隣に置いた。紙が三枚になった。


引き出しに紙が増えるたびに、私は自分の生活が少しずつ揃ってきている気がする。何が揃っているのかは、まだ分からない。揃いきってから、ようやく分かる。揃いきる前に名前をつけるのは、私の趣味ではない。


訪問は四日後と決まった。


朝の早い時間に、馬車を出してくれと父が侍従頭に伝えた。私は出発の前夜、トランクには触らなかった。今日は訪問だ。最終的な打ち合わせをして、その上で婚姻儀礼の段取りを決める。荷物は後日になる。父は同行しない、と早朝に書斎の窓から声をかけてきた。書斎の窓から声をかけてくる父は、もう何年も見ていなかった。私は窓を確かめなかった。窓を確かめると、父が立っているか座っているかが分かってしまう。立っているか座っているかで、父の今日の気分が分かってしまう。今日の私は、父の気分を預かりたくなかった。


「ヴィオラ様」


侍従頭が玄関で私を待っていた。馬車に乗り込んで、向かいの席に彼が座った。


彼は六十を超えていて、私が生まれる前からローレンソン家にいる。十年前、私の最初の婚約破棄の時にも、彼は同じように私の向かいに座って、王宮からの帰り道、何も言わずに、ただ私の隣に水差しを置いた。彼の物言わぬ習慣を、私は信頼していた。


馬車が動き出す。窓の外の景色は、もう冬の入り口の色をしていた。


道の両側の木は葉をほとんど落としている。残っている葉も霜に焼けて色が褪せていた。一月前なら赤かったはずの葉が、今は茶色だ。赤の段階で落ちた葉と、茶色になるまで残った葉と、どちらが幸せだったのかは、葉自身に聞かないと分からない。


私は窓から目を逸らした。逸らした先に、侍従頭の手元があった。


彼の手は膝の上で組まれている。指の節が年齢相応に膨らんでいる。左の薬指に、薄く、輪のような跡があった。指輪を長く嵌めていた跡。今は嵌めていない。


私はその跡を、見ない振りをした。


馬車が緩んで、止まった。


「お嬢様。グレイフィン家でございます」


扉が開いて、冷たい風が首筋に当たった。


私は降りた。正面の屋敷は、想像していたよりもう少し低く、もう少し古かった。新しい屋敷ではない。けれど壊れているわけでもない。手入れはしてある。していないわけがない。ただ、その手入れに生活の気配がない。庭の木は揃って剪定してあるが、剪定の仕方が、植物のためというより、敷地の輪郭を保つためのものだった。


玄関の石段の上に、一人、男が立っていた。その後ろに、使用人たちが横一列に並んでいた。


私は数えなかった。並んでいる人数を数える趣味は、私にはない。十人より少なく五人より多い、というのが目に入った印象だった。全員、揃いの制服を着ていた。色は暗い。黒というよりも、黒に近い、けれど完全に黒ではない、灰色を底に沈めたような色だった。


その色を、私は知っていた。社交界で、伴侶を亡くした家の使用人たちが、半喪の意味で身に着ける色だ。喪は本来、長くて一年で解く。


三年経っていた、と私は来る前に父から聞いていた。


………想像以上でした。


声には出さなかった。ただ、唇の内側で、一度だけ転がした。


「お待ち申し上げておりました」


石段の上の男が、低く礼をした。


「ヴィオラ・ローレンソン様。本家の家令、ハロルドと申します」


老執事ハロルド。年齢はローレンソン家の侍従頭と近い。けれど立ち姿はもう少し骨ばっている。背筋がまっすぐすぎる。あれは、戦地から戻る人を何度も玄関で迎えた背筋だ、と私は思った。迎えた人の数より、迎えられなかった人の数の方が多かったのだろう。


「ヴィオラ・ローレンソンです。本日は、ありがとうございます」


ハロルドがもう一度礼をした。


「どうぞ、お入りくださいませ」


玄関を入って、廊下を歩いた。廊下は外より少し暖かく、けれど暗かった。


天窓があるのに、その下にだけ薄い布がかけられている。光を全部入れない、けれど全部遮りもしない。それは、半喪の制服の色と似た判断の仕方だった。光に対しても、この家は半喪のまま三年来ているらしい。


廊下の両側に、肖像画が並んでいた。


私は足を止めた。四枚あった。


一枚目は若い女性。二十歳前後だろう。穏やかな顔立ちで、肩から上だけが描かれている。額の縁が四枚の中で一番古かった。二枚目はもう少し落ち着いた表情の女性で、二十代の終わりに見える。額は一枚目より少し新しい。三枚目は落ち着いた色合いのドレスを着た女性で、三十を過ぎている顔立ちだ。四枚目は四枚の中で一番額が新しい。横顔の絵だった。痩せていた。療養先で描かれた絵だろう、と私は察した。


額の新しさを順番に見て、気づいた。若い順に並んでいるのではない。亡くなった順番だ。手前が一番古い亡くなり、奥が一番新しい亡くなり。


私は口に出さずに、四人を順番に見た。頭の中で、ひとり一人に挨拶をした。


はじめまして。


それしか、まだ言えなかった。あなた方のお名前を、私はまだ知らない。けれど、お名前を知らなくても、ここに並んでいる順番のことは知っておいた方がいい。私の場所は、この奥の、その先になる。なる、と決まったわけではないけれど、なる、ということを、私は今日、ここの方と話しに来ている。


「ヴィオラ様」


ハロルドが廊下の奥から私を振り返った。


「失礼しました」


「いえ」


ハロルドは立ち止まって、私が追いつくのを待った。待つ間、彼の視線は、私のではなく、四枚の絵の方を向いていた。


その視線の動き方を、私は見ない振りをした。


応接間の扉の前で、ハロルドが立ち止まった。


「旦那様は、すぐにいらっしゃいます。お茶を、用意させております」


「ありがとうございます」


扉が開く。応接間は廊下より少し明るく、けれど明るいというほどではなかった。


カーテンが半分閉じられていた。全部閉めれば暗すぎる。全部開ければ明るすぎる。だから半分。それも半喪と同じ判断だ。この家は、判断の仕方を家全体で揃えている。


暖炉に火は入っていなかった。今日は私のための火を入れていない、ということだ。あるいは、この応接間が長く使われていない部屋だったということ。火を入れる習慣のなかった部屋に、今日のために少しだけ使う支度を、家令はした。けれど暖炉までは思い至らなかった。あるいは思い至ったが、入れる薪の用意がなかった。


ティーセットがテーブルの上に置かれていた。カップは二客。二客の位置は揃っていなかった。一客はソファ側に、もう一客は向かいの椅子の方に。けれどソファ側のカップの方が、わずかに奥に置かれている。客の方を、少しだけ招き入れている置き方だった。それを誰がいつ誰のためにそうしたのか、私には分からない。分からないけれど、ありがたいとは思った。


ソファの肘掛けの布が、片側だけ、わずかに色が違っていた。一度、何かをこぼして、その部分だけ拭いたか、張り替えたのだろう。来客のない部屋の、来客のなかった時間の跡だった。


「どうぞ、お掛けくださいませ」


ハロルドが言った。


私はソファに歩み寄った。歩み寄ったが、すぐには座らなかった。座る前に、向かいの椅子の方をもう一度見た。


そちらに、人が座る。私の知らない、まだ会ったことのない人が、その椅子に座って、私を迎える。


「失礼いたします」


ハロルドが扉のところで礼をして、扉が彼の後ろで静かに閉まった。


私はようやくソファに腰を下ろした。カップから湯気は、もう、ほとんど立っていなかった。


待った。長くも短くもなかった、と思う。


ただ、その間に、私は自分が右手で左手の指を何度か握っているのに気づいた。緊張、というには心臓は静かだった。けれど指は、私の心臓と別の場所で勝手に動いていた。


廊下の遠くから、足音が近づいてきた。低く、まっすぐな足音だった。ローレンソン家の侍従頭の足音にも、父の足音にも、似ていなかった。


止まる、と思った瞬間、その通り、扉の前で止まった。


止まってから、一拍、間があった。その間、私は向かいの椅子を見ていた。


それから、扉が開いた。

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