精霊の湖
ジングルスは普通の鼠だ。知能は妙に高いがそれ以外はとことん普通だ。身体能力も、寿命も。
一般的な野鼠の寿命は二、三年だと聞く。従ってジングルスの寿命も二、三年。出会った時点で既にジングルスは成体になっていたから残る時間は一年か、二年か。実質無限の寿命を持つ精霊にとって一年は瞬きする間に過ぎてしまうほど短い。
俺は日の当たる森の広場でジングルスの背中に寝そべり、良く晴れた青い空を見上げながら問い掛けた。前世も今世も空の青さは変わらない。
「なあ、ジングルス」
「ちゅう」
「長生きしてみるか」
「……ちゅ?」
背中の下で毛皮が微妙に動き、ジングルスが首を傾げているのが分かる。俺は空を見上げたまま続けた。
「今は皆の冒険譚聞いてるだけで楽しいけどさ、何十何百年も日がな一日語り合えば話のタネも尽きるだろ? そしたら俺も精霊の里を離れてさすらってみようかと考えてんだよ」
「…………」
「ジングルスと居ると楽しいからさ、俺としては一緒に旅に行きたい訳だけど精霊と違って鼠はすぐ死ぬだろ。だからジングルスさえ良ければ魔法で寿命延ばすか無くすかしたい」
「…………」
「どう?」
ごろんと転がってうつぶせになり、逆さまにジングルスの顔を覗き込む。ジングルスは鼻をぴすぴす動かして考え込んだいるようだった。若干額にしわが寄ってる気がする。
魔力を少量合成、意思疎通魔法を使ってみるとジングルスの思考が薄く伝わる。
困惑と、喜びと、躊躇。流石に即決はできないか……つーか鼠の脳で今の提案を理解したジングルスは人間並の精神構造を持っているんじゃあなかろうか。
俺は悩むジングルスの肩を優しく叩いて言う。
「すぐには決めなくていい。一生モンの問題だからゆっくり決めようぜ」
ジングルスは返事の代わりにふっと肩の力を抜いてのんびり寝そべった。
広場でジングルスに宿題を出した翌日、俺はジングルスに乗って空を駆けていた。風を切り、森の梢をかすめる様に宙を踏んでチョロチョロ走る。
靴に飛行魔法がアリなら鼠に飛行魔法もアリかなと思った。ムシャクシャしてやった。反省はしていない。
「HEYジングルス、体力は持ちそうか? 休憩しとく?」
「ちゅう」
元気の良い鳴き声が頼もしい。俺は振り落とされない様にジングルスの毛皮を掴み直した。
今俺達は精霊の森の北にある湖に向かっている。シルフィの話によると人間の身長を大きく超えるまで成長した精霊達が住家にしているらしい。
精霊は体の大きさに合わせてハウスキノコ→木の洞→岩窟などと家を変えるが、でかくなり過ぎると手頃な家が無くなる。中には自分用の城を建てる物好きな精霊もいるらしいが、ほとんどの精霊は噴火口や湖や海の底に沈んでみたり鍾乳洞を適当に拡張してみたりしてそこに住む。
今日訪ねるのはそういう精霊が寝床にしている湖だ。
幸い精霊の里からあまり離れておらず、烏に追いかけられたり強風にあおられて針路をずらされたりしながらも一時間弱で到着した。螺旋状に弧を描きながら高度を下げ、キラキラと日の光を反射して輝いている砂浜に着地する。
俺はお疲れさん、とジングルスを労い、背中から降りて湖を見渡した。
「うーむ、でかいのか小さいのかイマイチ分からん規模だなー」
池と言うにはあまりに広過ぎ、かと言って向こう岸へ行くのに苦労しそうな広さでも無い。成人の男なら三十分もあれば充分一周できる広さだった。
さざなみを立て湖面を渡る風のせいか、微かな波が打ち寄せている水際から水面を覗き込む。透明度は結構高い。水底にはガラスの様に鈍く輝く砂利から青々とした水草が生え、ゆらりゆらりと揺れていた。水草の陰に隠れていた小魚と目があったが特に逃げる気配も無く、のんきにエラを動かしている。
「ジングルス、入ってみる?」
「ちゅう」
振り返るとジングルスは水際から少し離れた浜でぷるぷる首を横に振っていた。
まあネズミだからなぁ。水は苦手か。
特に何をしに来たという訳でも無いのでとりあえずは水の中に入ってみた。ひんやりと冷たい。膝まで水に浸かって所でふと服はどうすりゃいいんだ、と思った。
脱いだ方がいいのか? でも体の一部だしなぁ。
しばらく悩んだが気にしない事にして水中に飛び込んだ。
水の重さは全く感じず、まるで空を飛んでいるようだ。ゴーグルは無いが水中の様子ははっきりと見える。
試しに魔法で水流を作り出し背後から当てると猛烈な勢いで一直線に進んだ。すげぇ、カツオかマグロにでもなった気分だ。
しばらく人間魚雷ならぬ精霊魚雷になって小魚とチェイスしたり以外と水中では俊敏な亀を追いかけ回したりしていたが、メダカに似た黒い魚の群に紛れ込んでスイミーごっこをしている途中で水底に寝そべってぐーすか寝ている精霊を見つけた。
深い蒼色の長髪を海草の様に揺らめかせた女の精霊だ。羽衣の様な水色の服を身に纏い、岩を枕にして熟睡している。俺は群からそっと離脱し精霊の方へ泳いで行った。
でかい、というのが間近でその精霊を見上げて思った最初の感想だ。親指の第一関節だけで俺の身長と同じぐらいある。巨人の国に迷い込んだガリバーの様な気分だった。精霊ってこんなにでかくなるのか。
「もしもーし」
鼻先まで泳いで近付いても反応が無かったので声をかけながら額をぺしぺし叩いてみた。それでも反応が無いので長い睫毛を引っ張ってみる。
よっこいしょ、どっこらしょ、それでも睫毛は抜けません。
なかなか抜けないので段々ムキになって最後は全力になった。しかし抜けない。抜ける気配も無い。
精霊を起こすという当初の目的を忘れかけた頃、ようやく瞼が震えて開いた。
髪と同じ色彩の蒼い瞳に俺の姿が映っている。精霊はぼんやり瞬きをしていたが、すぐに俺に焦点を合わせた。
「んむにゃ? ……あらら、おはよー誰かさん」
緩慢な動作で起き上がり、膝を曲げてぺたんと座る。少女か若い女性がやれば様になっただろうが見上げるほど大きな女精霊にやられると威圧感しかなかった。
「誰かさん、名前は?」
「……トーゴ」
「聞き覚えないわねー。最近生まれた子かな。あ、私は……えーと……デ、ディ……ディーネ? だから?」
「疑問系で言われても」
「名前忘れちゃったのよー。でも多分ディーネで合ってるわ」
たははと屈託無く笑うディーネはやはり精霊特有の神秘的な顔立ちだった。
神秘的と言っても静かな炎を連想させるものだったり大山を思い起こさせるものだったり色々だが、ディーネは静かな海を思わせる雰囲気を纏っていた。精霊は大体髪の色と顔立ちが一致している。
やっぱりでかいなーと見上げているとディーネは首を傾げた。
「私の顔に何かついてる?」
「いんや、ついてないけど。どれだけ生きたらそれだけ成長するのかと思って」
ディーネはますます首を傾けた。はぁ? とかほへ? とか言いながらどんどん傾けていく。とうとう90度を超えて首折れるんじゃないかと心配になり始めた時、急にバネ仕掛けの様に首を戻してポンと手を打った。
「あー、そっか。随分長い事眠ってたから。ちょっと待っててね」
ディーネは無駄にでかい胸に手を当て、大きく息を――水を吸い込んだ。
なんだなんだ。何が始まるんだ?
好奇心をかき立てられて注視する俺の目線を気にせずディーネは深呼吸を繰り返す。
何度目の深呼吸か、唐突にさらりと胸の辺りから粒が舞った。
最初の一粒を皮切りにさらり、さらりと小さな粒は次から次へ零れ落ち、その砂粒は水底に舞い降りてゆっくりと小さな山を築いて行った。
水底まで届いた弱い光を反射しキラキラと輝く。ガラスの様なそれを見て俺は不意に閃いた。
この湖の底に溜まっているのは、浜を作っているのは、ただの砂利じゃない。小さな精霊石だ。
精霊は一定以上成長すると宝石を吐き出す事ができる。ディーネほど大きければ当然吐き出せるだろう。
ディーネの体は吐き出した精霊石の粒に反比例して縮んでいっていた。一ヵ月超弩級魔法を使い続けてようやく精霊の背は微かに縮むと言う。そんな機会は滅多に無い(らしい)から、精霊はストッパー無しで容赦無く成長する訳で。なるほど、でかくなり過ぎて困ったらこの湖に来て精霊石を吐き出すのか。納得だ。
ディーネはひたすら吐いて吐いて吐き出し続け、やがて人間の成人女性くらいまで縮むとようやく止めた。ふぅ、と一息ついたディーネの前には精霊石が小山を作っている。俺の身長なら登山できそうだ。
……いや待てよ?
「精霊石って数百年放置すると精霊になるんじゃなかったか」
まさかこの湖は時期が来るとサンゴの産卵の様にミニ精霊がポコポコと……
「うん? それは大丈夫よ。精霊石はこれぐらいの大きさが無いと精霊にならないから平気」
ディーネはそう言って右拳を軽く握ってみせた。
なんだ、なら安心だ。精霊は寿命が無いし絶対に殺されないからこんなに大量発生したら世界が精霊だらけになる。
ディーネは精霊石の小山に魔法で作った水流を当てて平らにならしながら俺に精霊石についてあれこれ教えてくれた。里の倉庫に放り込んである精霊石はだいたいがうっかり大きな塊を吐いてしまった時のものらしい。そうか、うっかりなのか……なんだかなぁ。
しばらくディーネと互いの身の上話を中心に話し込んでいたが、頭上から差し込む日の光が茜色になり長居をし過ぎた事に気が付いた。
精霊の里に門限は無い、と言うか住むのも出るのも勝手な所なので、別にふらりと数日でも数百年でも出掛けて問題は無い。しかし今日はシルフィに精霊の湖の近況を教えに帰る約束をしていた。早めに帰らなければ。
ディーネにまた来る約束をして別れを告げる。一直線に上へ向かい、水面に顔を出して岸の近くまで泳いでいくと、ジングルスが砂浜の一帯を穴だらけにしていた。砂浜から掘り出したらしい二枚貝を小さな両手に抱え夢中で歯を立てている。側にはこじあけられた貝殻が何枚か散らばっていた。俺が話し込んでいる間ジングルスはジングルスで楽しんでいたようだ。
「ジングルス、帰ろう」
水から上がって声をかける。ジングルスはためらう様に手に持った貝と俺の顔を見比べていたが、諦め切れなかったらしく貝を抱えたままその場に伏せた。乗れ、という合図だ。
遅くならない内に帰りたいが一刻を争う程でもない。俺が苦笑してそれを食べ終わってからでいいよ、と言うとジングルスは大急ぎで貝に歯を立てた。余程気に入ったらしい。
今日はジングルスにとっても俺にとっても有意義な時間だった。また来よう。
精霊達に上下関係は一切ありません。全員呼び捨てで呼び合います。