マブイ犬外伝第2話:ピットに響くワンワン
ピットに響くワンワン~守屋あおい & ポメラニアンのヘラ~
山口支部のピットは、いつものように血と油と焦げたマブイの臭いが充満していた。
レース開始まであと15分。守屋あおいはマブイの調整台に座り込み、額から滴る汗を拭うことも忘れて、剥がれかけた自分の顔の端を指で押さえていた。
「もう限界か……」
マブイの残量は赤信号。今日の模擬レースで3周目に入ったあたりで、頬の皮膚がぱりぱりと剥離し始めていた。普通の人間ならここで棄権だが、からくり乗りは違う。棄権は敗北。敗北は死に等しい。「あおいちゃん、まだやるっすか?」
ピットの隅で、ギャル系の後輩で誠の弟子、野田あかりが心配そうに声をかける。ジャックラッセルテリアのまんじゅうが彼女の足元でクンクン匂いを嗅いでいる。
「やるよ。やるしかない」
あおいは無理に笑おうとして、剥がれた端がさらに裂けた。痛みより、虚無が先にくる。マブイが枯渇すれば、魂ごと機体に吸い込まれる。それがこの世界の掟だ。その時だった。ピットの扉が勢いよく開き、ふわふわのオレンジ色の毛玉が転がるように飛び込んできた。「ワン! ワンワン!!」ヘラだ。
あおいの相棒、ポメラニアンのヘラ。普段は支部の寮で大人しく待っているはずのヘラが、今日はなぜか全力疾走でピットに突入してきた。
小さな体で整備士たちの脚をくぐり抜け、真っ直ぐあおいの元へ。
そして、ジャンプ。「うわっ! ヘラ!?」ヘラはあおいの膝に飛び乗り、前足を胸にかけ、勢いよく顔にぺろぺろと舐め始めた。
剥がれかけた頬の端を、温かい小さな舌が丁寧に、でも力強く舐め回す。
「やめ……って、ヘラ、汚いよ……」
あおいは反射的に手を伸ばすが、ヘラは離れない。むしろもっと強く体を押しつけてくる。
ふわふわの毛があおいの顔に埋もれ、甘いミルクのような匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、何かが変わった。剥がれかけていた皮膚の下から、微かな温かさが湧き上がってきた。
マブイの残量メーターが、わずかに、ほんのわずかに針を動かした。
赤から、薄い橙へ。
「え……?」
あおいは自分の頬に触れる。裂けていた部分が、ゆっくりと塞がり始めている。
「ヘラ……お前、まさか……」整備士たちが息を飲む。
野田あかりがまんじゅうを抱き上げて、ぽかんと口を開けたまま見つめている。
「癒しマブイ……注入説、本当にあったんすか……?」ヘラは満足げに尻尾を振りながら、あおいの顔から飛び降りる。
そして、ピットの床にちょこんと座って、得意げに「ワン!」と一声。
まるで「これでいけるでしょ?」と言っているかのように。あおいは立ち上がった。
顔の皮膚はほぼ元通り。マブイの残量は、ギリギリだがレースを完走できるラインに戻っていた。
「ありがとう、ヘラ」
あおいはヘラを抱き上げ、ふわふわの頭に頰を寄せる。
ヘラは嬉しそうに舌を出して、ぺろりとあおいの鼻を舐めた。スタートのサイレンが鳴る。
あおいはマブイに乗り込み、ヘルメットを被る。
ピットから見送る整備士たちの声が響く。
「いけー! あおいちゃん!」
「ヘラパワー全開だぞー!」マブイが水面を切り裂き、スタートラインへ。
あおいの視界の隅で、ヘラがピットの柵に前足をかけて、必死に「ワンワン!」と吠えているのが見えた。
その声が、エンジンの轟音を掻き消すほど大きく、心に響いた。結果は、逆転勝利。
3周目でトップに躍り出たあおいは、最終コーナーでマブイのブーストを全開にし、2着を振り切った。
フィニッシュラインを越えた瞬間、マブイの残量はほぼゼロだったが、あおいの顔は無傷。
いや、それ以上に輝いていた。ピットに戻ると、ヘラが全力で飛びついてきた。
あおいはヘラを抱きしめ、涙をこらえながら呟いた。
「やっぱ、ペットを活かさないとだめよね……」その日から、山口支部では「ヘラの癒しマブイ」が伝説になった。
過酷なレースの合間に、ふわふわの毛玉がピットに現れるたび、みんなが少しだけ息を抜ける。
そして、誰もが思う。
この世界で生き残るには、魂を燃やすだけじゃ足りない。
誰かを、誰かに守ってもらう瞬間も、必要だ。(終)




