エピローグ 夏の午後
蝉の声が、近くで鳴いていた。
まぶたの裏に、木漏れ日のような光が差し込んでいる。
頬に触れるのは、やわらかな毛並みと、かすかにあたたかいぬくもり。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そこは——いつもの部屋だった。
窓から陽射しが差し込み、床には細長い光の帯が伸びている。
エアコンの音が静かに響く中、カーテンがわずかに揺れていた。
隣には、ミケがいた。
丸くなって、私の肩にちょこんと頭を乗せて、すやすやと眠っている。
私はそっと身を起こし、ミケの頭に頬を寄せた。ふわふわの毛がくすぐったい。
でも、あのときと同じ匂いがした。
「……ミケ」
小さくつぶやくと、ミケが一度だけ「にゃ」と鳴いて、
またすうっと眠りの中に戻っていく。
私は頬をすり寄せたまま、スマートフォンを手に取った。
画面には、高橋さんからのメッセージが届いていた。
「恵美さん、今日もお疲れ様でした。
返事、急がないので、ゆっくり考えてくださいね」
私は、深く息を吐いた。
そして、震える指で、メッセージを打ち始めた。
「高橋さん、お待たせしてすみませんでした」
「私も、高橋さんのことが好きです」
「まだ、自信がなくて、怖くて、迷惑をかけてしまうかもしれません」
「でも——一緒にいたいです。それだけは、確かです」
送信ボタンを押す瞬間、手が震えた。
でも——。
ミケの声が、心の中で響いた。
『ご主人は、愛される資格があります』
私は、ボタンを押した。
すぐに、返信が来た。
「本当ですか!? 嬉しいです!
明日、ゆっくり話しましょう」
画面を見つめながら、私は涙が溢れた。
怖い。まだ怖い。
でも——
前に進んでみたい。
幸せになってみたい。
ミケが、小さく喉を鳴らした。
ゴロゴロという振動が、私の腕に伝わってくる。
「ありがとう、ミケ」
私は、もう一度彼に頬を寄せた。
蝉の声が、遠くで揺れている。
やさしい夏の午後。
もう少しだけ、この温もりの中で休もう。
そして、明日から——本当の一歩を踏み出そう。
(完)




