第五章 現実との境界
遺跡から戻った私たちは、村のカフェでしばらく休んだ。
ミケがハーブティーを入れてくれて、私はそれを両手で包むように持った。
カップから立ち上る湯気が、顔に優しく触れる。
「ねえ、ミケ」
「はい」
「この世界って、やっぱり夢なんだよね?」
私の問いに、ミケは少し考えるように視線を落とした。
「夢かもしれません。
でも、ご主人が本物だと思ってくれるなら、それは本物です。」
「……いつか、終わっちゃうの?」
声が震えた。
終わってほしくない。
ここにいたい。
ミケと一緒にいたいよ。
でも、ミケは優しく微笑んで言った。
「ご主人。ここは、逃げ込む場所じゃありません。休む場所です。」
その言葉に、私はハッとした。
「ここにずっといたら、ご主人は本当の幸せを見つけられなくなってしまいます」
「でも……」
「現実は怖いですよね。
誰かに傷つけられるかもしれない。
失敗するかもしれない。でも——」
ミケは私の目をまっすぐ見つめた。
「現実でしか、本当のあたたかさは手に入りません。
現実でしか、誰かと本当につながることはできません」
私は、カップを握る手に力を込めた。
「……会社の人のこと?」
ミケは静かにうなずいた。
会社の同僚——高橋さん。
編集部の人で、いつも優しくて、よく声をかけてくれる人。
三ヶ月前、彼は私に告白してくれた。
「恵美さんのこと、好きです。よかったら、付き合ってください」
彼の言葉は真剣で、温かくて、私を必要としてくれていることが伝わってきた。
でも、私は答えられなかった。
「少し、考えさせてください」
そう言って、三ヶ月が過ぎた。
高橋さんは待ってくれている。
でも、私は答えを出せないでいた。
なぜなら——私なんかが、誰かと一緒にいていいのかわからなかったから。
「ねえ、ミケ」
私は、震える声で言った。
「私、高橋さんのこと、本当は好きなの。
一緒にいると安心できるし、笑顔を見ると嬉しくなるし、話していると時間を忘れちゃう。」
「でも……怖いの。
私みたいな人間が隣にいたら、迷惑じゃないかって。
いつか『やっぱり無理』って言われるんじゃないかって」
涙が溢れた。
言葉にしたら、自分がどれだけ臆病で、どれだけ逃げていたのかがわかってしまった。
ミケは、そっと私の隣に座った。
「ご主人。怖いのは、当然です。誰だって、傷つくのは怖い。でも——」
ミケは、私の涙を優しく拭ってくれた。
「その高橋さんという人は、ご主人のことを必要としてくれているんですよね?」
「……うん」
「なら、それを信じてあげてください。その人の気持ちを、否定しないであげてください」
その言葉に、私ははっとした。
そうだ。
私は、高橋さんの気持ちを否定していた。
「私なんか」と言うことで、彼の「好き」という気持ちを否定していた。
「もし、その人がご主人と一緒にいたいと思っているなら
——それは、ご主人に価値があるからです。存在していい理由があるからです。」
ミケは、私の手を優しく握った。
「ご主人は、愛される資格があります。幸せになる資格があります。」
私は、声を上げて泣いた。
子どもの頃、泣くときはいつも静かに泣いていた。
母に殴られて泣くとき、声を出すとさらに殴られたから、静かに泣くことが癖になっていた。
でも、ここでは、声を上げて泣いてもいい。
ミケは私を抱きしめて、背中を優しく撫でてくれた。
「でも、ミケは……さみしくないの?」
私は、涙声で聞いた。
ミケは、少しだけ空を見つめて、それから静かに言った。
「さみしいです。
でも、それ以上に、ご主人が幸せになってくれることが嬉しいです。」
「それに——忘れないでください。
僕は、あなたの味方です。
僕はあなたの友達で家族です。
たとえ誰かと一緒になっても、僕はあなたのそばにいます。」
「蝉が鳴いている昼間に、僕と一緒に昼寝をするだけでいい。
ご主人の心が『夢の中で僕と話をしたい』と思えば、今の僕に会えます。
いつだって。」
私は、ミケにしがみついて泣いた。
どれだけ時間が経ったのかわからない。でも、泣き終わったとき、胸の中が少しだけ軽くなっていた。




