第三章 安らぎの代償
リュエル村は、絵本の中に迷い込んだような場所だった。
石畳の道に、木造の家がぽつぽつと並んでいる。
庭には色とりどりの花が咲き、鳥が枝でさえずっている。
子どもたちが笑いながら駆けていく。
誰もが穏やかで、誰も急いでいない。
でも——なぜか、胸が苦しかった。
こんな場所、私にはふさわしくない。
こんなに平和で、美しくて、優しい場所。
私みたいな人間がいていい場所じゃない。
「ミケさん、おかえりなさい!」
花屋の前を通りかかると、エプロン姿の青年が笑顔で声をかけてきた。
ミケは軽く会釈をして、
「ただいま戻りました。今日はご主人をお連れしたんです」
と答えた。
花屋の青年は私を見て、優しく微笑んだ。
「ようこそ、リュエル村へ。ゆっくりしていってくださいね」
私は慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。すみません、迷惑じゃないですか?」
すみません、と謝る癖が抜けない。
自分の存在そのものを謝ってしまう。
花屋の青年は首を傾げた。
「迷惑? そんなわけないじゃないですか。あなたがここにいること自体が、喜ばしいことなんですよ」
その言葉に、私の目が熱くなった。
存在を肯定されるということが、こんなに心に響くなんて。
ミケは私の肩にそっと手を置いて、
「大丈夫ですよ」と囁いた。
その声には、何も求めない優しさがあった。
村の一角にある小さなカフェに案内された。
外にはブランコと木陰のテーブル。
テーブルには、すでに二人分のハーブティーが用意されていた。
「ここで、少し休んでいきましょう」
私は椅子に腰を下ろした。
風が頬を撫でる。
ミケが隣に座る気配。
カップを持つ手が震えている。
——なんで私、ここにいるんだろう。
ふと、母の声がよみがえった。
「そんなところでのんびりして、あんた、何様のつもり?」
カップを持つ手が、さらに震えた。
「あんたみたいな子、誰も必要としてないわよ」
私は顔を伏せた。
喉が詰まって、呼吸が浅くなる。
ここは夢の中のはずなのに、なぜ母の声が聞こえるんだろう。
なぜ、逃げられないんだろう。
「ご主人」
ミケの声がした。
優しくて、落ち着いていて、でもどこか切なげな声音だった。
「今、辛い声を思い出したんですね」
私はかすかにうなずいた。
言葉にできなかった。
椅子が軋む音がして、ミケが私の肩にそっと手を置いた。
「ここに来る人は、皆そうなんです。傷ついて、眠れなくて、それでもなんとか今日を過ごしてきた人ばかりです」
彼の声は、風に混じって耳に溶けていった。
「無理に笑わなくていい。無理に忘れなくてもいい。
ここでは、ただ、座っていてくれるだけでいいんです」
そう言って、ミケは私の手に自分の手を重ねた。
あたたかかった。体温がじんわりと伝わってくる。
「……ねえ、ミケ」
「はい」
「私、誰かに『そのままでいい』って言われたの、初めてかもしれない」
ミケは少しだけ驚いた顔をして、それから静かに微笑んだ。
「なら、これからは毎日言います。
ご主人、そのままでいいです。今日も、よくがんばりました」
ぽつりと、涙が落ちた。
止めようと思っても止まらなかった。
でも、不思議と悲しくはなかった。
泣いてもいい場所がある。
受け入れてくれる人がいる。
それだけで、こんなに心が軽くなるなんて。
私は涙を流しながら、小さく笑った。
「……ありがとう、ミケ」




