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【改稿版】午後のまどろみは君の隣で  作者: 風谷 華


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第一章 夏の残像

 蝉の声が、頭の中まで染み込んでくるようだった。


 窓の外では、まだ八月の太陽が容赦なく照りつけている。

 室内に引いたカーテンの隙間から、鋭い光の線が床を切り裂いている。

 その光の帯の中で、茶トラの猫が丸まっていた。


 名前はミケ。


 女の子みたいな名前だけど、れっきとしたオス猫だ。

 2年前、保護猫カフェで初めて会ったとき、

 彼は私の膝の上で丸くなって、喉をゴロゴロ鳴らしながら眠った。

「この子、あなたを選んだみたいですね」とスタッフの人が笑った。


 私は何も言えなかった。

 選ばれるなんて経験、人生で初めてだったから。


 私は恵美、二十八歳。出版社で校正の仕事をしている。


 人と話すのが苦手で、ランチはいつも一人でコンビニのおにぎりを食べる。

 同僚たちが楽しそうに笑っている輪の中に入る勇気がない。


 入ろうとすると、心臓が早鐘を打って、手のひらに汗がにじんで、

「私なんかが入ったら迷惑だ」という声が頭の中でリフレインする。



 ——その声は、母の声だ。


 もう十年以上会っていないのに、母の声は今でも私の中で生きている。

「あんたは本当に役立たずね」

「なんでそんなこともできないの」

「誰もあんたなんか必要としてないわよ」。


 夕食の準備が遅れたとき、

 テストで九十五点だったとき、

 友達を家に呼びたいと言ったとき。


 理由なんて何でもよかった。


 母はいつも怒っていた。


 小学校五年生の夏、私は母の機嫌を損ねた。

 何が原因だったのか、もう覚えていない。

 たぶん、たいした理由じゃなかったと思う。


 「ご飯なんて食べなくていいから、自分の部屋で反省しなさい。」


 そう言われて、私は部屋に閉じこもった。

 お腹が空いた。喉が渇いた。

 でも、部屋を出る勇気がなかった。もし出たら、もっとひどく怒られる。

 そう思うと、体が動かなくなった。


 三日間、私は部屋から出なかった。


 四日目の朝、学校の先生が家庭訪問に来て、ようやく事態が明るみに出た。

 母は泣きながら「この子が勝手に部屋に閉じこもって」と説明した。

 先生は困った顔をして、「お母さん、これは……」と言いかけて、黙った。


 その後、児童相談所の人が何度か来た。

 でも、何も変わらなかった。

 母は外面がよかったし、私も「大丈夫です。」としか言えなかった。

 本当のことを言ったら、もっとひどいことになる。そう思っていた。


 それ以来、

 私は「迷惑をかけてはいけない。」

 「必要とされない人間にならないように。」

 と自分に言い聞かせながら生きてきた。


 ミケのそばに横になって、柔らかい腹毛に頬を寄せる。

 あたたかい。

 このぬくもりだけが、私の心を少しだけ緩ませてくれる。


 「ミケ、いつもそばにいてくれて、ありがとう」


 返事の代わりに、ゴロゴロという振動が伝わってくる。

 ミケは何も求めない。

 何も批判しない。

 ただ、ここにいてくれる。


 息を吸って、吐いて。


 蝉の声が遠のいていく。

 意識が薄れていく。


 このまま、どこか遠くへ行けたらいいのに。

 そんなことを思いながら、私は目を閉じた。


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