箱子
カンカンカンカンカン
ファサを肩に乗せ、佐原は飛び出した。
鉄骨の上、革靴が音を立てる。
脱走した妖の気配に反応し、ファサが埃を生み出す。
反応が強くなる方へ、管理局の廊下を抜け、
階段を落ちるように下り、外へ出る。
「ごめんなさいっ!」
すれ違う者と衝突しそうになりながらも佐原は駆ける。
カビ臭い空気が肺を満たす。
油の混じった水がズボンに跳ねた。
「遅いです。」
振り返らず、加賀が言う。
佐原は肺を跳ねさせるのが精一杯で返すことができない。
提灯の灯りが明るく照らす中梁層の賑わい通り、その裏道。
背を暖色の光に照らされる中、
脱走した妖を尾行するように身を潜める加賀の横で
他の局員が状況説明する。
「対象を発見した直後、攻撃。
返り討ちにあった。」
「駄目じゃぁないすか!!」
「しっ!」
声を潜めて叫ぶ佐原に局員が人差し指を立てる。
妙に緊張感がない。
「好都合です。
我々を返り討ちにしたことで対象が油断しています。
このまま尾行を続け、協力者と合流したところを叩きます。」
加賀が続ける。
「次は逃しません。」
目線の先、脱走した妖は
髪をうねらせ、周囲を警戒せず呑気に歩く。
「対象、43番通りを右折。」
「了解。3班はそのまま尾行、2班は先回りしてください。」
ピピピ
尾行を始めて暫く。
通りの灯りも喧騒も遠ざかり、
こちらの緊張も凝ってきた頃。
無線機が鳴った。
尾行中の局員で使用している回線に
新たに入ってきた者を告げる音。
「お、繋がった繋がった。やっとだよ。箱子ちゃーん聞こえる?」
リョウのノイズ混じりの声が有線イヤホン越しに届く。
何の用かは大体わかる。加賀は眉を顰めた。
「こちら加賀。」
「どう、順調?
対象が脱走してからかれこれ二時間、結構手こずってるみたいだねぇ。
今日中に終わらない感じ?妖の俺もそろそろ待ちくたびれちゃうよ。」
リョウの明るく場違いな声が尾行中の局員全員の無線機に流れる。
「こちらは尾行中です。不必要な発言は控えてください。」
「へぇ?言うじゃん。一回返り討ちにされたって?」
「たまたま近くを巡回していた局員が対象を見つけ、
その場で確保を試みたところ取り逃しました。
私が合流する前の話です。次は逃しません。」
「いいねぇ、期待してるよ。」
ははっ、と微妙に感情のない乾いた笑い。
「それだけですか?」
「いやいや、脱走したのが妖華と繋がってそうってご報告。
結構重要報告でしょ。俺のこと見直した?」
「それは想定済みです。」
「そ?残念。じゃあ頑張ってねぇ。」
俺たち合流しないから、と
あの薄っぺらい笑みを浮かべている想像が容易い声で
リョウは通信を切った。
静寂。
「対象、警戒区域に入りました。」
無線機が震える。
「そ?残念。じゃあ頑張ってねぇ。
応援してるよ。幸運を祈るってやつ?俺たち合流しないからさ。」
管理局のデスク、薄暗い空間。
行儀悪くも机に腰掛けていたリョウは無線を切り、目線を下に向ける。
血が滲み、破れたジャンパーやスラックスをそのままに、
パイプ椅子に腰掛けた痩せた男。
骨張った右手で掴んだリョウの右手を咥えている。
器用にも利き手ではない左手で報告書を書き上げる武下の喉は
時折じゅっ、と音を立てて上下する。
その度にする、指先から血が抜ける感覚。
一時間半ほどこうしている。
「遠慮って知ってる?今どき西の妖でもそんなに飲まないよ。」
「自覚してるか知らないけどさ、この絵面って結構衝撃。」
「うわ、目眩してきた。そろそろ俺も貧血になりそう。
色白色男になっちゃう。」
眉間を抑えるリョウに目もくれず、武下はペンを走らせる。
また喉が上下した。
ぐる、と瞳孔が渦巻く。
リョウの血で妖力酔いを起こしているが、
筆跡を乱すことなく報告書を書き上げていく。
二人の背後、
海里は自分の目を疑っていた。
目の前の光景が信じられない。
机に腰掛ける軽薄そうな妖狐の局員。
それはいい、そこまではいい。
なぜ妖狐の血を飲んでいる。
どうしてこんなことになった。
訓練場の床、
気絶していた海里は目を覚ました。
直後、首に走る痛み。
「いっつぁ...だぁ!!ックソ!」
金玉を蹴り上げようと意気込んだ瞬間、
だるま落としのように首だけ落ちたと錯覚するほど
強烈な衝撃を喰らった。
時間は経った。だが動けない。
人間の出せる威力とは思えない。
ようやく無機物みたいな男の人間らしさを見出したと言うのに。
ジリリリリリリリリリリ
脱走者を知らせる警報。
「ぁぁああ!!?」
脳まで響くけたたましい音に顔を顰める。
耳を塞ぐ以外どうすることもできず、
音で揺れる訓練場の床に転がっていれば、
周りの訓練生もあまりの煩さに目を覚ます。
「なんだこれ...頭が...」
「耳が、終わる...!」
音で意識を取り戻し、音で意識を手放しそうな中、
何かが訓練場に足を踏み入れる気配。
なんとかその方へ目を向ければ、
両手に刀を持った一つ目の異形。
幻覚か。そう思うほど存在感がない。
海里自身、どうしてこれに気付けたのかわからない。
のっぺらぼうのようにつるっとした顔、
そこに無理やりつけられたような一つの目が不自然に瞬く。
光を反射しない皮膚は立体感を無くすほど黒い。
それに引っ掛けたような布は服のつもりだろうか。
確実に人ではない。
だが、こんな妖見たことがない。
異形は軋んだように首を動かし、
痙攣しながら訓練場を見渡した。
これから作動する機械が情報を読み取るように。
「ぁんだ、テメェ...」
耳のようなものは見当たらないのに
海里の声を聞き取ったらしい。
――ぐりん
動いた目が海里をとらえた。
蛍光灯の白い光を反射する両手の刀が
空間に穴が空いたように見える体と
正反対で、
アンバランスで、
不気味だ。
「ひ......ひっ...!」
誰かの悲鳴が鼓膜を震わせた。
心臓が跳ねる。
武下と初めて対峙した時のように。
だが、これは経験からくる恐怖ではない。
未知。よくわからないものに対する恐怖。
浅くなる呼吸を落ち着かせるために目を閉じた。
深呼吸。
「あ?......っ!?」
一瞬、わからなかった。
気づいた瞬間、苦しくなるほど急激に芯まで冷える。
視界一杯に広がるのが、一つ目だと。
足音もなく、息遣いもなく、
深呼吸の一瞬で海里の鼻先に触れるほど接近してきた。
白目に浮き出た血管が見えるほど。
異形が刀を振り上げた。
『狐火』
聞き慣れない声。直後、
異形の体が炎に覆われた。
『火縄』
『灼斬』
立て続けに唱えられる呪文。
炎が縄へと形を変え、異形を捕えた。
火縄は異形の体を焼き切らんとする。
「お前何者?気配がしないね。」
異形の後ろから顔を出した妖。
声の主は妖狐だった。
「リョウ教官!」
安堵の声。
訓練場に溢れていた恐怖が消えていく。
「俺ってば偉いわぁ。ちゃんと訓練生を守りに来ちゃった。」
異形は激しく体を震わせ、炎に耐える。
背後の妖狐に刃を振り落とすが、
刀が触れた瞬間、妖狐の影が揺れて消えた。
幻術だ。
「ね、お前もそう思わない?」
不意に耳元で聞こえた声。
反射的に振り返れば、妖狐がいた。
「っった...!」
「うっわ、首痛めてんの?いたそ。」
この妖狐の話し方は緊張感がない。
さっきまでの恐怖が消えてしまった。
「これは訓練でだ!あの変な奴にやられたんじゃねぇ舐めんな!」
「ははは、あの無表情にやられたんだろ?わかってるよ。俺もあいつと同じ教官だし。」
「はぁあ?」
「うわ、態度悪ぅ。なに、はぁ?って。俺一応お前のこと助けてやったんだけ、ど!?」
浮遊感。
妖狐が首根っこを掴んで飛び退いたとわかる。
直前までいた場所に刀が振り落とされた。
鉄板の床に亀裂が入る。
「あれ、焼き切れてないの?困るなぁ。」
異形は無傷だった。
立体感の掴めない体が一回り大きくなっている。
一つだった目の横に、小さい目もできている。
「俺の術吸収しちゃったの?面倒くさそうだねぇ、お前。」
異形は妖狐を狙う。
「気配はしないし、妖かどうかも怪しいし、」
頭上に刃が迫る。
妖狐は避けない。
バンッ
異形の手を銃弾が撃ち抜いた。
キンッ、と刀が落ちる音。
異形は大小二つの目を震わせる。
風穴の空いた手のひらを見つめ、振り返った目は
伸びた髪を適当にまとめた無表情の男をとらえた。
「お前はどう思う?」
リョウは武下に問う。
「...知らん。」
知らぬ間にそこにいた男から
寝起きの低い声が抑揚なく発される。
勝った。
誰がともなく確信した。
十龍城砦
妖と人間が共存する世界。剥き出しの鉄骨が不安定に上へ上へ伸びた構造
踏み外せば下に落ちそうな不安定な足場、空気の通り道のない暗い街、澱んでカビ臭い空気、薄暗く闇を照らす提灯、目が痛いほどに光るネオン、人間と妖、
閑黄朝(かんおうちょう、富裕層)、中梁層(ちゅうりゃんそう、庶民)
蛾骸下層(ががいかそう、貧困層)、湿禍暗(しっかあん、裏社会)
内側に進むにつれ治安が悪くなる
均衡管理局(妖と人間の均衡を保つ機関、治安管理局ともいう) 中梁層
人間局員:スーツのズボン、シャツ、管理局と背に書かれたジャンパー、
18歳から局員として働く箱子と、18から訓練を始めて20歳からの一般
妖局員 :和装、勾玉円紋の羽織
教官が可と判断してから入局
箱子:管理局が買取り、訓練を積ませてきた子供。
管理局に貢献するためだけに育てられる。
リョウ 200〜300歳 182cm 均衡管理局所属 狐の妖 中梁層出身
狐色の癖毛、狐の耳と尾、丸い吊り目
普段の言動から、軽い男と評されているが、他人に対してはなんとなく壁がある。コミュニケーション能力に長けており、仕事はできる。自由人。身体能力はいまいちだが、術の扱いや交渉能力に長ける。 人間に比べれば長寿だが妖の中では若い方。面白そうだからと入局して以来、50年ほど所属。
教官として局員養成も仕事に入ってるが、まともにやってない。
武下律 24歳 173cm 均衡管理局所属(教官) 人間 蛾骸下層出身
肩まで伸びた黒髪のハーフアップ、三白眼の鋭い目つき(隈つき)、無表情
若手でありながら優秀。ただし、めちゃくちゃ寡黙で無愛想。真面目。食事も睡眠もおろそかにしがちなので華奢(のくせに強い)。めちゃくちゃ無愛想で人当たりも悪いが、やるべきことはこなす。悪いやつじゃないというのが周りからの評判。身体能力が異様に高く、戦闘能力に長ける。
教官として局員養成も行なっている。幼い頃に管理局に売られ、以来18歳で入局するまで訓練させられてきた箱子。
海里 18歳 158cm 均衡管理局所属 人間(新人) 蛾骸下層〜湿禍暗出身
黒く短い癖毛、意志のある力強い目、仏頂面
小柄ながら筋肉質。盗みを重ねて生きてきたが、18になり管理局の訓練生となることができるようになったので入局(管理局の方が稼ぎがいい)。自分が生き残ること、稼ぐことに貪欲な少年。気に入らない者には生意気な態度を取るが、認めた者には従順。喧嘩っ早く乱暴な性格。教養はない。
佐原実 22歳 166cm 均衡管理局所属 人間 中梁層出身
整えられた黒髪、純粋な目、健康的な体型
やる気に満ちているが空回りしがちな青年。訓練生の時、リョウと武下が教官だった。
武下のことは信頼も尊敬もしてるけど、何より怖い。リョウには懐いてる。
小型の妖が相棒(埃の付喪神、愛称:ファサ、ファーちゃん)。
本人の気が弱すぎるのでファサとの喧嘩でも負ける。
加賀玲 19歳 155cm 均衡管理局 人間 中梁層出身
茶髪のポニーテール、タレ目
箱子。物怖じしない性格で、はっきりものを言う。しっかりしてる。
先輩後輩関係はしっかり守るが、佐原には当たりが強いし尊敬してない。
先輩には敬語を使える。