挿話
十龍城砦、蛾骸下層。その深部。
「酷い匂いですね」
肩にかけた青いマントを持ち上げ、眉を顰めて歩く眼鏡の男。
汚水滲み出るゴミ山の横で、彼は鼻を塞ぐ。
「やめなさい。」
その動作に、女が首を振った。緋褪色の髪が揺れる。
底が削れたブーツを履く彼女のマントの裾は、すでにドブ臭く染まっている。
「ここで生活している人だっているのよ。」
「生憎、僕はここで生活していません。」
「屁理屈は聞きたくないわよ。」
「貴女は丈夫だからいいですよ。僕は喘息持ちなんです、ご存知かと思いますが。」
男は咳を一つ溢す。
「こんな空気をずっと吸っていたら肺が可笑しくなってしまう。」
ジジ...
ひび割れたネオンが音を立てた。
耳をすませば、笛を鳴らすような呼吸音も聞こえる。
「まったく...」
女はポケットに手を忍ばせた。
「使いなさい。」
「ありがとうございます」
出てきたのは、小さなハンカチ。
安藤から受け取った桃色のそれを、五十嵐は自身の口に押し当てる。
微かな石鹸の匂いが、五十嵐の肺を満たした。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
鉄骨に背中を預け、座ったまま眠る女。
痩せて落ちた肩に安藤は手を掛ける。
「雪灯ってご存知かしら?」
「...」
答えはない。
「泡を吹く薬って聞いたことはない?」
「...」
ガクリ
女の体が落ちた。
鉄床の汚水に、波紋が拡がる。
「死んでいるのでは?」
五十嵐が問う。
「まだ暖かいわ。」
「死んでから時間が経ってないとも考えられます。こんな劣悪な環境ですから、毎秒人が死んでると言っても過言ではないでしょう。現に僕も頭痛がしてきました。早いところ──
「五十嵐くん」
安藤が低い声で言う。
「ごめんなさい──
安藤が見つめる先、倒れた女の口から湧き出る白い泡。
鼻が曲がるような悪臭に混じった、微かな甘酸っぱさ。
──油断したわ。」
カチャリ、金属音。
背中に硬いものが当てられた。
五十嵐は両手を上げる。
「これは、どちらのミスですか?」
「私のミスよ。気づけなかったわ、こんなに近くにいたのに。」
安藤も、両の手を上げる。
「鈍るわね、やっぱり。」
バン
バン
二発の銃声が、濁ったネオン光照らす小路に響いた。




