惑決
ゼー、ヒュー
喉が萎まったような苦しげな呼吸。
閉じることができなくなった口から、白く濁った泡が落ちる。
「ぁ、が」
はくはくと痙攣するそこに細い指が差し込まれた。
床に座り込んで嘔吐く人間の喉奥をぐっと押し込む。
お゛ぅぇえ゛え
汚い音。
無機質な目に見下ろされ、灰色の胃液がゴミ箱に落ちた。
半透明のプラスチック袋に収まった、白い粉が浮かぶゲロ。
おおーー
数分前──緊急です! と叫ぶ千樹が飛び込んで来た管理局、事務室。
運ばれてきた薬物中毒者をたった数秒で吐かせる手際の良さに、ちょっとした歓声が上がった。
「リョォ」
まばらな拍手が響く中、手書きの活字に目を通すリョウに声をかけたのは
焼き餅を頬張り、焦茶に縁取られた目を細める狸男。
「食べる?」
鼻先に差し出された餅。
狐になったリョウの口に収まるよう、小さく千切られた海苔醤油。
だがその親切は受け取られなかった。
『ありがた迷惑って言葉をあげる』
リョウは身を引く。
海苔醤油から距離をとるように一歩下がった。
「あれ、好きじゃなかったっけ?」
『好きだよ?うんこ塗りたくられたポテチの次にぃ。』
「あぁ!そうだった。ごめんごめん」
ジトリとしたリョウの目に、イロタはニタリと笑う。
差し出した餅を自分の口に放り込んだ。
「ところでさ、君の相棒は大丈夫なの?」
餅を飲み込み、イロタが口を開く。
「麻薬の件。あの仮局員二人組、また失敗したみたいじゃん。あの二人組ませたのってリョウの箱子でしょ?」
『十中八九そうだね。』
「次はないみたいなこと言われてなかった?眼帯つけた箱子に。」
『よくご存知で。』
「だよね。処分されちゃうんじゃない」
『あー、ね』
リョウはカビた天井を見上げた。ゆらり、ふわり、と尾が揺れる。
『まぁ大丈夫でしょ』
「へぇ。首が飛ぶかもしれないのに?」
『飛ぶだけならまだマシでしょ。あいつ首が無くても動きそぅじゃない?そっちのが怖くないかって話ぃ。』
「否定はしないよ。」
「また駄目だった、な。」
浮浪者が病院へ連れて行かれ、事務室に静けさが戻ってきた頃。
浮浪者の胃液で汚れた左手を拭う武下に、黒澤は言い放つ。
「麻薬捜査もまともにできない。あの二人を組ませたのは失敗だ。」
「...」
言葉を返す代わり、武下は胃液を拭った布切れを投げる。
酸っぱい臭いを放つそれは黒澤の右手に収まった。
「それの成分分析を」
「やったところで狂骨か妖骨だ。麻薬の話は今はいい。」
「先程から胃液に触れた箇所が痛む。」
「胃液は強酸だぞ?洗い流してないんだから──」
当たり前だ。
そう続くはずだった言葉は途切れた。
黒澤の右手に痛みが走る。酸の刺激とはまた異なる、血管が広がるような鈍痛。
狂骨にも妖骨にもない作用。
黒澤は布切れをジャンパーのポケットへ仕舞った。
「なるほどな、成分分析には回しておく。話題を戻すが」
「戻さなくていい。」
武下が遮る。珍しく、黒い瞳がしっかりと黒澤を捉えた。
「触れただけで痛む劇薬。聞いたことがない。」
「俺だってないぞ。新薬だろうな...」
そこまで言って、黒澤は気づく。眼帯に隠れていない方の目を細めた。
「偶然ではあるが、まだ出回って間もない新商品に気付いた功績は大きいと?」
「そうだ。」
問えば、武下は頷く。
つまり、あの二人は期待以上の成果を掴んできたと主張したいらしい。
運が良かっただけとはいえ、成果は成果。黒澤に迷いが生まれる。
「もう一つある。」
再度、武下が口を開いた。
どうしたのか、今日はよく喋る。いつも口元しか見てこない目も、今は視線が合う。
黒澤からすれば少々気味が悪い。
「なんだ」
「海里、あれは混ざり物だ。」
「混ざり物?」
『妖の血が混じってるってこと。』
黒澤が問えば、間延びした声がした。
黄色い毛玉が武下の肩に乗る。
「それはわかってる。俺が聞いているのはその根拠だ。」
「身体能力が高い。訓練を始めてから俺に反撃できるようになるまでが一番早かった。
湿禍暗で盗みをしていた割には体格もいい。明らかに純粋な人間ではない。」
『...え、幻聴?』
かつてない武下の長台詞に、リョウと黒澤は顔を見合わせた。
「湿禍暗の価値観が相まって攻撃性も強い。」
一息置いて、武下は続ける。
「対して千樹は平和主義が過ぎる。術の練度は十分だが、実戦で使う度胸は足りないと聞いている。」
『だねぇ。俺が可を出さない理由。』
「攻撃的すぎる海里と、極端に暴力を避ける千樹。どちらも訓練でどうにかなる物じゃない。」
「...実践で経験を積ませるしかないということか」
黒澤は眉間を抑えた。
武下の話は筋が通っている。黒澤自身、すでに納得しかけている。
だが事実として、海里と千樹の相性は悪い。
任務を一度たりとも遂行できないほどに。
今のところ大きな支障は出ていないが、それもギリギリで保っているに過ぎない。
『なぁんか饒舌だと思ったらキマってんのね。粉臭いよ、お前の息。』
「そうか。」
『皮膚吸収?』
「恐らく」
『カエルじゃん。』
「武下」
肩に狐を乗せた箱子を呼ぶ。
「海里と千樹、両名の扱いは保留にする。お前の処分の有無もだ。今は、説明会の用意に集中しろ。」
それが、黒澤の出した答えだった。
「なんかレベル高い会話してる。」
事務室の隅、黒澤たちの会話を聞いていたイロタは呟いた。
最後の餅を口に放り込む。
「僕と話してたのにあっち行っちゃうんだもんね。」
視線の先には、箱子の肩に乗った狐。
「サザメさんがあれこれ言うのも納得だよ。」
十龍城砦
妖と人間が共存する世界。剥き出しの鉄骨が不安定に上へ上へ伸びた構造
踏み外せば下に落ちそうな不安定な足場、空気の通り道のない暗い街、澱んでカビ臭い空気、薄暗く闇を照らす提灯、目が痛いほどに光るネオン、人間と妖、
閑黄朝(かんおうちょう、富裕層)、中梁層(ちゅうりゃんそう、庶民)
蛾骸下層(ががいかそう、貧困層)、湿禍暗(しっかあん、裏社会)
内側に進むにつれ治安が悪くなる
均衡管理局(妖と人間の均衡を保つ機関、治安管理局ともいう) 中梁層
人間局員:スーツのズボン、シャツ、管理局と背に書かれたジャンパー、
18歳から局員として働く箱子と、18から訓練を始めて20歳からの一般
妖局員 :和装、勾玉円紋の羽織
教官が可と判断してから入局
治安が全く改善しない中、税金泥棒どもなど暴言を浴びせられることも。
管理局のポストには毎日のように脅迫めいた手紙が届く。
箱子:管理局が買取り、訓練を積ませてきた子供。主に人間。
管理局に貢献するためだけに育てられる。
逆らえないよう従順を強制する桔梗の煮汁を飲まされる。
リョウ 200〜300歳 182cm 均衡管理局所属 狐の妖 中梁層出身
狐色の癖毛、狐の耳と尾、丸い吊り目
普段の言動から、軽い男と評されているが、人間に対してはなんとなく壁がある。コミュニケーション能力に長けており、仕事はできる。自由人。身体能力はいまいちだが、術の扱いや交渉能力に長ける。 人間に比べれば長寿だが妖の中では若い方。面白そうだからと入局して以来、50年ほど所属。
教官として局員養成も仕事に入ってるが(現在休職中)、まともにやってない。
狐の姿になったが、その中身は変わらない。
武下律 24歳 173cm 均衡管理局所属(教官) 人間 蛾骸下層出身
肩まで伸びた黒髪のハーフアップ、三白眼の鋭い目つき(隈つき)、無表情
若手でありながら優秀。ただし、めちゃくちゃ寡黙で無愛想。真面目。食事も睡眠もおろそかにしがちなので華奢。無愛想で人当たりも悪いが、やるべきことはこなす。悪いやつじゃないというのが周りからの評判。
聴力を失い杖を必要とするようになったものの、相変わらず戦闘能力に長ける。術への耐性も健在。
教官として局員養成も行なっている(現在休職中)。幼い頃に管理局に売られ、以来18歳で入局するまで訓練させられてきた(いわゆる箱子)。
情操教育を受ける機会がなかった。
黒澤 36歳 173cm 均衡管理局所属 人間
青みかかった黒髪 ジト目 眼帯
箱子。過去の任務で目に負傷、眼帯をつけている。
イロタ 300~400歳 161cm 均衡管理局所属 狸の妖
茶と白のまだらの髪 焦茶で縁取られた目
リョウの友人




