海里
管理局の屋上、リョウは煙管を吹かしていた。
屋上とはいえ、周りにはさらに背の高い建物が並んでいるため空はほとんど見えない。
自然光が届かないこの街は今が昼なのか夜なのかさえ曖昧だ。
ネオンのギラついた光に照らされ、金の塗装が剥げた煙管が紫に染まる。
「なぁんかさ、忘れてない?」
そう呟いて煙管を咥えれば、黄色種特有の甘さが広がる。
柵にもたれ、息を吐く。煙が湿った空気に混じって消えていく。
「リョウさん!」
バンッ!と勢いよく屋上の扉が開いた。
声の主は、相談したいことがあると言っていた人間、佐原だった。
リョウはこれか、と一人納得する。
「いつ相談乗ってくれるんすか!!」
「ごめんごめん。忘れちゃってた。」
煙管を振りながら笑うリョウに佐原は涙目になる。
「ひどいっすよぉ。俺ずっと待ってたのにぃ!」
「ごめんね?」
「...それ、本当に思ってます?」
「思ってる思ってる。それで、相談って?」
佐原は不服そうにしながらも答える。
「先日身柄を拘束した窃盗犯が入局を希望しているんです。」
「初犯?」
「捕まったのは今回が初めてですけど、多分常習犯です。」
「どっち?」
「人間です。」
「ふーん。じゃ、あの無表情くんに頼みなよ。俺より適任でしょ。」
「武下さんですか!?勘弁してくださいよぉ。めちゃくちゃ怖いじゃないですかぁ!」
佐原は青ざめてリョウに泣きつく。
「ダイジョブダイジョブ。」
「なんで棒読みなんですかぁ!!」
「気の所為気の所為。あっ、お前!鼻水つけるなよ!」
「まさか、面倒臭いだけじゃないですよね?」
引き剥がされ、ずびっと鼻を啜りながら佐原が問う。
「違う違う。」
「目逸らしてるじゃないすか!!」
未だぎゃんぎゃんと騒ぐ佐原だが、リョウに屋上から追い出されてしまう。
「うぅ...リョウさんの薄情者ぉ..」
佐原は泣きながら局内の階段を下る。
「武下さん仮眠室かなぁ..絶対起こしたら機嫌悪いよなぁ..」
佐原の記憶が蘇る。
まだ訓練生だった頃、武下には殺されるかと思うほど扱かれた。
体術では関節を可動域ギリギリまで捻られ、折れるかと思うほど強く蹴りを入れられ、
少しでも動きを乱せば徹底的に型を叩き込まれる。
射撃では構える時にあの鋭い目で一挙手一投足を見られ、当たらなければ何が悪かったかか言わされ、
それが見当違いであれば一段と鋭くなった目つきで感情なく淡々と指導される。
とにかく容赦がないのだ。
いつも隈を作り、明らかに脂肪が足りていないのに、とても勝てる気がしない。
感情を見せないあの目がトラウマだった。
対してリョウは優しかった。
リョウは妖だから人間の佐原は何か教えられるということはなかったが、
死にかけている訓練生たちを笑いながらも労ってくれた。
武下に、ちょっと厳しすぎるんじゃない?とも言ってくれた。
人間の自分よりずっと長く生きているだけあって、余裕があるのだ。
あぁ、なんで自分の教官は武下だったのか、
嘆きながらも佐原は仮眠室の前まで来てしまった。
この扉を開けたくない。何これ。パンドラの扉?
中にいる武下の機嫌が悪いのはわかりきっている。
だってあの人万年寝不足だもん。
どうしようか、もう一度リョウさんに頼もうか。
屋上に引き換えそうとして、思いとどまる。
いや、いやいや。リョウさんに迷惑はかけたくないだろう佐原...!
自分の頬を叩き、仮眠室の扉を少しずつ開ける。
「もう俺は訓練生じゃないし、武下さんに怒られることはない。大丈夫、大丈夫、大丈ブッ!?」
暗闇の中、武下がこちらを見ていた。
うつ伏せの状態で、ベッドから上半身だけを起こして。
顔にかかった髪の隙間から、佐原を見ている。
怖い。めちゃくちゃ怖い。
暗闇の中で光る目が鋭い。
寒い。心臓がうるさい。飛び出るんじゃない?
妖に殺気を向けられた時でさえ、ここまでにはならなかった。
何で起きてるんですか。隈すごいですよ?大丈夫そうですか?
自分が声をかけるまで寝ててくださいよ。
こっちの気配で勝手に目を覚ますんじゃないよ!
心の準備ができないからぁ!!
だが、ずっと黙っているわけにはいかない。
何だ、と言うようにこちらを見てくる武下に、佐原は喉がひくつくの必死に抑えた。
「あの、えっと、そのですねぇ...」
「...」
何とか声を裏返さずにいられているが、言葉が出てこない。
こうやって言葉が出ない時、武下は急かすわけでもなく、静かにこちらを見る。
起こした上半身をそのままに、睨むわけでもなく、顔にかかった髪をよける。
これだ。これが怖い。武下が時に見せる変な優しさが怖い。
さっさとしろ、だの、用件は何だ、だの言ってくれればまだマシなのだ。
せめて睨むなりしてくれればいいのだ。
そうすれば普段の印象と一致するから。
どうして静かに待つのだろうか。
変な気遣いが、余計に武下を得体の知れない存在に仕立て上げる。
「く、訓練生志望の者がいまして、」
数分経ったころ、ようやく佐原が言葉を絞り出す。
「ただ、窃盗犯なんです。」
「初犯か?」
武下が起き上がり、静かに問う。寝起き特有の低い声。
「は、はい。一応...」
「なら問題ない。」
「いや、書類上は初犯ですけど、多分常習犯で..」
「問題な「うっす。」
...やってしまった。
佐原は背中から汗が吹き出るのを感じる。
早くこの場を去りたすぎて、武下の言葉を遮ってしまった。
だがそれに気を悪くした様子もなく、武下は乱れた髪をまとめ直す。
不快に思った様子もなく、ただの作業として。
知ってたよ。どうせこの人そういうの気にしないよ。
それが余計怖いのも知らずにさ。
何?何なの?あんた。
佐原は恐怖のあまり逆ギレをかます。
「手続きはこちらでやっておく。」
未だ冷や汗の止まらない佐原を武下が見下ろす。
調子が一定の、感情の乗らない声ともに。
「お、お願いします。」
離れていく武下の背を見て、佐原は息を吐く。
怖かった、と。
デスクにて、武下は蛍光灯に照らされた書類に目を通す。
指名:不明。本人は海里と自称
年齢:18
種族:人間
出身:蛾骸下層
罪状:窃盗
動機:困窮
備考:本人の発言から常習犯と推測
素行に問題あり、取り調べ中に局員3名に暴行
湿禍暗に居住経験あり
蛾骸下層、その字に目が止まる。
浮かぶのは、ハエが集った物を口に入れる人間、体を売る幼子、
土下座している者を嘔吐するまで蹴る者、溶けかけた死体を抱き放心する者。
死臭が漂うなか、他人を思いやることを捨てた、捨てざるを得なかった光景。
生に執着するか、生を諦めるか、その二択のみ許された場所。
武下は一度目を瞑り、調書を投げるようにデスクに置いた。
訓練生志望書を手に取る。
志望理由に目を通すことなく受理の二文字に丸をつけ、サインをする。
印鑑を押し、自分と同じく教官であるリョウのサインをもらうため屋上に向かう。
眠気も空腹も、随分と慣れた。時折ぐらつく視界も、今では何でもない。
階段に足をかけたところで、リョウと鉢合わせる。
武下は何も言わずに志望書を差し出した。
「なになに?」
リョウはわざとらしく耳をぴくりと動かし、志望書を覗き込む。
はじめに顔を合わせた頃は、このわざとらしい動きが鼻についていたものだ。
「あぁ、さっき泣き虫くんが言ってたやつね。ここにサインすればいい?」
武下は何も返さない。
「はいはい。沈黙は肯定ってやつね。」
1日3回喋ったら死ぬの?と茶化しつつ、
リョウは妖気をこめた指で紙を撫でる。
撫でた場所に、炎を纏った狐の模様が現れる。
「はいどうぞ。」
「...」
武下はまたも無言で受け取りその場を去る。
「泣き虫くんに怖がられたの気にしてる?」
「...」
「ふーん。気にしてるんだ?」
「無駄口叩いてないで仕事しろ。」
「あれ、図星?」
あまりに馬鹿馬鹿しいことを言うリョウに、武下はため息をつく気にもならなかった。
頭痛と吐き気を意識の外に押しやり、湿禍暗居住経験ありの問題児をどう指導するか考え始める。
まずは攻撃的すぎる性格をどうにかする必要がある。
湿禍暗を生き抜いてきたのなら、上の立場の者に服従する能力は身についているだろう。
ならば、やることは一つ。
一瞬揺れた視界に足を取られることなく、訓練場に向かった。
訓練場といっても大層な物ではない。
管理局内の空室を仕切っていたトタンの薄壁を撤去し、無理やり大部屋にしたものだ。
骨組みは他と同じく頼りない。
補強しているとは言え、やり過ぎれば床が抜けるだろう。
武下が訓練場に足を踏み入れれば、中にいた訓練生たちは直ちに整列する。
筋トレをしていた人間も、組み合ってた者も、術の練習をしていた妖も
足を肩幅に広げ、手を後ろで組む。
「お疲れ様です!」
訓練生の一人が言えば、次々に他の訓練生もそれに続く。
武下はそれに返すことなく、新顔を探した。
一人、知らない顔がいる。
黒く短い癖毛、小柄ながらも筋肉質な体
仏頂面の少年が武下を見つめていた。
やがて、少年も他の訓練生と同じように足を肩幅に広げ、手を後ろで組んだ。
意外。もっと言えば、予想外。
こちらの顔を見るなり飛び出してくると踏んでいたが、
勘が鋭いのか、この数秒で武下に敵わないと判断したらしい。
他の訓練生と同じように整列した少年に、
久方ぶりに予想を裏切られた。
海里は管理局に捕まり、暴れた。
取調室でも、自分を捕らえた局員に蹴りを入れ、殴りかかった。
3人の局員に一撃ずつ入れてやった時は快感を感じた。
腹を抑えて蹲る3人を見下ろして笑ってやった。
その後、応援で来た鬼に取り押さえられた時は不快だった。
どれだけ身を捩っても全く緩まない拘束が癪に触った。
取り調べの途中、自分が管理局に入れる年齢だと知り、
入れろ、と騒いでみれば随分待たされたものの
あっさり認められた。
拍子抜けしていれば、訓練場に案内された。
他と変わらない、鉄骨の上に乗った空間。
補強されているらしいが、激しく暴れれば崩れるだろう。
管理局といえど大したことはなさそうだ。
湿禍暗を牛耳る奴らの方が何倍もヤバいだろう。
さっさと教官とやらをぶっ飛ばして昇格してやろうと思っていた。
他の訓練生が整列するまでは。
周りが急に静まった時、全員同じ方向を見ているので
そっちに視線を向ければ、細い男が立っていた。
明らかに痩せすぎな体をジャンパーに包んだ男。
なんだ人間か、と最初はがっかりしたものの、すぐに認識を改める。
杖をついたジジィ、頬のこけた棒人間、点滴を繋がれた病人、
海里が出会ってきた湿禍暗の本当にヤバい奴らは、
見た目は強くない。
その代わり、目が違う。
どこまでも黒い色をしている。
訓練場に入ってきた男も同じだ。
隈の濃い鋭い目は何も写していなかった。
全身が粟立つ。
この男に、自分は敵わない。
そう理解したとき、体が勝手に動いていた。
足を肩幅に広げ、手を後ろで組む。
海里なりの、服従の印だ。
不本意だとか、ムカつくとかそんなことを言っている場合ではない。
生きるために必要なことである。
十龍城砦
妖と人間が共存する世界。剥き出しの鉄骨が不安定に上へ上へ伸びた構造
踏み外せば下に落ちそうな不安定な足場、空気の通り道のない暗い街、澱んでカビ臭い空気、薄暗く闇を照らす提灯、目が痛いほどに光るネオン、人間と妖、
閑黄朝(かんおうちょう、富裕層)、中梁層(ちゅうりゃんそう、庶民)
蛾骸下層(ががいかそう、貧困層)、湿禍暗(しっかあん、裏社会)
内側に進むにつれ治安が悪くなる
均衡管理局(妖と人間の均衡を保つ機関、治安管理局ともいう) 中梁層
人間局員:スラックス、シャツ、管理局と背に書かれたジャンパー、
妖局員 :和装、勾玉円紋の羽織
リョウ 200〜300歳 182cm 均衡管理局所属 狐の妖 中梁層出身
狐色の癖毛、狐の耳と尾、丸い吊り目
普段の言動から、軽い男と評されるが、他人に対して(特に人間に対して)はなんとなく壁がある。コミュニケーション能力に長けており、仕事はできる。自由人。身体能力はいまいちだが、術の扱いや交渉能力に長ける。
武下律 24歳 173cm 均衡管理局所属 人間 蛾骸下層出身
肩まで伸びた黒髪のハーフアップ、三白眼の鋭い目つき(隈つき)、無表情
若手でありながら優秀。ただし、めちゃくちゃ寡黙で無愛想。真面目。食事も睡眠もおろそかにしがちなので華奢。めちゃくちゃ無愛想で人当たりも悪いが、やるべきことはこなす。悪いやつじゃないというのが周りからの評判。身体能力が異様に高く、戦闘能力に長ける。幼い頃に管理局に売られ、以来18歳で入局するまで訓練させられてきた箱子。
佐原 22歳 166cm 均衡管理局所属 人間 中梁層出身
整えられた黒髪、純粋な目、健康的な体型
やる気に満ちているが空回りしがちな青年。訓練生の時、リョウと武下が教官だった。
武下のことは信頼も尊敬もしてるけど、怖い。リョウには懐いてる。
海里 18歳 158cm 均衡管理局所属 人間(新人) 蛾骸下層〜湿禍暗出身
黒く短い癖毛、意志のある力強い目、仏頂面
小柄ながら筋肉質。盗みを重ねて生きてきたが、18になり管理局の訓練生となることができるようになったので入局(管理局の方が稼ぎがいい)。教養はない。