続落
蛇口を捻る。
キュゥ、と音を立て、体で弾けていた湯が止まる。
湯気が漂う中、カビで黒くなった扉を開ける。
更衣室の冷たい空気が体に触れた。
管理局拠点、シャワー室
加賀は外に掛けておいたバスタオルに手を伸ばす。
ポタポタと音を立て、雫が落ちた。
ほぅ、と一息つく。
濡れて真っ直ぐになった髪を軽く絞れば、水が滴る。
幾度も洗濯し、使いまわされたタオルは固い。
拭くたびに擦れ、加賀の肌は赤くなる。
ひりついた痛みは無視する。
シャツに袖を通し、ボタンを閉めた。
「あ」
肩の所が擦り切れていた。
「もう限界か...」
溜め息。今すぐ替えを持って来れるわけでもない。
仕方なく、加賀はスラックスに手を伸ばした。
ジャストサイズではないが、ベルトで締め付ければ動き回っても問題ない。
最後に、ジャンパーを羽織る。
均衡管理局の文字がはっきりと印字された、唯一新品のそれ。
鎌鼬の拷問で匂いが染み付き、取り替えられた。
ファスナーの裏側、取り付けられた内ポケットに無線機を入れようと手を伸ばした瞬間
ブー ブー ブー
無線機が震えた。
「これだけですか」
引き戸の前、数人の人集りに声をかける。
集まっていた者が一斉にこちらを振り向いた。
「僕達も少ないなーって思ってるよ」
狸族の男。
引き戸に手をかける彼は確か、リョウと仲が良かった。
「思ってるなら行こうとしないでください。」
「つれないね、人間ちゃん。」
「相手が相手です。被害が拡大します。」
「放っとけって?」
焦げ茶で縁取った目が細められた。
「この人数で救援要請に応じるのは合理的ではありません。」
「へえ?」
引き戸から手を離し、近づいてくる。
ドンッとぶつかる音。
止めようとした佐原が払い除けられた。
「本気で言ってんの?」
数珠のついた手が加賀の胸ぐらを掴んだ。
新品のジャンパーに皺が寄る。
「言ってみてよ。本気?」
加賀の乾ききらない髪が、狸族の手を濡らす。
「本気です。」
はっきりと言い放たれた答えに、胸ぐらの手に青筋が走る。
加賀の身体が浮いた。
「落ち着けって。」
宥める声。
狸族の肩に手が置かれた。
「玲だって言いたくて言ってんじゃない。それは分かってるだろ?その手を離してあげてくれ。」
声の主は野崎だった。加賀を庇うように狸族の手首を掴む彼。
髭の濃い顔に微笑まれ、狸の男は手を離した。
「...」
バツが悪そうに視線をずらす。
「...まぁ、正しいのはそっちだよ。」
一拍の間、再び狸が口を開いた。
「でも、僕はリョウを信じる。あいつは頭が良い。」
「頭が良い...」
朝奈が小さく繰り返した。
「うん、頭が良い。妖狐らしくね。」
焦げ茶の目が誇らしげに笑う。
「安倍晴夜と応戦中に救援要請したところで全滅なのは分かりきってる。
なのに、リョウは救援要請を出した。つまり、」
つまり、
加賀の頭が一つの推測を導き出す。
「すでに戦闘は終わっている。」
「そういうこと。」
眩暈がする。
後ろで誰かが崩れ落ちた。
「...ぁ、..あぁ...」
近くで聞こえる、掠れ、震えた誰かの声。
覚悟はしていた。だが、これはあまりに酷い。
加賀は目の前の光景を信じられなかった。
信じたくなかった。
中梁層の路地裏、
殆ど人通りもなく、蛾骸下層に片足を突っ込んでいるような場所。
狸の言った通り、安倍晴夜は既に去っていた。
惨憺たる光景を残して。
「リョ...リョウ......?ぉ、お前なの、か?」
狸族の男が必死に呼びかける足元。
小さな狐が死にかけていた。
左足をなくし、口から血を吐きながら震えている。
ゼェゼェと苦しげに、ぐずぐずになった腹を上下させる。
「妖気を使い切ったか...」
声を瞳を揺らしながら呼びかける狸の背に、妖局員が声をかける。
「死んでない。生きてるだけ、良かったじゃないか...」
聞こえてくる嗚咽に手持ち無沙汰になりながら、力無く肩に手を置く。
生きてるだけ良かったなんて、なんの慰めにもならないと分かっている。
分かっているが、数十尺先の光景を前に他の言葉など出て来ない。
数十尺先
ネオンの光が辛うじて届く、路地裏の奥。
頼りない紫の光に照らされて見えるのは、均衡管理局の文字。
人間局員が着るジャンパーと全く同じもの。
されど、暗闇にうっすらと浮かぶ影は人間の形を成していない。
左肘は逆方向に曲がり、右手はどろどろに腫れ上がっている。
下半身に至っては、無事な場所がなかった。
腰が大きく歪み、本来同じはずの両足の長さが揃っていない。
それでも、誰かわかってしまった。
「野崎さん。」
暗がりの中その影の隣で踞り、震える大きな背中。
路地裏に入るなり真っ先に走り出した野崎に、朝奈が声をかける。
差し出すその手には、銃が握られていた。
「あぁ...ありがとう...ありがとう...っ」
噛み締めるように、野崎はそれを抱きしめた。
どうしろってんだよ....
妖局員には、かけるべき言葉を探して口を開閉させることしかできない。
安倍晴夜を相手にした時点で、分かっていた。
だが、ここまで絶望的だとは思わなかった。
術の扱いに長けた妖狐はただの狐になり、管理局を支えていた人間は死んだ。
「ぅそだ...」
そんなわけない。
目の前の影に手を伸ばす。
武下は寝てるだけだ。
肩を叩けば、ちゃんと目を覚ます。
「加賀ちゃん」
触れる直前、止められる。
顔を挙げれば、泣きそうな佐原の顔があった。
「死んでる。死んでるんだよ。」
自分だって辛そうな顔をして、言い聞かせるように言ってくる。
「そんなこと──」
ありません。
言い終わる前に、抱きしめられる。
ふわり、と良い匂い。
朝奈だ。
普段は落ち着くその匂いに、今は苛立ちのようなものしか感じなかった。
十龍城砦
妖と人間が共存する世界。剥き出しの鉄骨が不安定に上へ上へ伸びた構造
踏み外せば下に落ちそうな不安定な足場、空気の通り道のない暗い街、澱んでカビ臭い空気、薄暗く闇を照らす提灯、目が痛いほどに光るネオン、人間と妖、
閑黄朝(かんおうちょう、富裕層)、中梁層(ちゅうりゃんそう、庶民)
蛾骸下層(ががいかそう、貧困層)、湿禍暗(しっかあん、裏社会)
内側に進むにつれ治安が悪くなる
均衡管理局(妖と人間の均衡を保つ機関、治安管理局ともいう) 中梁層
人間局員:スーツのズボン、シャツ、管理局と背に書かれたジャンパー、
18歳から局員として働く箱子と、18から訓練を始めて20歳からの一般
妖局員 :和装、勾玉円紋の羽織
教官が可と判断してから入局
治安が全く改善しない中、税金泥棒どもなど暴言を浴びせられることも。
管理局のポストには毎日のように脅迫めいた手紙が届く。
箱子:管理局が買取り、訓練を積ませてきた子供。主に人間。管理局に貢献するためだけに育てられる。
武下律 24歳 173cm 均衡管理局所属(教官) 人間 蛾骸下層出身
肩まで伸びた黒髪のハーフアップ、三白眼の鋭い目つき(隈つき)、無表情
若手でありながら優秀。ただし、めちゃくちゃ寡黙で無愛想。真面目。食事も睡眠もおろそかにしがちなので華奢。無愛想で人当たりも悪いが、やるべきことはこなす。悪いやつじゃないというのが周りからの評判。身体能力や術への耐性が異様に高く、戦闘能力に長ける。
教官として局員養成も行なっている(鬼教官)。幼い頃に管理局に売られ、以来18歳で入局するまで訓練させられてきた箱子。
リョウ 200〜300歳 182cm 均衡管理局所属 狐の妖 中梁層出身
狐色の癖毛、狐の耳と尾、丸い吊り目
普段の言動から軽い男と評されているが、他人に対してはなんとなく壁がある。コミュニケーション能力に長けており、仕事はできる。自由人。身体能力はいまいちだが、術の扱いや交渉能力に長ける。 人間に比べれば長寿だが妖の中では若い方。面白そうだからと入局して以来、50年ほど所属。
教官として局員養成も仕事に入ってるが、まともにやってない。
佐原実 22歳 166cm 均衡管理局所属 人間 中梁層出身
整えられた黒髪、純粋な目、健康的な体型
やる気に満ちているが空回りしがちな青年。訓練生の時、リョウと武下が教官だった。
武下のことは信頼も尊敬もしてるけど、何より怖い。リョウには懐いてる。
小型の妖が相棒(埃の付喪神、愛称:ファサ、ファーちゃん)。
本人の気が弱すぎるのでファサとの喧嘩でも負ける。
加賀玲 19歳 155cm 均衡管理局 人間 中梁層出身
茶髪のポニーテール、タレ目
箱子。物怖じしない性格で、はっきりものを言う。しっかりしてる。
先輩後輩関係はしっかり守るが、佐原やリョウに当たりが強いし尊敬はしてない。武下のことは尊敬している。
先輩には敬語を使える。
朝奈 21 148cm 均衡管理局所属 人間 中梁層出身
栗色の癖毛、タレ目、涙ぼくろと口元のほくろ
加賀の同期。
野崎茂 42歳 190cm 均衡管理局 半妖(鬼) 蛾骸下層出身
全身毛深い、優しい目、筋骨隆々
加賀のバディ。




