第1話 手紙
妖怪の山は天狗が支配していた。しかし山に住んでいるのは天狗だけではない。天狗一強支配に対抗すべく、河童、人間などの種族が反天狗同盟を組織し、山の組織転覆を企てる動きが水面下で進んでいた。しかし巨大な天狗のネットワーク。そんな動きが進んでいることなど天狗上層部の耳にもとっくに入っていた。そんな中、大天狗である飯綱丸龍がその計画に加担しているかもしれない、という情報が入った。天狗のトップ、天魔はその真偽を確かめるため、龍の部下、菅牧典に接触を試みるのだった……
妖怪の山、飯綱丸邸。
家の主である大天狗・飯綱丸龍は、現在業務のため外出していた。家には彼女の部下である管狐・菅牧典が一人いるだけである。
さて、典には一つの悩みがあった。飯綱丸の部下とは言えど、普段任される仕事の多くは飯綱丸の大天狗としての仕事とは何ら関係のない日常生活についてのことだった。それは別にいい。なぜなら私は天狗ではないし、大天狗の扱う仕事など自分には荷が重すぎることくらい分かっている。
典の悩みはひどく単純なことだった。
「………暇!!!」
そう。典の悩みとは、仕事がなさすぎることである。飯綱丸は通常、洗濯や部屋の掃除、買い出しなどを頼んで出勤する。しかしそれらは午前中には終わってしまう。夕方、夕食の下拵えをする時間を抜きにしても、実に3.4時間は何もすることがない時間があった。典もこの時間を有効活用しようと、何度か努力したことがあった。例えば、絵を描く練習をしたり、書の練習をしたり。例えば、体力をつけようと運動をしたり、新メニューの考案をしたり。しかし彼女の性、飽きっぽいのが災いした。1番続いたのはなんだっただろうか。小説を書いていた5日が最長だったか。いや、それとも。
彼女の作品は主人公が冒険に出発しようとしたところで終わっている。時間が経って見てみると、何故か馬鹿馬鹿しくなって辞めてしまったらしい。
そんな日々が、もう何年も続いていた。典は、何不自由なく生活できていたが、何処か言葉では言い表しにくい、モヤモヤとした感情を抱いていた。
ある秋の日だった。妖怪の山の木々が色付き始めた頃だった。飯綱丸はいつも通り出勤し、典はいつも通り暇を持て余していた。
和歌でも詠んでみようか。典がふと思い立った時だった。
ばんばん。
扉が何者かによって叩かれた。典は仰天した。何も客が来たことに驚いたのではない。ここは畏くも大天狗・飯綱丸龍の屋敷である。その扉を無造作に叩くなんて不敬極まりない。では天狗ではないだろう。
さては山に迷い込んだ人間かな?典は予想した。
「はーい。ただいま。」
典は扉に向かいながらほくそ笑んだ。久しぶりに人間に囁いてやろう。典の管狐としての本性が滲み出た笑みであった。
「こんにちは。どなたでしょう?」
扉を開けながら聞く。そして典が相手の姿を見た時、彼女は少々落胆した。予想が外れたのだ。前に立っていたのは天狗だった。
落胆と同時に、彼女には怒りが湧いてきた。天狗なら何故、飯綱丸様のお屋敷の扉を無造作に叩いたりしたのだろう。本人が居ないから良かったものの、流石に非常識すぎる。
しかし、相手の言葉によって彼女の今考えていた一連のことは全て綺麗に一掃された。と同時に、典の疑問も解消された。
「こんにちは。私は天魔様直属の部下である、楓間だ。天魔様からの書簡をお渡しするため、天魔様直々に仰せつかった。」
典は暫し呆然としてしまった。天魔とは、妖怪の山のトップ、即ち天狗のトップである。そしてその直属の部下となると…大天狗より位が高いかもしれない。典は直立不動体勢になり、気を持ち直して答えた。
「て、天魔様直々の御命令でしたか。それは重要な事だと存じます…。しかし、申し訳ないのですが、生憎飯綱丸様は仕事のため留守にしておりまして…。」
すると楓間はいきなり笑い出した。
「はっはっは。飯綱丸に用があるなら職場で渡すさ。それに、普通なら飯綱丸を参上させる。」
確かにそうだ。典は納得した。しかし、それなら何故ここに。
相手は真面目な顔に戻り言った。
「じゃあ何故ここに来たのか、そう思ってるだろう?実は今日は飯綱丸ではなく菅牧典、君に用があってきたんだ。この書簡は君宛だ。だから飯綱丸が留守の時を狙った。」
「へ。私宛…?」
何故天魔様から手紙が来るのだろう。何かやらかしたのだろうか。そして天魔様直々に手紙が来るレベルのやらかしは恐らく尋常じゃないやらかしだろう。典は半歩後ずさった。
すると楓間は典のその考えを見抜いたのか、再び笑い出した。しかし先程のような豪快な笑いではなく穏やかな笑みだった。
「安心したまえ、典くん。別に君が何か悪いことをした、とかそういうわけではないと思う。天魔様も決して怒ってはおられないご様子だった。とはいえ、私も詳しくは分からない。一概にそうとは言い切れないが、そこは安心して良いと思うぞ。」
その言葉を聞いて、典は胸を撫で下ろした。心当たりがありすぎるからね、と典は内心舌を出していた。一体飯綱丸様の保身、或いは権力闘争の為に何人の人間、天狗を破滅させただろうか。管狐は本来、そういう生き物である。
「さて…茶でも淹れてもらおうと思ったが、私は用があるのでこれで失礼するよ。」
と言って、典の返事も待たぬ勢いで飛び去っていった。典はその後ろ姿を見ながら緊張が解けて体がほぐれていくのを感じていた。
するとその後ろ姿がくるっと振り返ったではないか。典の体は再び凍りついた。
「あ、そうそう。言い忘れていた。その書簡はくれぐれも早く読むようにと天魔様が仰っていた。そして……」
楓間はものすごい勢いで戻ってきて典に顔を近づけ、低い口調で、
「絶対に飯綱丸には、その書簡の内容、今日私が来たことを言うな、とのことだ………。」
楓間は顔を離すと
「それじゃあ、今度こそこれで。」
と言い、山の奥に消えていった。
今度は楓間が去っても典の体はほぐれなかった。