森の外
グレゴリオ。
その悪魔のなりそこないは、随分とこのあたりに詳しいようだった。
エクレールは不本意ながらもその悪魔と行動することにしたわけだが、それを観察しているとだんだんと不思議なことが分かってきた。
というのも、悪魔はずいぶんとお人好しなのだ。
いや、まだ少ししか一緒にいないのでそのような評価を下すのは早計なのかもしれない。しかしそれにしても過剰なほどにエクレールに気を使っているように見えた。
「貴方、そうやっていて疲れないの?」
「ああ、この本のことかい?大丈夫、これ外せないから。」
「……それのことじゃないんだけど。というか、だとしても答えになってないわよ。」
「あぁ、ごめん。えっと……こういう時はどういえばいいんだったかな。」
この間からずっとこんな調子である。どうにもやりにくい。
エクレールははじめ、この悪魔の親切さはきっと相手に気に入られて、何か悪事を働くための布石にでもしようとしているのではないかと疑っていたのだ。
しかしそれにしてはずいぶんとご機嫌取りが下手くそだ。それだというのに懲りないようで何度も話しかけてくる。
更に、気遣いが下手くそな割には随分と落ち着いていて、本気なのか冗談でぼけているのかわからない時がある。
本当にやりにくい。
「ねえ、貴方は一体どこに向かうつもりなの?森を適当に歩いてるようにしか感じられないのだけれど。」
「村に向かうんだ。」
「いつになったらその村とやらには着くのかしら?もう20日は経っているわよ?」
「あれ、もうそんなに時間がたっていたのか。」
「貴方、前に云ったこと覚えている?」
「何の話かな?」
「……あのね、村に着くまでどれぐらいかと訊いたら、貴方は3日もあれば十分と答えたのよ。」
正確にはまっすぐ進んで3日だったので、2日ほど洞窟を拠点に物資を集めていたためあの時から数えれば5日たったあたりで村につくはずだった。
あくまでも、この悪魔が言っていることが正しければ。
「ああ、そうだったね。」
「もしかして村に行くつもりがなかったのかしら?私をどこへやるつもり?」
エクレールは少し鎌をかけてみることにした。
「うーん。大体このあたりだったと思うんだけどね。」
「は?大体このあたりって、貴方ずっと森の中にいるのよ?村は森のはずれにあるっていう話だったじゃない。」
「いや、そうじゃないんだ。」
要領を得ない悪魔との会話にエクレールはうんざりしていた。20日もこんな調子では、天界ならば怠惰の罪で処されてしまうだろう。
「もう、いい加減にしてくれないかしら。私をだますにしてももうちょっとやり方があるんじゃないの……」
そう言ってエクレールがため息をつくと、何やら周囲の様子がおかしなことに気が付いた。
「ふう。今回はちょっとてこずったな。君がいたからかもしれないね。」
「え?」
エクレールは目をぱちくりとさせる。するといつの間にか周囲の景色ががらりと変わっていることに気が付いた。
小さな天使と悪魔モドキの少年は、古びた村にいた。
「……えっと。どういうことか説明してもらえるかしら?」
エクレールが尋ねるも、グレゴリオは村に着くなり道行く村人の方ばかりを気にかけていて、まるで話を聞く様子がない。
彼女は仕方なく、自分で疑問の答えを探すことにした。
周囲を見渡してみるが、特に変わった様子はない。何の変哲もない村。特に気になるところはなく、しいて言うなら少し貧乏くさいことぐらいだ。
村人たちは痩せこけていて、皆疲れた様子のものが多い。しかしそれを嘆いているような素振りの者は意外にも少なく、談笑する姿はどこか楽しそうにも見える。
建物は石造りのものが多い。随分と古いようで、端々は角が取れてごつごつとした曲線状になっている。崩れてしまった家も多く、点在する瓦礫の山に座る村民の姿がちらほらと見える。
石畳の道は村の奥へと続いている。日の傾き様を見るに、おそらくは西の方向だろうか。見渡す限りでは随分と資源が不足しているようだが、この道の幅はそれに見合わないほど広い。
悪魔モドキのグレゴリオは通りをまっすぐと進んでいく。明らかに村民たちとは格好も、種族だって違うわりには、堂々とした振る舞いだ。
一方で村民たちはそんなことを気にかける様子もなく、むしろ好意的に小さな悪魔に接している。
「貴方、この村にはよく来るのね。」
「ああ、そうだね。ここのところは森と村を往復しているけれど、普段はもっとほかのところにもいくんだよ。」
「へぇ……。」
前方に見えるのは村の中央だろうか。
見るからに集会場らしき円状の広間の手前まで来た。歴史を感じられる装飾や壁画の彩る湾曲した壁が、広場の向こう側を仕切っている。
エクレールたちが立つ手前側には同間隔に円柱が立ち並び、丸い広場を囲っていた。
広場の中央には一人の女性が立っていて、彼女の周りを幼い人間が囲んでいる。
「やあ、ルィーリーさん。」
「……あら?悪魔さんじゃない。ごきげんよう。」
「ごきげんよう!悪魔さん!」
「悪魔さん!今度はどこに行ってきたの?」
グレゴリオが声をかけると、彼らはすぐにこちらを向いて元気よく挨拶をした。
悪魔に対する態度らしくない、随分と朗らかな様子だ。
「紹介するよ。彼女はエクレール、見ての通り天使さんだ。」
「え、ちょっと。」
エクレールの横で、悪魔は手をひらひらさせて子供たちに愛想を振りまいている。
「わぁ!てんしさんだ!」
「お羽触らせて!」
「頭光るの?みせて!」
ふと気が付くと子供たちがエクレールを取り囲み、口々に話しかけてくる。
「あらあら。天使さんが困ってるわよ。みんな~順番にしましょうね。」
エクレールはひどく困惑していた。
下界とはこういうものなのだろうか。そもそもこちらの大地に生きた天使が来ることなど多くはない。現職の天使たちは天界からは出ることがないし、ましてや罪人はそのほとんどが地上に落ちた衝撃で命を落とす。彼らがこの地に残す痕跡と言えば、彼らが自然現象と呼ぶ様々な出来事と、流星の落ちた跡のような地面の染み程度。
人間は自分たちの理解できないことをひどく恐れる生き物だと聞いていた。それ故にエクレールはこの現状が理解できないのだ。
「ほら、君からも何か言ったらどうだい。」
グレゴリオは暢気なもので、子供たちに対し、自慢げに彼女のことを見せびらかす。
「えっと。私はエクレール。その、少し前に天界から降りてきた天使よ。」
子供たちははしゃいでいる。
「ルィーリー。前に言っていた話の件、彼女に任せてみるのはどうかな?」
「それは……。」
悪魔もどきの少年はいたずらっぽく笑った。
一方のエクレールは子供たちに群がられてしまい、身動きが取れなくなっていた。その為、小さな悪魔が笑ったことには気づいていない。
「きゃ!羽さんがくすぐったいよ~。」
「ねえねえ!僕にもやって!」
「お羽がふわふわ動く!」
「ちょ、ちょっと貴方たち……私はおもちゃじゃないわ!」
エクレールは助けを求めるようにグレゴリオの方を見た。しかし案の定、彼はエクレールの方を向くことはなかった。
代わりに、彼の隣にいた女性……ルィーリーと呼ばれた彼女がエクレールの訴えに応じた。
「一度皆さんで修道院に向かいましょう。お二人は長旅でお疲れでしょうし。」
「助かるよ、ありがとう。」
小さな悪魔はルィーリーに礼を告げる。エクレールもまた頭を下げた。
「少し狭いところですが、どうぞおかけになって。」
ルィーリーに案内された場所は、このあたりでは珍しく、目新しい木造の建物だった。
天井は高いが、敷地自体はそこまで大きくないのか、礼拝堂としては狭いように感じられる。
ステンドグラスはかろうじて空より降り注ぐ無限光を描き出しており、その光が照らす大地には祈りを捧げる五人の使徒が確認できた。
どうやら由緒正しき灯の信仰を守っているらしく、このルィーリーは礼拝堂内での振る舞いやその身なりから察するに修道士のようだ。
彼女についてきた子供達は皆行儀よく席についている。どこかそわそわとしている子供もいるが、落ち着きがないというよりはルィーリーが戻ってくるのが待ちきれないといった様子で、彼女がよく慕われているのがわかった。
エクレールとグレゴリオもまた、礼拝堂に置かれた長椅子の1つに腰掛けてルィーリーが戻ってくるのを待っていた。
子供達の囁きが聴こえ出した頃、ルィーリーは大きな盆を抱えて戻ってきた。それを見た子供たちはさっと背筋を伸ばし、彼女の後を目で追った。
「さあ、お茶の時間にいたしましょう。」
『はぁーい!』
子供達の元気の良い返事のあと、修道女は1人ずつ、カップとケーキを手渡していく。
彼女はエクレールとグレゴリオにもしっかりと用意してきたようで、朗らかな笑顔でそれらを手渡してきた。
「どうぞ。」
「ありがとう。ルィーリー。」
「ありがとう……ございます。」
エクレールは初めて手にするケーキと紅茶に目をパチパチさせた。
それらは天界で見聞きしたものと比べると随分質素だったが、彼女にとっては初めて手にする実物だ。そこに貴賤の区別などない。
「これ、とても美味しいんだ。」
「……そう。」
グレゴリオはすでにケーキを頬張っている。その顔は悪魔に似つかわしくなくそれはもう随分と幸せそうだ。
周りを見渡すと、子供たちもまた同じような顔をしていた。
恐る恐る、しかし好奇心をおさえられない様子で、エクレールは一口、そのケーキを齧る。
「えっ!?」
「驚くほど美味しいか。ロモの実を使っているから甘いのだよ。」
甘い。その言葉の意味を初めて知った。
エクレールにとって知識でしかなかったその言葉は、たった今息を吹き返したように彼女の舌の上で踊りだす。
「これが……あ、甘い。」
彼女にとって、これが初めて食事を楽しいと思った瞬間だった。これまでエクレールにとって食事というのは、あの雨水をすするような感触しかしない果実の硬さばかりが続くものだった。それと比べればこのケーキはあまりにも食べやすかった。
だけれど、少しだけ口が渇くわね。エクレールはそう思った。
ふと、手元にあるもう1つの物体、湯気を立てるカップに意識が向いた。
自然、彼女はそのカップに注がれた赤色の液体に口づけをする。
一瞬、柔らかいものに触れたかのような香りが鼻腔へ押し入ってくる。エクレールは驚きこそしたものの、水分を求める口は正直なもので、その温かい紅茶を受け入れた。
何の抵抗もなく、その渓流は彼女の喉を伝い、胃の中へと納まった。それらすべての動作はエクレールにとって赤子の手をひねるよりも易いものだった。
衝撃だった。いつも喉を圧迫する硬い果実の破片たちは、記憶の奥へと追いやられている。あの水の生臭さの記憶も、この紅茶の前ではその片鱗すら見せない。
「いつも私が食べていたのって……。」
「ああ、よくもまあ生のモゴの実なんてものを食べていたね。あれはそのあたりの家畜のえさにすらなりやしないっていうのに。」
「……あなた、知っていたのならとめなさいよ。」
「いや、あればかり食べているからてっきり好物なのかと思ったんだが。」
「知らなかったのよ。」
エクレールは不満げに言った。
するとそこへ丁度ルィーリーがやってきた。
「えっと、天使さんのお口には合いませんでしたか?」
「いいえ!そんなことは無いわ!」
エクレールは否定したが、ルィーリーの表情は晴れない。この悪魔に対して憤っていたとはいえ、自分はそんなに不満げな顔をしていたのだろうか。
しかし面倒なタイミングが重なった。そう思いながらもエクレールは彼女への説明を考える。
「えっと……その、私実はこんなに甘い?ものを食べたことがなくて。というかそもそも甘いっていうものが何かを知ったのが初めてで。」
「苦労していらっしゃったのね……。」
「いえ、その……まあとにかく!自分がこれまでに食べていたものの味気なさに少しがっかりしていただけです。」
エクレールがそう言うと、ルィーリーは少しだけ表情を明るくして、よかったぁ。とつぶやいた。
「いやぁ、彼女ここに来るまではずっと、モゴの実をまずいと知らずにひたすら食べていたものだからね。そりゃあこんな顔にもなるさ。」
グレゴリオは暢気なことにのほほんと笑っている。
エクレールは今すぐにでも悪魔を拷問する呪文を唱えてやりたかったが、ルィーリーのいる手前、その考えを切り捨てた。
「ごちそうさま。さて、それじゃあ本題に入ろう。」
「ええ。そうですね。」
小さな悪魔と修道女は頷いてエクレールを見つめる。
「えっと、何のことかしら?」
「ああ、私から少し説明させていただきますね。」
困惑するエクレール。小さな悪魔は相変わらず何を考えているのかわからない目をしている。
そんな二人の前で、ルィーリーは深呼吸をして、ゆっくりと語り始めた。
「貴方に、聖女を殺していただきたいのです。」