硬い大地
天使は酷く狼狽した。
大地に落ち、剛健な重力にぶつかった頭蓋は、一度地形の破壊を伴って破裂した。しかし、彼女の体に残った加護――呪いは死を許さず、再び視界が戻った後、彼女は下界の景色を目にすることとなった。
そこには草木があり、土があり、山があり、森があった。地上は極彩。そのすべてが天使の脳を暴力的に彩った。かつてない彩度に、エクレールは目をちかちかさせていた。かつて過ごした天界には色がなかった。そこにあったのはほとんどが純白の聖地だったのだ。
天使の知識とは神から与えられるものであり、実体験として下界に降りたことのない天使にとってこれは未知同然のものであった。
地に落ちた天使エクレールが始めに考えたことは、空腹をどうにかする方法だった。天使として生きてきた中で空腹など感じたこともない。今彼女は生まれて初めて枯渇と飢えの危機というものを味わった。
幸いにも、彼女にはかつて天界で見聞きしたもの記憶が残っていた。たとえ神がすべてを知る全知の権利を彼女から奪い去ったとしても、かつて得た知恵までは奪わなかったようである。
兎角、食料がなければ話にならない。幸いここは森林で、食料は豊富だった。
今の彼女は人間も同然の体をしていた。そのため人に食せないものは、同じように食すことができなかった。毒のある植物などにはよく注意を払わねばならない。死ねない体であろうとも苦痛は感じるのだ。かつて天使として数多の苦難を乗り越えてきたエクレールとて、いたずらに苦しむ結果を生むような行動をとる気にはなれなかった。
食べ物を求め少しばかり歩き、森を見渡して見つけたのは、豊満さで枝を大きくしならせるほどの朱や橙の果実だった。頭上になった木の実を取るために、彼女は奮闘した。木の幹にしがみついて伸びた枝の先にぶら下がる朱色の果実に手を伸ばす。
目と鼻の先にある木の実を落とすため必死になるがあまり、目が酷く霞む。しかしその努力も実って、ようやく枝ごと木の実をむしることに成功したエクレールは、無我夢中で苦い木の実にかじりついた。
実のところこのあたりの木の実について、人間たちからはひどくまずいことで有名だった。あまりのまずさに人間はおろか、動物ですらめったに食べることがない。故にこの木の実はそこら中に生っていた。エクレールは食べ物を口にしたことがなかった為に、そのまずさの何たるかを知ることは無かった。ただ顔をゆがめて、物を食すことの息苦しさを水っぽい果実とともにかみしめるだけだった。
そんな日々がしばらく続いた。具体的には三度ほど、太陽と月が入れ替わり、その間彼女はその果実を貪りながら森の中を移動した。
星の導きに従って、ただ北へと向かっていた彼女に、明確な目的などはなかった。大地の北の端までたどり着けば、彼女を迎え入れてくれる何かがいるのではないかという予感があった。彼女はかつて天界で知った大地の北端に住むという賢者を頭の中で浮かべながら、そんな希望を信じていたのだ。確証はなかったが、一度訪れてみてから再度考えればいい。幸いと言っていいのかはわからないが、時間だけはそれはもうたっぷりと用意されていたのだから。
彼女はこの三日ほどの生活を通してだんだんと下界にも慣れてきていた。自由とは彼女が言葉で知っているほど自由なものではなかった。それは全ての保証が亡くなった世界。生きることを強制されない世界。生きたいならば生きるための努力を強いられ、常に失うことを経験し続けなければならない世界。
彼女は、命の奴隷になったのだ。
しかし不思議なことに不快感は感じなかった。これが正しいことなのだと彼女は納得していた。それが罰を受けているという意識の元に生まれた意思なのか、はたまた世界の根幹にある秩序への恭順か、それは本人にもわからなかったが、とにかく今は難しいことを考えている場合でもなかったため多少の疑問は無視した。
そんなこんなで、今日も手ごろな洞窟を見つけ、にわか雨をしのぎながら寝床を整えていると、雨の音に雑じって何かの足音が聞こえてきた。
エクレールは天から落ちてきて此の方、虫やとかげといった小さな生き物には会ったことがあっても、自分のようにビシャリ、ビシャリと云う足音を立てて森を進むような動物には会ったことがなかった。自然、彼女の表情には緊張がはしる。
「そこにいるのは誰だ?」
声が聞こえた。
見上げると洞窟の入り口に、なにかがいた。
それはひどく雨に濡れ、人のような風貌で大きな本を背負っていた。真っ黒な髪は水が滴り白く光を反射している。
そのとき、エクレールはその存在の頭の上に2つの黒いとげのようなものが浮かんでいることに気が付いた。エクレールは反射的にその人影に飛びかかった。
「なんだ!なにをする!」
それはいきなり飛びかかってきたエクレールに驚き、”それ”はとっさに身をよじって躱そうとした。しかし雨で重くなったその体は稲妻の如き天使の素早さに勝つことはできなかった。
洞窟からはじき出された二人は雨で緩くなった地面に叩きつけられ、泥をまき散らしながら格闘戦を始めた。
「ぅうう!うああ――――!」
「言葉がわからないのか?くそっ!」
エクレールは言葉がわからないのではなかった。ただ、しばらく使っていない声帯ではうまく言葉が出せなかった。
エクレールにとって目の前にいるのは悪魔以外の何者でもなかった。天使にとって悪魔は永遠の仇敵。それを見つければすぐさま飛びかかり、命を奪いにかかるのに何らおかしなことはなかった。
「おまえは堕天使だろう!それなら僕を殺す理由はないはずだ!」
目の前の悪魔は必死に叫んでいたが、エクレールはそんなことには構いはしない。こんな生き物となれあうぐらいならいっそ死んだ方がましだった。まあ今は死ぬことができないのだが。
二人はしばらくの間、髪の毛を引っ張り合ったり拳をぶつけ合いながら戦っていたが、次第にエクレールの方が劣勢になっていき、ついには腹が減って注意が散漫になった彼女の頭へと、悪魔の背負っていた大きな本による鈍く重たい一撃が襲った。それを喰らった彼女はしばらくふらふらとその場を歩きつつ、うわごとを繰り返し、やがて気を失ってパタリと地面に倒れた。
次に目が覚めると、エクレールは森で見るものの中でもひときわ大きな木の幹に、鎖でぐるぐる巻きにされていた。どれだけ体をよじっても指一本動かせないようにわざわざ固定されている。
「うわ。起きた。」
目の前には黒髪の少年の姿をとったあの憎き悪魔がいた。エクレールは今できる精いっぱいの抵抗、両の目を見開いて8つ裂きにせんとするほどの殺気を相手に叩き込む。
エクレールの様子に悪魔はたじろぎ、鎖の端を握る手に力が入る。
「■■■...」
体が動かないとわかったエクレールは、ただ一言、つぶやいた。
「うっ……ぐぁ、ああああああああああ!」
エクレールのつぶやきは、それだけで非常に大きな効果をもたらした。目の前の悪魔は頭を押さえてのたうち回り、必死に苦しみから逃れようとしている。
この呪文は天界に伝わる悪魔を縛り付ける神の言葉であり、それを直接耳にした悪魔はひどい頭痛にさいなまれる。そして呪文が効果を発揮したことが目の前の生き物が邪悪な悪魔であるということの証明でもあった。
それにしても本当に痛いものだ。今や神の敵対者というレッテルを張られた堕天使のエクレールにとっても、この呪文は実にいい仕事をしてくれる。
まさか自分の呪文が自分に牙をむくとは思わなかったエクレールはあまりの痛みに一瞬だけ顔をしかめた。
「あなたは悪魔。」
「うぅ、そうだ。僕は悪魔だよ。」
彼の言葉にエクレールは目を見開いた。本来、意識を保つことすら難しいはずの呪文の力を受けてなお、会話をすることができることに驚いたのだ。
「あなたは一体何?呪いに対抗できる悪魔なんて限られているわ。見たところ名のある悪魔には見えないけれど。」
「そう……だろうね。僕は悪魔でも、少し違う。悪魔のなりそこないだから。」
悪魔のなりそこない。その言葉を聞いて、エクレールは訝し気な表情をした。
「どうかこの呪いを解いてくれないかな。僕に弁解の機会をくれないか?」
エクレールは目の前の奇妙な生き物に少しだけ興味があった。それは天使として生きてきた中でも他に例を見ないもので、知っておくのに損はないと思ったからだ。
しぶしぶ、呪文の効果を打ち消し、エクレールは静かにその悪魔のなりそこないを見つめた。
「ありがとう。ではこちらも君の拘束を解くことにするよ。」
悪魔のなりそこないはすんなりと鎖を解いた。先ほどの態度と比べ、あまりに警戒心のない様子にあっけらかんとしながら、エクレールはその場にへたり込んだ。
「僕は悪魔になるはずだったんだけれどね。どうやら悪魔になるにはちょっと臆病すぎたみたいなんだ。というのも悪いことをする勇気がなかったんだよ。いいことをする勇気もなかったんだけれどね。」
悪魔は自己紹介ともとれるそんな説明をして、エクレールに手を差し出してきた。
エクレールはそんな悪魔の手を見つめたまま、こういった。
「……名前は?」
悪魔のなりそこないは答えた。
「名前はないんだ。」
そう……とエクレールは言って少し考えこんだ。
そしてこういった。
「じゃあ、グレゴリオ。」
「ん?」
「あなたの名前。だって、名前がなくては呼びにくいでしょう?」
すると、その少年は小さく頷いた。