天獄の門
それは寒い雪の日のこと。
カエルムには其の大いなる神の声が響きました。
神託を聞届けし天使たちは、彼方此方へ忙しなく駆け回り、其の速さまるで流星の如し光線を空気の中に刻んでしまうほど。年の瀬の近い頃なれば、天界と言えどそれはもう仕事の多いことに限りがありません。
白く染まった雲の上は、まるで雪原のようでありました。
まるで、と言ったのは、それは雪が降ってできたものではないのですから、ここではそう断っておくほかないでしょう。なにせここは雲の上。見上げても空には空気の青と、地上から見えるより一層に光を放つ太陽しかありませんからね。
雪原のような雲海……雪を降らせるのはそう、他でもないこのカエルムの大地なのです。
下界にとって見ればこのカエルムは空を悠々と飛ぶ巨大な雲に見えたことでありましょう。
さて、白い雪原の隅に、くすんだ模様の雷雲がありました。
その雲の中はしとやかな雪などあったものではありません。轟音と叩きつける雹はまさに天災と呼ぶに相応しいものでした。
おお、なんと恐ろしいのでしょう!そこはカエルムにおける一種の牢獄です。正確には、罪を犯した天使たちが沙汰を待つために用意された、一時的な勾留所と言ったところでありましょうか。ここの天使たちはいずれ翼を折られ、与えられし恩寵や権能と一緒に体中の皮膚を剥ぎ取られて下界へと突き落とされる運命にあるのです。
雷雲の一角。独房に繋がれた天使たちの中でも一際大きな翼を持つ美しい天使がいました。
その天使はよほど大きな罪を犯したのか、ひどく傷つき、やつれている様子です。しかしその目には依然として絢爛な輝きを湛えたままでありました。
さすが天使とあってその風貌は傷ついてもなお輝きを失うことはなく、彼女の髪は黄金の園にある枝葉の如き麗しさでした。
その天使は熾天使と言って、かつては天使たちの長を任されていた大層な位の者でありました。
それがなぜこうして鎖に繋がれているのか、カエルムでせっせと働く天使たちの殆どは知らないでしょう。
彼らが知っていることは、これからかつての仲間であったこの熾天使を処刑するための準備を、丁度今自分たちが行っているということでしょうか。
あるいはそのことすらも知らないかもしれませんが……とかく処刑は刻々と迫っているのだというのは疑いようのないものでした。
さて、カエルムにあるひときわ高い雲の塔から大きなラッパの音がなりました。
天使たちは整列し、雷雲に取り付けられた重厚ながらその表面に繊細な装飾を施された牢獄の扉が開きます。
その時ひときわ大きな稲妻が奔りました。その光は雷雲の監獄を飛び出してカエルムを一周すると、ラッパより何倍も大きな音を響かせました。
まるで空が怒っているようでした。
天使たちは口々に言いました。
「なんて恐ろしいのでしょう。こんな不吉なものは早く下界に堕としてしまえ。」
そうして、雷雲に飲み込まれていた罪人たちが一人ずつ、列になって真っ白なカエルムの大地を歩かさせられます。
列の最後にはあの大きな翼の熾天使がおりました。その目には今も稲妻のような光が息づいていましたが、彼女の足取りはどこか苦しそうで、一歩一歩に悲痛な力が込められているように見えました。
さあ、列は短いというほど早くは終わりませんでしたが、長いと言うには少し足りないぐらいのものでした。
罪人たちはそれから半刻ほど歩き通し、ついにカエルムの真ん中にある、下界への門にたどり着きました。下界の門は大地にポッカリと大穴を開けて待っておりました。門番の天使が罪人たちを迎えました。
「さあ、罪人に門を囲わせろ!処刑の始まりだ!」
罪人たちは丸い門をぐるりと囲み、ついに処刑の始まりが宣言されました。
天使たちは彼らを更に外側から囲い、今か今かとその時を待っています。
やがて、太陽が空高く、カエルムの真上に来たときでした。
神様の声が響きます。
「「私の愛する天使たち。此のカエルムは偉大なり。私の愛する天使たち。裏切り者はどこにいる?ネズミは見つけて喰いなさい。悪魔は捕えて火をつけろ。」」
先程までお祭りの熱に浮かされていた天使たちはその場に跪いて神への祈りを捧げました。
罪人たちは拘束された腕をよじりながら地に這いつくばってミサを唱えました。
「「罪人の翼を折れ。使徒の証に杭を打て。加護は呪縛となりて業苦を与えん。」」
神がそう唱えると、罪人たちは地面に横たわったまま悲鳴を上げ、拘束されたままのたうち回りました。
みるみるうちに彼らの体は小さく、みすぼらしくなっていき、ついには人間とほとんど変化のない姿になってしまいました。まとっていた神々しさも、内から溢れる神聖な力も残ってはいません。
苦しそうに涙を流し、体中から血や汗を流し続ける彼らは罪人とは言えどあまりに哀れな姿でした。
一方でそれを取り囲む天使たちは随分と楽しそうでありました。神の御前にあるため、はしたない態度はご法度でありましょうが、祭りの熱気は彼らを狂わせるには充分すぎたのです。
処刑の儀も終盤になりました。
ついに、罪人たちにかけられていた枷が外されていきます。
天使たちに引き摺られながら門の縁までやってきた罪人たちは、その体を地面に強く押し付けられてどんどん力をはがされて行きます。やがて彼らは、やつれて力の入らなくなった体を一度ブルリと震わせ、それを最後にぐったりとしてしまいました。
しかし、そんな中にあっても一人だけ、毅然としてその高貴さを失わないものがありました。
「「……熾天使エクレール。あなたは素晴らしい天使でしたね。それがこのようになるとは残念です。」」
神は彼女にだけ声をかけました。
しかし声をかけられた本人はそれに応えることはありません。
それでも神は話を続けました。
「「貴女には素晴らしい加護があります。これは剥がそうとしても剥がせない、とても強く素晴らしいもの。ですからあなたにだけは封印を施しました。ああ、それとは別にもう1つプレゼントも用意しましたよ。それは、不朽の呪いです。」」
その言葉が上から伝えられると、大はしゃぎだったカエルムの天使たちは皆口をつぐんでしまいました。
挙げ句にはその場でガタガタと震えるものもおりました。
不朽の呪いとは、決して精神が腐らない呪いのことです。どれだけ身体が朽ちようとも、心はずっと残り続けます。何があっても消えることができないのです。
本来、魂は死ねば神の揺り籠へ還り、浄化されて再び新たな生を受けます。これがもしいつまでも浄化されなければ、魂は汚れを受け続け、最後には壊れてしまいます。
不朽の呪いは魂をぎりぎりのところで生きながらえさせる呪いです。つまり、壊れる寸前の苦しみを永遠に与え続けるということなのです。
カエルムには異様な空気が流れました。神への畏怖か、与えられた罰への純粋な恐怖か。
ですか当の本人、熾天使エクレールはそれでもなおその目を曇らせることはありませんでした。
今のエクレールはただ凛としてそこにあるだけの、美しき人の少女にほかなりませんでした。
「「これまでよく働いてくれました。さあここでお別れです。……罪人たちを前へ。」」
神の呼びかけで、まるで銅像のように固まっていた天使たちは再び息を吹き返しました。
そして地面に押し付けていた罪人たちを無理やりその場に立たせ、今にも門から落ちるかというところまで持っていきました。
「「さようなら、愛しい我が子たち。」」
別れの言葉が告げられて、物見やぐらの天使がラッパを高らかにならしました。
カエルムには突風が吹き荒れ、その風によって罪人たちは大穴に突き落とされます。
カエルムの下には何層も重なった分厚い雲が覗いています。その中を罪人たちは真っ逆さまに落ちていくのです。
それはさながら、流れ星のようでした。
落ちていく罪人たちの悲鳴は、カエルムにある下界への門が閉じられることでピシャリとやみました。
天使たちは処刑などまるでなかったかのようにいつもどおりの振る舞いを始めます。
冬はまだまだ始まったばかり。これからうんと忙しくなります。
そうして今日も、天使たちはせっせと主のため働くのです。
カエルムに冬が訪れた。
「「今日も世界は平和です。そうあらなければならぬ故。」」