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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

大切なあなた、必要なあなた

空白の7階、もっと空っぽなその上の階

作者: 波多野道真

好きだと思う人を抱くのは初めてだったかもしれない。

雑居ビルの7階にその店はある。

真っ赤な扉を開けると、美しいドラァグクイーンたちが出迎えてくれる場所。


「ジュン、よく来たわね」

最初はそう言われて可愛がられていた僕だけど、今はこの店のボーイとして働いている。

表向きは。

「…J、あなたのお客様よ」

「ようこそお越しくださいました」

僕はその客に微笑む。

手を取って上の階にある部屋へ移動する。

僕の仕事部屋は白いシーツのかかったダブルベッドが一つ。


「どういうのがお好みですか?」


それが、男でも女でも。若くても老いていても。

お金を払ってくれる人に身体を差し出す。

僕は男娼だ。


「あっ…!ああんっ…!」

今日は女性だった。若くは無いけれど、慎ましやかで、とても男を買うとは思えないような人。

僕を買ったくせに、何でそんなに控えめなんだ。

あの人を想い出す。

忘れてしまいたいのに。


そういえば、僕はあの人を抱いてから、誰と寝てもあの人を思い出す。


ベルトを腹の下でしか締められない中年男に後ろからハメられていても、僕と同じ年ぐらいの男女が刺激が欲しいと3Pを要求してきても、店のスタッフが休日に素顔でやってきて、気まぐれに僕を抱きたいという時も。

いつも僕は、あの人の匂いや、髪の流れる方向や、声や肌の感触を想う。



「J!今日はもう上がり?」

「はい、キャサリンさんお先です」

余所余所しい会話をしているが、キャサリンは僕と住んでいる。

というよりも、僕がキャサリンに飼ってもらっている。一緒に住んでいるというよりも、飼ってもらっていると言った方が的確だ。

キャサリンは店での名前で、彼はヤスアキという男性だ。

けれど、もう彼は男の姿に戻ることをよしとしていなくて、普段から女性の外見で暮らしている。


キャサリンは、僕をこの店に連れてきたユウイチ兄さんの友達だった。

「お前、俺に何かあったらこいつに面倒見てもらえ」

そう言ってユウイチ兄さんは半年後に失踪した。

親もおらず寄る辺が無くなった僕はキャサリンを頼って赤い扉を開いた。

「…全く、嫌な予感はしてたのよ。ユウイチはノラ猫みたいなもんだから。あの子がそういう時は大体いなくなる時なの。多分またふらっと帰ってくるわ。じゃ、うちに来なさい」

キャサリンはあっという間に店のママにも話を通し、僕はボーイの仕事と住処を手に入れた。



「…ジュン、先に帰るならチーズ買っておいてくれる?」

キャサリンがこっそりと耳打ちしてくる。

「了解」

いつもの買い物だ。世話になっている以上、いうことは何でも聞くようにしている。

あの人のことを思い出すこと以外は。


「ねえ、キャシー、今日したいよ」

僕よりも2時間遅く帰ってきたキャサリンの横に座り、彼女の長い銀色の髪を指に巻き付けて僕はねだった。

「…ジュン、何かあったの?私にねだる時は大体何かあった時でしょ…?今日は何人取ったの?」

座面の広い皮のソファーに身体を沈めて、やっと家に辿り着いた、という風情で寛いでいるキャサリンは、僕が買ってきたチーズとクラッカーをつまみながら、ジンジャーエールを飲んでいる。

「ワイン持ってこようか?」

僕は質問に返事はせず、仕事で飲んできたキャサリンをもっと酔わせたくて、そんなことを言う。抱かせてほしいから。

今日は一晩で3人を相手にした。

慣れてはきたが、それでも、最後の相手の肌触りが残って気持ちが悪い時がある。

「いつの間にかほんとに悪い子になっちゃったのねえ…。ねえ、そういう事はサトシとしなさい、って言ってるのに」

サトシは僕と同じボーイで、そして男娼をしている。同職種の同僚だ。

彼とも何度も寝たことがある。

仕事のストレスを解消しあう、という名目で。確かに彼との行為は悪くない。

しなやかな彼の身体は僕を簡単に快楽に導く。

でも。

「今日は、キャシーがいい」

「アタシもう疲れてるんだけど…勉強はもう終わったの?」

「うん」

キャサリンの大きく膨らんだ胸に顔を埋めた。

高級な香水の香り。彼女はそこら辺の女の人よりもとても女性らしい。

「…作り物の身体のどこがいいのよ…全く困った子ね」

彼女が僕の髪をゆっくりと撫でる。

諦めたキャサリンは僕を受け入れた。


多分キャサリンは気づいている。

僕があの人の代わりに抱いていることを。

以前ローションを溢れるほどたくさん使った時に言われた。

「どんなにローションを使って濡らしても、私は女じゃないのよ」

それでも明け方まで抱きしめてくれて、安心して腕の中で眠れるのは、今はキャサリンだけなのだ。

「好きだよキャサリン」

「私もよジュン」

形式だけの言葉のやりとり。

それがどれだけ今の僕の慰めになっているだろう。

「早く、忘れられるといいわね…いや、そんなこと言ったら、酷ね…」

僕が眠りに落ちる前、キャサリンがそう言った気がした。




あの人に出逢ったのは、客を取り始めて3か月経った頃だった。

段々とこの仕事にも抵抗がなくなり、こういうものだ、と慣れてきた頃だった。

「J、あなたのお客様よ」

これが合言葉となり、連れてこられた客を上に連れて行く。

今日はどんなお客だろうか。

派手なドラァグクイーンの隣には、この店には全く似つかわしくない年上の女の人が立っていた。

どこかの小さな子供のママみたいじゃないか。どうしてこんな人がここに。

こういう太陽の光が似合うタイプの人は初めてで、僕は動揺した。

彼女と目が合うと、何を言われたわけでもないのに、自分がやっていることを咎められている感じすらした。


「…どうぞ、こちらです」

彼女の手を引いて階段を上がり、部屋の扉を開く。

彼女は僕の手を握り返すこともなく、掴まれるがままにしていた。

好きな感触の肌だ。良かった。

「あ、ソファでも、ベッドでも好きなところに座ってください」

僕は勝手がわからないだろう彼女にわざわざそんなことを言った。

「…はい」

小さく彼女は返事をして、ソファに座った。

この次は、いつもなら、どんなやり方が好きですか?って訊くけれど。

「どうして、こんなところに来たんですか?」

そう訊いてしまった。

僕が出した言葉は、お金を払ってもらって来た客に対して失礼だったと思う。

けれどそう言いたくなるぐらい、彼女はごく普通の女の人だった。

僕を買う理由があるように思えなかったのだ。不自然すぎる。

いきなりの質問に彼女は息を飲んだ。

長い沈黙のあと、俯きながらこう言った。

「…夫の、命令です」

「え?」

「夫が、男を買って来い、そして証拠を持ってこい、と…」

最後は涙声になっていて、彼女は泣いていた。

この人のパートナーは何て変態なんだ。

「証拠って…?」

領収書やレシートでも出せって言うのか。

「か、身体に、跡を…」

残酷だ。

他の男に妻を抱かせて、その跡に興奮して、きっとこの人を抱くんだろう。

こんなまともそうな女の人を。

「…泣かないで」

僕は彼女の隣に行って肩を抱き、ティッシュを差し出した。

まっすぐにブローされた髪。

桜色のリップが引かれただけみたいな薄い化粧。

清潔な洗剤の香り。

彼女のどれもこれもがこの部屋には全くそぐわないけれど、香りを嗅いだ時に僕は初めての感覚に襲われた。

この人を僕のものにしたいな。

跡だけ付けて返してもいいけれど、僕はこの人を抱きたい。

「優しくしますから、心配しないでください」

「あ…」

僕は彼女にキスをした。思った通りだ。僕の好きなタイプの唇と舌。


初めて恋人を抱く時みたいに、僕はその人を丁寧に抱いた。

好きだと思う人を抱くのは初めてだったかもしれない。

初恋のあの子とは、最後までいかなかった。僕が街を出たから。

3か月で何十人も誰かと寝てきたのに。

僕は、好きな人を抱いたことが無かったということに気づいた。


彼女は僕よりも年上なのに、おどおどと僕に応えた。

身体の硬さが取れるまで、ゆっくり時間をかけることを僕は厭わなかった。

この人の甘く柔らかい声が聞きたかったから。

「…ありがとう。私、初めてです。痛かったり怖かったりしなかったの」

「それなら良かったです」

彼女の白い肌には、強く握られた跡が残っていて、肌が黄緑色にところどころ変色している。夫からどんな抱かれ方をされているのかは容易に想像がついた。

信じられないよ。

こんなに気持ち良くなれる柔らかい肌を持っている人なのに、乱暴に扱うなんて。

だから、僕は赤い跡をたくさん散らせた。

彼女がそれを見た時に、僕と気持ち良かったことを思い出せるように。

「ご利用ありがとうございました」

名刺を渡す時に、僕はそこに自分の携帯番号を書いた。

予約は店と窓口の人間を通してしているから、名刺には名前と店の電話番号だけだ。

「良かったら、また来てください。僕に直接電話してもらってもいいので」

「Jさん…」

彼女は名刺を見て僕の仕事上の呼び名を呼んだ。

次来たときは、ジュンって呼んでもらおう。もし次来てくれたら。

「あの、あなたの名前は…?」

常連でもない限り、プレイ上必要じゃない限り、名前なんて訊かない。

「あ…ミキ、です」

僕みたいな男に素直に名前を教えてしまうなんて。

本当にこの人は昼間の人なんだ。

ふと、気になったことがあった。この深夜の繁華街からどうやって帰るんだろう?

「ミキさん、どうやって帰るんですか?」

「あ、タクシーでも拾います」

「迎えに来てもらえないんですか?この辺りは物騒だから」

「今夜は…夫は夜勤なので、朝にしか戻りません。いたとしても、迎えには来てくれないかも…」

彼女は苦笑いをした。

「僕、送りますよ」

「え?いやそれは」

彼女をじっくり抱いたから、退勤の時間はとっくに過ぎていた。

「僕もこの後は帰るだけなので」

たまにアフターをすることもある。その体で送れば問題ない。

僕は彼女から離れたくなかった。


「乗ってください」

僕はボーイだからアルコールを飲む必要はない。だからいつも車で通勤している。

何十人も抱いて稼いだ金で買った車。

「あの、ほんとにいいんですか?」

「どうぞ」

僕は笑顔で返した。

「すみません…」

さっきまで裸で二人で声を上げていたとは思えない距離感だ。

「ミキさん、」

「はい?」

車を出す前に我慢できなくて、彼女にキスをした。

「怖がらないで。僕は酷いことしないから」

僕がこうやってがっついていること自体が彼女は怖いかもしれないのに。

「…ありがとう、Jさん」

ミキは僕の不安に反してふわっと微笑んだ。

「ジュンでいいよ」

「ジュン?」

「うん、僕の名前は、ジュンヤ」



車を出した後向かったのは、彼女の家ではなくて、モーテルだった。

ミキの夫が帰ってくるという時間、夜明けの直前まで僕らは愛し合った。

初めて深く達した時の彼女の顏は忘れない。

生まれて初めてこんな風になったとミヒは言った。

僕しか知らない顏。

彼女の夫も知らない、甘くとろけた顔と声。


初めて会ったその日に、僕たちは渡ってはいけない橋を簡単に渡ってしまった。

男娼と客、夫がいる人。

そんな事は僕たちには何の意味もなさなかった。




それからというもの、後で泣くんじゃないわよ、うちを使ってもいいけど、自分の部屋のベッドでやりなさいね?とキャサリンに呆れられながらも、僕はミキとの逢瀬を続けていた。

つきあい始めて2か月になろうかという時だったろうか。

ある日、彼女が酷く殴られて顔を腫らしていたことがあった。

「どうしたの…?」

「殴られちゃって、あの人に」

僕は、ミキを抱きしめ、そっとキスをした。

「ジュンヤ…」

「何…?」

「もう、私たち、会わない方がいい」

「どうして?!」


あんな黄緑色の跡をつける男が、妻を殴る男がマトモなわけはないのに、僕はまだ男の嫉妬や所有欲を甘く見ていた。

自分がどれだけミキの夫に嫉妬するのかを、彼女を自分のものにしたいと強く望んでいるのかを考えたらわかる事だったのに。

ましてや、夫はミキを自分のものにしているのだ。公に。

自分の妻を取られるかもしれない時に、平気な男がいる訳がない。


「お前は男を買ってるんじゃない、そいつに惚れてるだろう、それは俺の命令とは違う、って」

「そう言って殴られたの?」

ミキはうなずいた。

僕と知った快感によって、妻の身体が変わったのを夫は気づいたのだ。

柔らかく背中をたわませ、身体のあちこちを潤わせる妻に。

「ねえ、僕と行こう。今から逃げよう。当分の金なら大丈夫だから」

「無理よ」

「無理じゃない」

彼女を部屋に待たせ、僕はキャサリンに事情を話した。

「…仕方ないわね。こうなるって、思ってた。何か助けがある時は言いなさい。落ち着いたら荷物を送るから」

キャサリンは僕を抱きしめると、行きなさい、少しでも早く、と僕の背中を押した。


無理よ、と泣き続けるミキを車に押し込んで、僕はキャサリンと住む家に荷物を取りに行った。

車に詰めるだけ積んで、銀行に預けられない札束をバッグに突っ込んだ。

「夜が明けるまで、行けるだけ行こう」

僕はガソリンを満タンにしてひたすら西に車を走らせた。

とにかくこの街から離れないと。

僕の生まれた故郷は国の南端だ。あの街まで逃げればミキの夫も来ないだろう。

そう信じて走り続けた。

「ジュン、ジュンヤ!無理よ!!」

「どうして?いなくなれば諦めるよ。今から九州まで行く」

「何があってもあの人は私を探すわ。それができる人だから」

「どういう事?!」

「あの人、警察官なの」

僕は血の気が引いた。何だって?警官?逃げ切れるだろうか。

警察官でDV夫で、他の男に妻を抱かせる変態かよ。最悪じゃないか。

「ねえ、あの男、僕の名前知らないよね」

「うん。知らない…はず」

「なら、きっと大丈夫だ」

全く根拠のない大丈夫、を自分に信じ込ませるように僕は言った。


夜が明けた。

僕はコンビニでサングラスを買った。

「ミキ、これかけて」

少しでも彼女とわからないようにしておかないと。

パトカーがすれ違うと冷や汗が出る。

本当に夫はミキを探しているだろうか。案外諦めてくれやしないだろうか。

「ジュン…電話が…」

彼女のスマホがブルブルと震えている。

「出るね…」

「出るな!!」

そう言った瞬間、もしもし、と電話に出た声がした。

僕はミキと夫の話を聞くよりも恐ろしい事に気付いた。

GPS。

あんな男の事だ、必ず仕込んでる。

ということは、僕の働いてた店もすぐに目星が付くって事か?

どうして僕はすぐに気づかなかったんだろう。

この間にも、夫は地域の警察に情報を流しているかもしれない。

僕は注意深く大型ショッピングモールに入った。

「もう帰らないって言った。そうか、って。だからジュン、安心して?」

「探さないって言った?」

「え?」

「ミキを探さないとは言ってないよね?」

あんな男があっさり妻を手放す訳がない。

ミキの手からスマホを取り上げた。位置情報の発信は本体でもアプリでもなされていた。

片っ端からオフにして、アプリを削除し、電源を切った。

「位置情報。とっくにあの人に僕たちの場所はバレてるよ。ちくしょう!」

僕はハンドルを殴った。

早くこの地域から出ないと。

「ごめんなさい…!」

「ミキは悪くないよ。後部座席に座って。助手席の後ろに。これ着といて」

僕のジャケットも羽織らせた。

冗談じゃない。

ミキを渡す訳にはいかない。

家に戻ったら、彼女は何をされるか。容易に想像がついた。



無事九州には着いた。

しばらくは偽名でホテル暮らしだ。

街外れにあるモーテルに車を停め、二晩過ごした。

追われていて恐ろしくてたまらないのに、二人でずっといることが嬉しくて、僕はミキを抱き続けた。

どうせ逃げおおせたと確信できるまでは、何もすることは無いのだ。

初めて抱いた時が嘘のように何度もミキは声を上げる。

涙を流しながら震えて僕を欲しがる。

もう、このまま死んでしまえればいいのに。

二人で繋がったまま。

僕は初めて肩を抱いた時、洗剤の香りが好きだと思ったけれど、洗剤じゃなくてその奥にあるミキの匂いが好きだったんだ。

はちみつと重たい花の香りが合わさったような香りがするミキの肌。

抱くとその香りは強くなる。

僕は花に集まる虫みたいな気持ちになる。

引き寄せられてずっと蜜を吸いたくてブンブン飛んでる。

どう頑張ってもその花から離れられない。

僕はミキを抱くようになって初めて人に愛してる、と言った。




「ここ、二晩泊まったから、次のホテル探そう」

長期滞在も怪しまれる。

「僕の服も似合うね」

「ブカブカだけどね」

ミキが笑う。こんな風に笑顔を見せてくれるようになるなんて。

会った頃の怯えた顔が嘘みたいだ。

何の共通点も無いように思えるけど、僕はミヒが好きだ。

「ずっと一緒にいよう。ちゃんと仕事見つけて働くよ」

「うん。私も働く。ジュン、ずっと優しくいてくれる…?もう痛かったり、怖かったりするのは嫌なの」

「もちろん。約束する」

ギュッと抱きしめた後に、僕たちはホテルのドアを開けた。

荷物を積み込む。

この時に、黒い四駆が向かってくるのに気づいていれば良かったのに。



「ミキ!!こんな所にいたのか、探したぞ!」

振り向くと、190㎝はありそうなガタイのいい男が銃をこちらに向けている。

「タクヤ!どうして?!」

悲鳴のような声を上げて、ミキが男の名を呼んだ。

「今は文明の利器って奴があるからな。…おうおう、若くていい男と一緒じゃないか。俺よりもそいつの方が具合が良かったか?」

スマホを振りながらこっちに来る。GPSはスマホ以外にも仕込まれていたらしい。

ミキが僕の元へ駆け寄った。

「うちの妻がお世話になったみたいで。もう十分楽しんだろうから、返してもらえませんかね?」

慇懃な口調だが、銃口はこちらを向いたままだ。

「銃降ろしてもらえます?そんなものを向けてる人間にミキを返せる訳ないでしょう」

パトカーが2台やってきた。警官が二人ずつ降りてくる。

ああ。もう終わりだ。

でも、DV夫に返す訳にはいかないと言うしかない。通じる確率は低いけど。

「あ?何言ってんだお前?殺されてえのか?ピアスだらけでスカした顔しやがって。お前ケツ売ってるらしいな?あ?そんなことしてるお前が俺の女連れてくとか百年早いんだよ!」

他人からここまで侮辱を受けるのも久しぶりだ。

「林巡査、何をやっている?!」

無抵抗の人間に銃を向けている私服の警官を見て、同じ警察の人間も驚いているようだ。

「おおー、ヒロアキ、いや佐藤巡査部長ご無沙汰です。昔のよしみで来てくださって嬉しいです。おかげ様で捜索願を出していた妻を見つけましたよ」

「貴殿は非番だろう、何故銃を持っている?!」

スマートで目つきの鋭いその警官は、強くタクヤというその男を叱責した。

「いやー、私の妻を誘拐した男も一緒だったものでしてね。逃がす訳には行きませんから」

「もう自分達が来たからいいだろう、銃を降ろせ。無抵抗の民間人に銃を向けるな。命令だ」

「無抵抗?俺の女を連れ出しておいて無抵抗は無いだろうよ!」

タクヤは銃を構えなおした。

「やめないか!」

警官二人はタクヤに銃を向けた。

「わたしは…私は、自分の意思でここに来ました!もう殴られたくない!」

ミキが大きな声で言った。

「何言ってやがる!結婚したんだからお前は俺のものだ!俺の言う事を聞いていればいいものを!」

「殴って、犯して、大切にしてくれなくて、何が夫よ!」

「お前は俺のものだろうが!!」

ガタガタ震えて僕にしがみつきながらミキは自分の気持ちを口にした。しっかりと両腕で支えたけれど、僕まで恐怖感が伝わってきた。

今までどれだけの恐ろしさの中で彼女は暮らしてきたんだ。

「おいタクヤ、今の話は本当か?」

佐藤巡査部長がタクヤに確認する。

「本当です!僕が証人になります。今だって彼女の顔に痣があるのが見えるでしょう」

僕は、それだけ言った。

佐藤巡査部長が冷静な判断をしてくれるのを願った。

「タクヤ、もう一度だけ言う。銃を降ろせ。彼らは確保するから」

「いや…ヒロアキ、お前も信用できねえな。キャリア組だから底辺の警官の気持ちはわかんねえだろ?警察学校では一緒に釜の飯食ったのになぁ?…確保した後俺の女をどうするつもりだ?あ?」

タクヤが銃を持った指を動かす。

カチリ、と安全装置の外れる音がした。

「まず、銃を降ろせ。話はそれからだ。でないとお前を打つことになるぞ、林巡査!」

あと一人の警官もタクヤに銃を向けた。

「あいつは俺のだ…俺は、ケツを売ってるような若い男に女取られるほど落ちぶれちゃいないんだよ!!!」

ドン、ドン!と二回重たい音がした。

咄嗟に彼女の心臓を腕で庇い身体を捩じったつもりだった。

でも銃口からはじき出される銃弾の速さに勝てるわけが無くて。

ミキの身体が腕の中で跳ねた。腹部が燃えるように熱い。

「ミキ!!!」

「打てーっ!確保!!」

僕の声と佐藤巡査部長の声と警察官たちがタクヤを打つ銃声が同時に響いた。


「ミキ…?!」

彼女を抱えたまま僕は倒れ込んだ。

「ジュン…ありがとう…好きよ」

「ミキ、喋っちゃだめだ…」

気を失う前に遠くで聞こえたのは、佐藤巡査部長が救急車だ!急げ!と叫んでいた声だった。




先生、松田さんが目を覚ましました、と看護師がPHSで連絡を取っている。

頭がぼんやりとする。身体を起こそうとすると腹に激痛が走った。

「銃創なので、無理して動かないでくださいね。傷が開きます」

「あの…ミキ…林さんは…?」

「主治医からお話がありますので、しばらくお待ちください。あ、ご連絡できるご家族の方は…?」

キャサリンの連絡先を伝えた。一人ではどうにもならない。また僕は彼女に迷惑をかけることになった。

医師からの話は腹部のケガの状態と、手術をしたことと、その後のリハビリと諸注意だった。

「あの、一緒にいた林ミキさんは…?」

「手を尽くしましたが、残念でした。犯人の男性も亡くなっています」

僕は彼女に何も言えずにお別れしてしまったんだ。


あの夫は、最期までミキを離さなかった。

自分も打たれると知って道連れにしたのか。

それから僕はずっと涙が止まらなかった。

僕が逃げようと言わなかったら、ミキは死ななかったんだ。

なのに僕だけが生き残ってしまった。

初めてあんなに好きになった人を守れなかった。

タクヤが言う通り僕はケツを売ってるただの若造だ。


翌日にキャサリンと佐藤巡査部長が来た。警察にも連絡が行ったらしい。

「あら、いい男。ジュンのお知り合い?」

「は…僕は警官ですが、あなたは??」

「アタシ?アタシはジュンの保護者よ。それにしてもあなた、警察にはもったいないわねえ。イイ身体してる…」

キャサリンが上から下まで舐めるように見るものだから、巡査部長は目を白黒させていた。

「キャサリン、止めてよ、佐藤さん引いてるから」

僕は思わず笑った。キャサリンはいつもこうして僕の気持ちをほぐしてくれる。

「ジュンヤ君、傷は大丈夫か?」

「はい、痛みもそれほどではなくて」

「それなら良かった。ミキさんは、残念だった。申し訳ない」

佐藤巡査部長は大きな体を曲げて謝ってきた。

「佐藤さんが謝られることでは無いです。僕があの夫から逃げようと言わなければ良かったんです。僕が好きになったばっかりに」

せっかくキャサリンが涙を止めてくれたのに、ミキの事を話すと泣いてしまう。

「いや、家に帰ってもミキさんは命の危険があったよ。もしかしたら君が連れ出さなかったらその夜に亡くなっていたかもしれないんだ。どうか自分を責めないでくれ」

そうだろうか。でもそれが本当なら、ミキは死ぬ運命だったって事じゃないか。

僕には納得のいく答えなんて出そうになかった。

「退院はいつするの?」

キャサリンが明るい声で言う。

「あと一週間はいるみたいだよ」

「また戻ってくるでしょ?ジュン?」

「いいの?」

「いいのよ。ユウイチとの約束だから。戻ってらっしゃい」

「ありがとう」

「そうだ!あなたも遠いかもしれないけどジュンの退院祝いにいらして?」

ここが私のいるお店よ、とキャサリンがド派手な名刺を渡した。

佐藤さんがまた目を白黒させている。

「は…非番であれば…」

そう答えて、あ、と気づいたように佐藤さんが取り出したのはスマホだった。

「これ、彼女のだろう?押収品ではなく君の忘れ物として管理しておいたから」

「いいんですか?」

「仕事だから君たちの関係も調べさせてもらったよ…。彼女との思い出はそんなにないんだろう?」

僕の中から堰を切ったように涙が溢れた。

佐藤さんが肩にそっと手を置いた。



ミキはいなくなったが、僕は生きていかないといけない。

それが辛かったけど、ミキのスマホを見たら日記のようなものが見つかり、それを読むうちに考えが変わった。

彼女は僕の仕事で心身が病まないかをすごく心配していた。

『私が何か言える立場ではないけれど、きっとあの仕事はジュンヤにとって辛くなる時が来る気がする。どんな人とも寝るってどれだけ強くないといけないの。何もしてあげられない自分が悲しい』

他にも、僕と出逢ってとても毎日が楽しい、生き返ったようだ、とも書いてあって、少しはミキを元気にできていたのかと思うとホッとした。

僕は、今は身体を売っているけれど、いつか、人の役に立てる仕事に就けないだろうか。

例えば佐藤さんのように。


その二日後にも佐藤さんは見舞いに来てくれた。

「あの、佐藤さん、警察官のような人の役に立つ仕事は、どうやったらなれますか?」

「うん、公務員だから試験を受けないといけない。それに警察学校で訓練を受けるとなれるよ」

「最低でも高校出てないとダメですよね?僕中退していて」

僕は高校を中退してフラついているところをユウイチ兄さんに拾われた。

「最低でも高卒資格はいるかな。警官に興味があるのか?」

「何か人の役に立つ仕事に就きたいと思って。今の仕事は…続けるのは難しいので」

「確かにそうだな…。ジュンヤ君は身体もがっちりしているし、向いてると思うよ」

「本当ですか?!」

少しだけ未来に光が差した気がした。僕の人生になかった光が。

「うんそう思うよ。だから、もし本当になりたいなら、まずは高校の卒業証書を取れ」

「わかりました…。頑張ります」

「まあまずは、傷を治すのが先だけどな」

佐藤さんは優しく笑いながら僕の頭を撫でた。

「…もし、本当に警察官になりたかったら連絡しておいで」

僕は佐藤さんの連絡先をもらった。



今日は退院の日だ。キャサリンが迎えに来てくれた。

「全くもう、車が無事だったからいいけど、とにかくここは遠いわ!もう来るのは10年後でいいわね!そもそも昼間起きてるなんて地獄よ」

などと文句を言われたが、それはキャサリンなりのお疲れ様、という言葉だった。

キャサリンがエンジンをかけ車を発進させた。

「ありがとうキャサリン。迷惑のかけ通しでごめん」

「いいのよ。ほら、ヒロアキ君紹介してくれたし」

「え?紹介したことになってるの?!」

「え?違うの?あんないい男、アタシがほっとくわけないでしょう?退院パーティーには絶対呼んでやるんだから!」

「ここからって…泊まりじゃないと無理だよ」

「うちに泊まればいいじゃないの!何のために必死に働いてあんなデカい家買ったと思ってるのよ」

だんだんとキャサリンの声にドスが効いてきた。

「そうだね。泊まってもらったらいいよね」

またあの部屋にお世話になる。

「キャサリン、僕、高校通信制に行こうと思うんだ」

「いいと思うわ。せっかくなら定時制に通いなさい。実際に先生に習うってことでしかわからないものもあるし」

でも傷が治ったら仕事はちゃんとするのよ、と釘を刺された。

「もちろんだよ。自分の食べる分は稼ぐよ」

「そう。そうじゃないとね。何かしないと。特に悲しい事があった時はね」

キャサリンは母親みたいだな、と思う。

母親ほど歳は離れていないけど、色んなことを教えてくれ、支えになってくれる。

この人がいてくれて良かった。

「ありがとう」

「どうしたのよ何度も。急にいい子になっちゃって」

そう言ってキャサリンはブラックのアイスコーヒーをストローから飲んだ。

高速道に入り、窓の外の風景がどんどん飛んでいく。

僕も冷たいカフェオレを一口飲んだ。


人は、何とかして生きていかないといけないんだ。

生きている限りは。

そう自分に言い聞かせた。


初めて愛した人、ミキはもういないけれど。

それでも、僕は生き残ってしまったから。






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