迷路と恋
Dream 6
「なかなか寝付けなくってね」
案内人を前に茜は言う。心なしか、夢の世界でも眠いように感じられた。
「ま、たまにはそういう日もあるよね。何か悩み事かい?」
「悩み……ってほどでもないんだけどね。ちょっと色々あって」
「そういうのを悩みって言うんじゃない? 言いたくないなら別にいいんだけど」
そう言って、案内人はてくてくと歩き、茜に近づく。「何?」と問いかける茜を無視して、案内人は問う。
「キミはどうしてこの世界に来ることになったか、その理由、分かってる?」
「理由?」
「最初に言ったと思うけど、この世界にはよほどの事情を持った人でないと来ることはないんだ。もしどうしても茜が話したくない、って言うのなら無理に訊きだすことはないんだけど、良かったら話してみてくれない?」
案内人としては、「彼」の事を訊いてから茜には尋ねたかった。だがまぁ……あんな状況だったし、別にいいだろう。大体の想像はできている。
茜はしばらく眉に皺をよせ、考え込んでいた。そののち、小さく口を動かし、
「それ、私にとってメリットはあるの?」
と逆に問いかける。
「無いことはないよ。どうせ……って言っちゃ悪いか。でも、現実世界でも、その悩み事について相談したりしてないでしょ? ここは夢の世界で現実とはあんまり関係ないかもしれないけどさ、もしかしたら気が楽になることもあるかもしれないよ? それが唯一のアカネにとってのメリットだね」
「……失礼な」
案内人の言葉に茜は唇を尖らすが、はぁ、とため息を吐き、「分かった」と答えた。
「教えてくれるの?」
「誰かに漏らしたりしないよね?」
「ボクが必要と感じた場合を除いて、しないよ」
「なにそれ、信用ないねー」
「ジョークだよ。イッツアジョーク」
笑っていない声が案内人から漏れている。少なからず不安はあったが、それでも茜はぽつぽつと話し出した。言葉が自分の中から漏れていくにつれて、これまで張り続けていた虚勢が、そして溜まりこんだ蟠りが、霧のように吐き出されてゆく。
茜の話を、案内人はずっと黙って聞いていた。いつも何を考えているかよくわからない笑顔を見せている案内人だが、時々相槌を打ったりして、真面目に聞いているようだった。
「……多分これが、私がここに来た理由だと思う」
全てを話し終えて口から漏れた声は酷く低く、まるで自分のものとは思えないようなものだった。心の中で動き回っている棘が、体の至る所を駆け巡っているようだった。
「……終わった?」
案内人は顔を上げる。半開きの目が茜を捉えた。
「……ごめん、ボク、寝そうだった」
そう言って、茜のことなど気にもかけずに、案内人はうーん、と伸びをする。そして、ぷはぁと短い息を吐き、気持ちよさそうに肩の辺りを揉み始めた。
「ちょっと! 訊いといて何言ってんの!? いくら私でも怒るよ!」
「ごめんごめん。でもね、別にアカネの話がつまらなかったとか、アカネの悩みを軽視しているわけじゃないんだ。それだけは分かってほしいな」
目を擦り擦り、案内人は言い訳のように言う。未だ怒り冷めやらぬ茜だが、こんな相手に対して余計な体力を使うのもどうかと思い直し、とりあえず心の中で軽く深呼吸し、案内人に向き直る。
「……どういうこと?」
「そのまま、といえばそのままかな。アカネのその男の子との関係については真剣な悩みなんだろうし、ボクはこの世界の案内人として、きちんと負担の軽減に尽力するつもりだよ。でもね……なんていうんだろ……ちょっときつい言い方をすると、一辺倒なんだよ」
白い空間に向かって案内人は話す。あくまで茜にはそれを告げず、独り言をただぼやいているかのように。ある意味では、それは茜には聞かせたくなかったのかもしれない。あるいは、案内人にとっては既に飽き飽きしている内容であったからだろうか。
「一つ質問させて。アカネは、その男の子の事が好きなの? 友達としてじゃなく、男の子として」
「それは……」
すぐには答えられなかった。歩生に告白された時、ドキドキしなかったわけがない。小さい時から、ずっと一緒にいる男の子だ。どんなに低く考えても、歩生のことは友達だし、友達としては「好き」「大好き」だ。そして、恋愛対象としてはと言うと……。
「……答えられない、かな……」
案内人の眼差しから逃れつつ、答える。
「どうして? イェスかノーで答えてくれればいいんだよ?」
「……無理。私には……」
「どうして?」
案内人の問いを最後に、茜は黙り込んだ。案内人はしつこく「どうして?」とその後も訊ねてくるが、茜はことごとく無視を決め込んだ。やがて、案内人の声に背を向け、「逃げたい」という願望の赴くままに、徐々に歩く速度を速めていった。なぜか、深く尋ねないと言った案内人はしつこく、逃げる茜の背中を追いかけはじめ、茜がどこまで真っ白な世界を進んでも、案内人はついてくる。どれだけ思いっきり走っても、逃げても方向を変えても、二人の間の距離は縮まることはない。
「もう! ほっといてよ!」
そう叫んだ時、案内人はぴょんと跳ね、茜の足にしがみついた。「何!?」と茜は驚きと怒りの入り混じった高い声を上げ、思いっきりその足を振り回す。だが案内人はがっしりとしがみついて、離れようとしない。多少傷つけてもいいか、と地面に叩き付けたりもしたが全く効果はなかった。
やがて茜は疲れ果て、そして片足もひどく痛み始めたため、体の力を抜き、その場にしゃがみこんだ。同時に、案内人も茜の足から離れる。
「話す気になった?」
能天気に案内人は問う。
「……そんなわけないでしょ。ストーカーみたいにしつこく追いかけられて。普通女子にあんなことする?」
「ボクは女の子だから。問題ないよ」
済ました顔で言う。
「……そんなことしたら、嫌われちゃうだけだよ」
言って、茜は昔を思い出していた。小学校に入りたての頃、私はもしかしたら、今の案内人のような立ち位置だったのかな? しつこくて、上辺の関係だけに固執して、真の友達とか、信頼関係とかいうものを築けなかった。横目に、座る案内人を見る。
「ねぇ案内人」
「なに?」
「私の過去とか、知ってたりするの?」
「さすがにそれは分かんないよ。ボクが知ってるのは、目の前にいる人が、現実世界で辛いことを経験してきた、ってことだけ」
そっか、と答え、茜は時が止まっているような空間を暫し見つめる。真っ白であるからか、鮮明な光景が浮かんだ。
「……私って、変な女なのかな」
うーん、と、可愛い声が聞こえる。
「変ではないと思うよ」
しれっと案内人は答えた。振り向くと、真顔な瞳が茜を見据えていた。
「アカネの話を聞いてさ、アカネは至って普通の女の子だと思ったよ」
「普通、なのかなぁ……」
「普通だよ。ボクから言わせればね」
短い無言の空間があって、案内人は躊躇いなく告げた。
「アカネは恋してるだけだよ」
普通にね。
「自覚なかった? ボクの予想では、そんなことはないはずだと思うんだけど」
茜は否定も肯定もしなかった。したくなかった。認めたくない気持ちが、彼への気持ちよりも遥かに大きかった。
「……答え、たくない」
そう呟き、茜は膝の中に頭を埋めた。今度は、案内人がしつこく問い詰めてくることはなかった。
「もうすぐ朝だよ。起きた方がいいんじゃないかな」
「うん」
「今日の夢の世界には、また明日行こう。現実世界で、もう一回考えてみて」
「うん……」
次に頭を上げると、そこに案内人はいなかった。どこに行けばよいのか分からなかったが、とりあえずふらふらと歩き出す。
「恋、か……」
何もない空間を歩きつつ茜が思うのは、彼をきちんと「好き」になれたときに、どんな未来を迎えられるのかという、夢物語だった。
行くあてもなく歩いている最中、ふと案内人の声が聞こえた気がした。立ち止まって周りを確認してみても、誰もいない。気のせいかと思ってまた一歩踏み出すと、その途端に『アカネ!』と、今度は明瞭にその声が聞こえた。
「案内人?」
虚空に向かって確認する。
『ちゃんと聞こえてる? 聞こえてる前提で、これから話すよ』
その声は、いつもと変わらないように感じつつも、どこか違和感があった。まるで、声を無理やり遮断するようなフィルター越しに会話をしているような。
『ははは、周りを見てもボクはいないよ』
こちらの行動は完全に分かっているというのだろうか、先回りした案内人の茶化す声が体の中で響く。
『言い忘れてたけど、……っていうか今までわざと言ってこなかったんだけど、これは《心の声》なんだ。別にそれが正式名称、ってわけではないけどね。ボクは一番しっくりくるから、そう呼んでる。まあいわば……ケータイ電話? そんなのと同じような感じかな』
一方的に案内人は説明を始める。「待って、こっちからは何も言えないの?」。耐えかねて、茜は口に出して問いかける。
『いやー、ケータイって便利なものなの? ボクも昔にここに来た人から聞いたんだけどね、どんなものなの? アカネ?』
どうも茜の言葉は聞こえていないようだ。待っても返事がないのを疑わしく思って、そして結論に至ったのか、「あ、そっか」と案内人が納得する声が届いた。
『アカネにはまだ話し方を言っていなかったね。ごめんごめん。これは《心の声》だから、口で言葉を発してもダメなんだ。《心》で思わないと。だから、言いたいことと伝えたい相手を強く念じれば、言葉を届けることができるよ。試しにやってごらん。聞こえたら返事するから』
案内人に言われるがままに、茜は適当な言葉を思い浮かべた。そして案内人の姿と共に、心の中で反芻を始める。
『……うん、うーん、ちょっと途切れ途切れだけど、一応聞こえるよー。まだボクに対する気持ちが弱いみたいだねー』
――余計なお世話よ。
少しむっとしながら、続けて送る。
『ごめんごめん。ま、そういうわけで、使い方は教えたから。どう使うかは、アカネの自由だよ。あと、これはどこでも誰にでも言葉を送れるってわけじゃなくて、場所はこの夢の世界の中でだけ。人も、案内人であるボクか、あとは現実世界でそれなり(・・・・)の(・)関係を持っている相手でないと送れない。つまり、夢の世界で偶然居合わせただけの相手には、どれだけ強く念じても、何も伝わらないわけだ。だからアカネ、これを使って初対面のイケメンにアプローチしよう、とか考えても意味ないよ』
――誰がするのよ、そんなこと。
あはは、と愉快そうな笑い声が届いたのち、案内人からのメッセージは途絶えた。
茜はその場でしばらく佇み、まだ頭のどこかにこびりついたように響いている、案内人の言葉の残滓を感じていた。……どうして、案内人は急にこんなことを教えたのだろう?
さっき、「わざと伝えていなかった」と彼女は言った。規定の日数に達すれば教えるというような仕組みなのだろうか。ただ、考えたところで仕方がない。とりあえず、現実世界の入口へ向かって、茜は再び歩き出すことにした。
Real7
歩生が目を覚ましたのは、既に昼近くなってからだった。平日なので、普通に学校では授業が進んでいる。今から登校しても仕方がないので、そのまま休むことに決めた。
顔を洗い、適当に胃袋に物を詰め込む。そうして一時間ほどが経過すると、なぜかまた眠たくなってきた。強い光が差し込んでいる窓の隙間をカーテンで埋め、
「……もう一回、寝るか」
歩生は再び布団へともぐりこんだ。
Dream7
「あれ、もう戻ってきたの? 何か忘れ物でもした?」
目の前にはまたしても案内人が立っている。一時間もせずして戻ってきた歩生を、訝しげに見上げていた。
「忘れ物なんてしないよ。何も持ってきてないんだし」
「じゃあどうしたの? そもそも今日は平日だよね? 学校は?」
「目が覚めたら、もう遅刻だったんだ。だから、もうめんどくさくなって、二度寝しただけだよ」
くぁー、とあくびしながら歩生は答える。ふと案内人を見下ろすと、なぜか、とても嬉しそうに笑っていた。
「……どうしたんだよ?」
案内人がニコニコしているのはいつものことだが、今回は、普段のそれとはどこか違う気がした。普段の笑みが、どこかそのまま張り付けたような感じがあるのに対して、今回は、心の底から湧き上がってきているもののように思われた。
「別にー。何でもないよー」
言いながらも、案内人の笑みは広がっていく一方だ。真っ白な世界を自らの手で別の色に染めようとしているように。抑えきれない感情の波が、歩生には見て取れた。
「アユムは、今からまたどっかの迷路に行く?」
「そうだな……」
きっと、次に見る夢はまた違うものとなるだろう。むしろ、そうなってくれないと困る。
前回見た夢を一言で表すなら、「悪夢」だろう。ただし、完全にそうとは、歩生には言い切ることはできない。夢の中で彼女と会話を交わした「自分」も現実世界と同じ「自分」であるのならば、あれは紛うこと無き歩生の「本音」であったからだ。魅力的だ、そんな言葉を平然と口にしたあの時の歩生も、今、案内人の前で突っ立っている自分自身と、同じ存在なのだ。
これから行く迷路の先で起こることは、全てキミのためになる。その言葉を信じたい。信じないと、自分自身を許せなくなる。出来ることならば、二度と同じような経験はしたくなかった。
「案内人、それって、いま絶対に行かなければならない?」
「別に。今夜でも全然かまわないよ。話を振ったボクが言うのも何だけど、夜の方が都合はいいと思う。眠りが深いし、時間もたくさんあるからね」
「じゃあ今はいいや。そしたら、僕はどうしたらいいの?」
ぱあっと、何かが弾けたような光を感じた。いや、実際に何かが光ったわけではない。歩生に見せた案内人の顔が、そのようにたとえられるほどに、眩かっただけだ。
案内人は、体全体を使って、喜びを表現していた。
「じゃあさじゃあさ! ちょっとボクとお話ししない?」
「話?」
「そう、お話。この前、迷路に行く直前にボクがアユムに言った言葉、聞こえてた?」
言われて、歩生は記憶を遡る。だが、案内人と別れてから、特に何かを聞いた記憶はない。その旨を伝えるが、案内人は一切表情を変えることはなかった。
「ま、そうだろうね。ボクもまさか聞こえてるとは思わなかったし」
そう言って案内人は、笑顔の端っこに苦笑いを見せる。
「それじゃ、改めて質問させてもらおうかな」
こほん、と咳払いして案内人は高らかに言う。
「アユムが、ここに来ることになった理由を、教えて!」
「僕が……ここに?」
「そう! 普段はこんなこと訊くことはないんだけどさ……。キミたち――ううん、キミはちょっとボクにとっては特別なんだよ。理由は分かんないんだけどね」
感覚的に、そう感じるだけ。案内人は言い訳のように付けた。
「それ、聞いてどうするの?」
「正直、どうもしないよ。アユムが話すことによって、この先の夢の内容が変わるわけでもないし、現実世界でのキミの状況が大きく変わることもない。唯一、変わることがあるとすれば、キミの心の持ちようが変わるぐらいかな。ホラ、誰かに話したら楽になることってあるでしょ?」
うん、と歩生は素直に頷いた。正直なのはいいことだ、と感慨深そうに案内人は言う。
「どう? 話してくれる?」
優しげな声は、歩生の中に流水のようにしなやかに入っていく。それにからめとられた、心のどこかにこびりついた言葉は、流麗に、歩生の口からあふれ出ていた。
「実はね、つい最近、幼馴染に告白したんだ」
「告白、っていうとあの告白? 『好きです!』って」
「そう。その告白。でも駄目だった。友達として長いあいだ一緒にいたから大丈夫、って言い聞かせてた分、断られた時のダメージは大きくてね。しかも酷い振られ方をして……。現実を受け止められなかった」
「現実が、嫌になっちゃった……?」
おずおずと案内人は尋ねる。
「……うん、そうだと思う。不安になって、緊張して苦しいな、って思っていても、心のどこかではそれなりの自信があったんだ。さっきも言ったけど、幼馴染だからさ」
言いながら、歩生は茜の色々な顔を思い出していた。小さいころから今に至るまで、彼女は様々な感情を見せてくれた。どれも、鮮明に浮かび上がり、声までが脳内に響き渡る。
「アユム……」
ふと声の方に意識を向けると、案内人が心配そうに歩生の顔を覗きこんでいた。
「え、どうしたの……? そんな顔して……」
「どうしたもこうしたも……アユムが今にも死んじゃいそうな顔してたからさ」
「……マジで?」
うん、と案内人は頷く。
「……アユムにとってさ、その子は、どんな存在だったの?」
「どういう存在、か……」
しばらく歩生は虚空を見つめて考える。真っ白な世界に、彼女の笑顔は眩しく映し出される。
「……いま考えてみるとさ、決して『特別な』とかいう言葉がつくような存在ではなかった気がする」
「そうなの? 恋人って特別な存在じゃないの?」
「一般的にはもしかしたらそうかもしれないけど……僕と彼女――茜は、なにより幼馴染だから。中学とか高校とかで知り合ったほかの友達よりもずっと長い時間を一緒に過ごしてきてる。その時点でもう『特別』って感じ、しない?」
歩生の弱々しい微笑みに対し、案内人も少し頬を緩ませる。
「僕たちは無意識のうちに『特別』を呑みこんでた……ううん、その『特別』に気づこうとしなかった。『特別』が『普通』だと思い込んでしまってた。だから……なんていうか、求めすぎてたのかもしれないね。気持ちが先走りすぎてたのかも……」
滴がしたたるように、後悔の粒が歩生の心に落ちてゆく。懐かしい感情だ、と思った。そして同時にその感情に、嫌悪感を持つ。
「ねぇアユム」
澄んだ声が、歩生の中に広がる水たまりを撫でる。
「今でもアユムは、その子のことが好き? もちろん、恋愛的な意味で」
「当たり前だよ。こうして告白したことを悔やんでるぐらいなんだから」
「……ふーん」
案内人はそう相槌を打って、少し考えるようなしぐさをする。
「アユム、それ、ホントに?」
「……え? どういうこと?」
「ホントにアユムはその子に……アカネに告白したことを後悔してるの? そしてもう一つ。それを後悔してるからといって、今でもアカネのことを好き、って意味になるのかな?」
「そりゃ……」
そうだ、と言いかけて歩生の口は止まる。もちろん後悔はしている。自分が余計なことをしなかったら、今でも二人で仲良く毎日を過ごせていたことだろう、と自身の浅はかな行動を憎んだことは幾度となくあった。でもそれは、本当に純粋な後悔であっただろうか。僅かに……ほんの僅かにではあるが、ほかの感情も交じっていたのではないだろうか。
「後悔……後悔してない、って言ったら……それは嘘になる……かな。でも……」
「でも?」
「でも、改めて考えてみたら、仕方ないかな、って気がしてきた」
「ん? どういうこと?」
「だってさ――」
少し恥ずかしく思った。いくら現実世界と関わりを持たない案内人が相手とはいえ、こういったことを他人に告げるのには勇気が要る。心の中に広がる水たまりが、徐々に消えてゆく。心の中に吹く風に乗って、どこか遠くへ飛んでゆく。
「茜は……大切な女の子だから……」
告白して、拒絶されて、後悔するのも、仕方ないかなって。照れくさく思いながらも、歩生はそう言い切った。
「……うん。どうして大切だ、って思うの?」
案内人の瞳はどこまでも純粋だ。心の中に優しく入り込んでくるその視線は、いつか「彼女」が自分に向けてくれたそれと似ているかもしれない。歩生はふとそんなことを思った。
「そりゃ、幼馴染だから……っていう理由だけじゃ満足してくれそうにないね」
「もし本当にそれだけ、って言うのならばボクもそれ以上は訊かないよ。でも、もっとあるんでしょ? じゃなかったら恋なんてできないよ」
はは、と歩生は静かな笑みを浮かべる。ありえない未来ではあるが、案内人とこの先ずっと関わりあっていくようなことがあれば、彼女に嘘は吐けなさそうだ。
「うん、まあね。茜は何というか……ちょっと不思議な女の子だった」
案内人は何も言わず、歩生の話に耳を傾ける。一人の少女の姿を、脳裏に思い浮かべながら。
「小学生の時、茜はとても明るい女の子だった。いま思うと、マンガに出てくる、色んな人から好かれるヒロイン的な立場にいるような女の子だった。その当時はもちろん僕もそんなこと考えて見てなかったから、『あー、きっと優しい子なんだろうなー』って、ただそれぐらいにしか思ってなかった。でも、何というか……どこか変だな、とも思ったんだ。友達はいっぱいいるはずなのに、いつも独りだった。彼女をすすんで誘おうとする人は少なかった。幼いころの僕は、あんまり人づきあいが得意じゃなくて、茜ともほとんど話したことなかったんだけど、そのわけを知りたいな、って幼いなりに思って、話しかけてみたんだ。結局、その時はただ他愛もない話をしただけで終わっちゃって、今に至るまでその理由は訊けてない……っていうかもうこの話をする前まで忘れちゃってたんだけど、それ以降僕の方から話しかけたり、時には茜の方から話しかけてきてくれたりもするようになって……お互い本当の意味での『友達』って呼べる人は多くなかったから、自然と一緒にいる機会も増えてね……気づいたら、そういう存在になってた」
話し終え、歩生は苦笑する。茜について誰かにこんなに語ったのは久しぶり……というよりも初めてではないだろうか。愛しい感情も、悲しい感情も、様々なものが、声となって流れている。案内人がじっと、歩生の顔を覗きこんでいた。
「なるほどね。でもさ、アカネはあまり他人と深い付き合いをしないタイプだったんだよね? どうしてアユムとは幼馴染って呼べるような関係にまでなれたのかな?」
「さぁ……? そこまでは僕にも分からないよ。ただ、登校する班は違ったけど、互いの家は小学生でも一人で行ったり来たりできるような位置にあったから、とか、昼休みに教室に二人になることがしばしばあったから……とかかな、僕が想像できるのは。詳しいことは本人に訊いてみないとわかんないよ」
「まぁそうだよね。アユムは、それ、知りたいと思う?」
「んんー……別にいいかな。今はそれどころじゃないし」
そっか、と案内人は微笑んで返す。
「でもさ、アユム」
声のトーンが僅かに落ちる。恋人に頭を預ける少女のように、案内人は歩生に寄りかかってくる。
「完全にボクの想像だけどさ、きっと茜だって、たくさんの勇気が要ったと思うよ」
「それは……断るときとか?」
何を、とは自身の口からは言えなかった。
「うん。……というか、その時以外ありえないよ。何年も何年も一緒にいたんでしょ? さっき、アユムは酷い振られ方をした、って言ったけど、だからといってアカネが本気でアユムのこと嫌ってるとは思えないよ。そこのところ、アユムはどう思ってる?」
あの時の彼女の声は、今でも一言一句間違えず思い出せるぐらい、鮮明に頭にこびりついている。長年彼女と親しくしていることを知らない人が見れば、彼女に宿る感情は、間違いなく嫌悪であると決断づけるだろう。しかし、茜と一緒にいた年月は、同級生の中で最も長い自信はある。それに……ずっと見続けてきた彼女の笑顔もまた、歩生の思考を勇気づける。
「うん、酷いことは言われたけど、ずっと嫌われてたとは思えない。茜はずっとそんなフリができるほど器用じゃないよ」
「そりゃね、キミたちは人間なんだから、ふとしたきっかけで一時的に『嫌だなー』とか思ったり『会いたくない』って思ったりすることもあるかもしれないよ? きっと、アユムもアカネも、互いにそういうこと思ったことあると思う。でもさ……」
今までずっと一緒にいた。そして今も、一緒にいたいと願っている。
案内人が話すよりも先に、その声は聞こえた。お互いが知っている事実であり、そして――少なくとも歩生は思う――願いだった。
「本気で嫌悪する相手とずっと一緒になんていられないよ。……ボクはここで色んな人を見てきて思ったんだけどさ、人の『嫌い』って感情はあんまりあてにならないよ。時が経てば相手のその感情が消えたり薄れたりして、安心して帰って行った人は大勢いたし、そもそも別の理由……たまたまほかの事情で不機嫌だった、とかそんな理由で発せられた『嫌い』もあった。そもそもただの脅しだった、とかいう場合もあったしね。だからね、その……アユムの場合、深く考え過ぎない方がいいよ。アカネが本気でアユムのことを嫌だから、拒絶したようには思えないもん」
案内人はやけに自信があるように、歩生には見えた。
「なんでそんなことがわかるんだ?」
人の感情の真意なんて簡単にわかるものじゃないのに。そう言おうとした歩生の口を、案内人の言葉が塞ぐ。
「ボクは、迷路の案内人だからさ! だからアユム。キミは、何とかしてアカネときちんと会話する機会を作るんだ。メッセージ機能とかじゃなく、直接ね。そしたら、きっとアカネのことも分かると思うよ!」
案内人の言葉が終わるか終らないかという間に、歩生は、意識がこの世界から離れつつあるのを微かに感じた。現実の僕が目覚めようとしているんだ……そう思った時には、笑む案内人の姿は純白の世界の彼方へと消え去っていた。