迷路の嘘
*
Real6
「……眠れない」
時計はもうすぐ午前二時を指そうとしている。ベッドに入ってからかれこれ二時間が経過しようとしているが、何度かうとうとしたものの、きちんと眠ることができずにいた。土手で眠ってしまったせいだろうか。それとも彼女の……ユカちゃんとの出会いが、私を困らせてしまっているのだろうか。悶々と考えているうちに、時は過ぎてゆく。とく、とく、という胸の音が、ベッドを通じて体全体に深く響いているようで、気分のいいものではない。諦めて部屋の電気を点け、茜は窓へと寄った。
真っ白な街灯が、淋しく夜の闇を切り裂いている。その奥に、淡い光がぽつん、ぽつんと見えた。
「……眠くなるまで、ここにいよ」
勉強机から椅子を引っ張ってきて、窓際に置く。折角なので再び電気を消し、街灯と月光だけが照らす夜に、茜は独り、浸り始めた。
Dream5
「案内人。質問、いいか?」
「アユムは質問が多いね。どこかの女の子みたいに、きっぱりと受け入れちゃったらいいのに」
呆れたような口調だが、案内人は歩生の方を向く。独り言は聞かなかった振りをして、歩生は続けた。
「ここには、現実世界で大きな傷を負ったりした人が来るんだよな?」
「そうだよ。傷っていっても、物理的なものじゃなく、主に精神的な面での、だけどね。そういうのを何とかするために、この世界は存在しているんだよ」
精神的な傷、そう聞いて、歩生の頭の中には嫌でもさっきの風景が思い浮かぶ。言いようのない怒りを感じ、奥歯が鈍く鳴った。
「……この夢の世界を経て、現実世界で起こったことは……それは本当に、現実の僕の傷を、癒すためのものなのか?」
意識せずとも低い声が漏れる。目の前でくるっとした大きな瞳を向けている案内人に、罪はない。自分自身が罪の本体であるような状況下でありながら、歩生の行き場のない怒りは彼女に向けられるしかなかった。
「ここで起きたことが、現実世界でも起きたんだ。僕は、ここでとった行動と全く同じようにした。だが現実では全くうまく行かなかった。本当に、この世界が存在する意味はあるのか?」
人が抱えた傷を、さらに抉るものではないのか。既に心はまいりつつある。これ以上、ヒトを崩壊させていった先に、癒したるものが存在するのか。
「答えてくれ、案内人」
案内人を見下ろし、微動だにせず、その口が開くのを待つ。
ややあって、案内人は一つため息を吐き、小さく咳払いをしてから、話し出した。
「アユムが、昨日行った夢の世界でどんな経験をしてきたのか、ボクには分からないし、知る権利はない。ボクも長い間ここにいるけど、本人が自発的に言わない限り、ボクは絶対に訊かなかったよ。そうして、たくさんの人が苦しんでいる様を、そして、何かに憑りつかれている様を見てきた。みんな、キミのようだった。前も言ったけど、キミよりひどい人もたくさんいた。でもねアユム、周り、見てみてよ」
静かな案内人の声は、導くように歩生の顔を動かす。見えない力に動かされているようだった。
「誰か、いる?」
案内人は問う。歩生は無言で首を横に振った。
「でしょ? 誰もいない。これがどういうことか、アユムは分かる?」
ほぼ間髪入れずに歩生は再び首を振った。案内人は苦笑する。
「……酷い時にはね、ボクは同じ空間で、何人もの相手をしなくちゃならなかったんだ」
案内人の視線が、虚空に向く。まるでそこに過去の影を見るかのように、案内人は語りかけた。
「大きな傷を抱えた人が、何人もここに来るんだ。みんながほぼ同じタイミングで眠りに就けば、この世界には同時に何人もが来ることとなる。その時は大変だったなぁ」
遠い目をして、案内人は言う。
「今、現実世界では夜の二時ぐらいなんだ。普通なら、もうみんな寝てるはずの時間だよね」
残りは言わない、と案内人は表情で示す。「どういうことか分かるよね?」心の声で語るように、その笑顔は告げている。
「つまり……みんな傷を癒して、この世界から去って行った、と……」
案内人は頷かなかった。その代りか、満足そうに笑みを濃くした。
「最初に言ったよね。『これから迷路の世界で起こる出来事で、不必要なものはない』って。キミは目先のものしか見えていなさすぎる。キミの『未来』っていうのは、一日先しかないの? 何日も、何年も、何十年も続くよね? もう一度言うよ。不必要なものはないんだ」
幼いわが子に説教をするように、案内人は言葉を紡ぐ。まるで水のように美しく流れ出る言葉には、怒りと、悲しみと、そして案内人なりの祈りが籠められている。
「アユムが納得するまで何回も言うし、アユムには何回も迷路の世界に行ってもらう。ボクの言葉、もっと聞きたい? そろそろキミも、うんざりしてきたはずだ」
いつの間にか険しくなった案内人の瞳は、苦しそうに歩生を見据える。
「……うん、その通りだ。さすがに僕もうんざりだよ。案内人にそこまで言われると、何か腹が立つ」
「ボクに当たり散らしても良いことはないよ。ボクは人の迷路の先の世界には干渉できない。まあ、キミのストレス発散にはなるかもしれないけどね」
でも、そうなったらボクはさっきの言葉を繰り返すだけだよ。からかうように案内人は言う。
「……わかった」
あきらめに似た感情に負け、歩生は項垂れる。対照的に、案内人は例の人懐っこい笑みを見せた。
「でも、納得したわけじゃない。案内人の言葉を百パーセント信じるわけでもない。ただ僕は、面倒なことが嫌だから……渋々だから」
「それでも良いよ。キミが信じられる時が来るまで、ボクはきちんとキミの傷を癒すために頑張るから」
案内人は歩生を見て、柔らかくそう言った。はぁ~っ、と歩生がため息を吐いてその場に屈むと、てくてくと案内人は近寄り、歩生の手を取った。
「……安心して。いつかきっと、アユムも前の……ううん、前以上のアユムになって、あっちの世界に帰ることができるから。もうちょっとの、辛抱だよ」
案内人の手には、温もりなどはなかった。ロボットのような、温度のない手だった。それでも、なぜだろうか。ふと目を閉じれば、いつしかの温かな風景が、すぐ真横で繰り広げられているようだった。
「ところで案内人」
「まーた質問? 早く迷路に行きなよ!」
「いや、悪い。さっきの会話でまた疑問が増えてしまって」
「はぁ……こりゃ、今日も迷路は無理かな? もう三時になるよ……」
「案内人が最初に言ったさ、どこかの女の子、って誰?」
「アユムが気にすることじゃないよ。この世界に来てる、キミと同じぐらいの歳の女の子さ。ほら、もう時間がないんだから、さっさと行く!」
案内人はしびれを切らし、歩生の膝を押して歩かせる。
「あ、こら、ちょっと……っ」
「キミが遅いのがいけないんだ! ホラ、今日の迷路はすぐそこだよ!」
案内人がとんっ、と軽く突くと、歩生の体は見えない穴に吸い込まれるように遠ざかってゆく。その時、そうだ、と案内人は思いついた。
「ねぇアユムー!」
なんだー、と声が返ってくる。
「今度さー、こっちに来た時にー、キミがここに来た理由を教えてよー!」
既に歩生の姿は見えなくなっていた。返事も聞こえてこない。けれども、案内人には少なからぬ自信があった。
「待ってるよー!」
案内人自身も、わざわざ迷路に行きかけている相手に向かって、こんなことをしたことはなかった。少しずつ、自分も変わりつつあるのかな。そんな、柄でもないことを思った。しばらく自分の体を見下ろしていたが、真逆の方向で何かが動く気配があった。そちらに視線を向けると、一人の少女が佇んでいる。
「おっ、やっと来たねー! 遅かったじゃん、アカネ!」
焼かれるような光線に身を曲げながら、少しずつその眩さが引いていく中で目を開けると、そこに広がっていたのは、いつもの学校の風景だった。以前とほぼ変わらず、歩生は校門の前で佇んでいる。後ろからどんどんやってくる生徒からは、「邪魔だ」と言わんばかりの視線を向けられる。歩生はそそくさとその場から退散し、自身の教室へと向かった。
茜がいない以外、現実世界とは何も変わらない。今回は何が起こるのだろう。微かなワクワクと、大きな不安を抱えながら、歩生はその時が来るのを待っていた。
「みんなー、おっはよー!」
教室の後ろのドアが勢いよく開き、一人の女生徒が、そんな挨拶を大きな声で言いながら入ってくる。前回の夢で、佐藤と付き合うこととなった清水だ。清水は、佐藤とも朗らかな表情で挨拶を交わし、自席に座る。
「ねぇねぇ、みきたん」
「え? なに?」
傍を偶然通りかかった美樹に、清水は親しげに話しかける。二人ってそんなに仲良かったっけ……? と、ふと清水の口調に違和感を覚えたが、特に何も考えることなく、歩生は何をするでもなく自席で佇む。
「…………ね? お願い! 協力してほしいの!」
「でも……」
歩生の数メートル後ろからは、二人のそんな会話が聞こえてくる。ちらりと盗み見ると、清水は両手を顔の前でぴったりと合わせ、何度も頭を下げていた。対して美樹は、戸惑っている様を隠しきれていない。心なしか、頬も紅潮しているような気がする。
「だったらさ……」
美樹が清水の耳元に口をもっていき、ひそひそと何かを話す。何を話したのかは当然、歩生には聞き取ることができなかったが、清水は納得したと言わんばかりに明るい表情を見せ、近くにいた数人の女子にも声をかけ始めた。
「……いったい、何が始まるんやら……」
清水は、クラスの中でも中心的な立場にいる女子だ。彼女が動きはじめたら周りの誰しもがそれに快く付き合う。彼女がクラス全体に与える影響力は、きっと誰よりも大きいものであるだろう。これから起こるかもしれないことに一抹の不安を覚えつつも、歩生は地蔵のように固まって、自分からは関わらないようにしていた。
五分ほどが経過して、清水が自分の席の周りに作った、女子による輪は解かれた。だがそのうちの数人が、歩生の席にやってくる。
「ねぇ夏目君。ちょっと今、時間いいかな?」
歩生は読んでいた本から目を上げ、その女子を見る。申し訳なさそうに手を合わせながらも、ドキドキとワクワクが、その微かな笑顔から漏れ出ている。疑問は尽きなかったが、「うん」と歩生は頷き、本を閉じた。同時に、歩生を囲む女子からは、小さな黄色い声が飛んだ。
「じゃあさ、こっち、来てくれない?」
一人の女子が歩生を手招きし、引導する。彼女が向かった先は、歩生が何となく予想していた通り、清水の席の前だった。
「清水さん、連れてきたよ~」
「うん、ありがとう」
清水は柔らかく微笑み、同時に、女子はやや離れた場所へと退散する。必然と、歩生は清水と向き合う形となった。
「それで、えっと……僕はどうして呼ばれたの?」
クラスの中でも特に目立つ女子と一対一で向き合っているこの状況に、歩生は背中がむず痒くなる思いがする。だが清水は歩生の質問には答えず、胸に手を置き、軽く息を吐いた。それはため息などではなく、只々、自身の気持ちを安定させているだけのように、歩生には見えた。
「ごめんね、夏目君。急に呼んだりしちゃって」
清水は立ち上がり、普段と何ら変わらぬ調子で言う。女子の中では比較的背が高めな彼女と歩生の目線の高さに、そう大差はない。歩生の目の前に、彼女の整った顔がある。
「……ううん、別にいいよ。それで、どうしたの? 何か特別な用事?」
「特別……うん、まぁ、そうだね。特別、なことだよ」
少し考え込む素振りを見せつつ言う。徐々に、教室中が静まり返っていく。清水が何かを口にするたびに、室内は彼女の空気に染まっていっているような、そんな錯覚に襲われた。
「清水さんにしては、何か歯切れが悪いね」
「うん……まぁね、ちょっと緊張、しててね」
苦笑いを見せながら言う。教室が静まり返った。「ごめん、やっぱ単刀直入に言うよ」。清水はそう前置きし、そして教室どころか廊下まで響くような声で、叫ぶように言った。
「夏目君! アナタのことが好きです! お付き合い、してください!」
教室のどこかからか、おぉ、という低い声が重なって聞こえた。誰かが机に体をぶつけた音が木霊する。
「え……おつき、あい……?」
「うん……お付き合い。私と、夏目君が……」
「僕が……清水さんと?」
歩生の口から漏れるのは、まるで言葉になりそこなった空気のような、つかみどころのない文字の羅列。対して清水が発するそれは、震えてこそいるものの、輪郭ははっきりとしていた。
清水は頭を上げる。顔は紅く染まりあがり、瞳には微かに水の粒が浮かんでいる。歩生の胸がちくりと痛んだ。
「……急にこんなこと言って、夏目君も困ってると思う。でも、私は伝えちゃったから……。いつになってもいいよ。決まったら、答え、教えてくれると嬉しいかな」
清水は歩生の顔を一切見ることなくそう告げると、駆け足で教室から出ていった。彼女が立ち去った後の教室には、彼女の残滓が色濃く漂い、しばらくその静けさが解かれることはなかった。
――清水さんが、僕のことを?
ここは夢の世界、すなわち案内人に連れてこられた迷路の世界であるということは分かっている。だが、だからこそ歩生は疑問に思う。前回の夢で、清水は佐藤に告白され、付き合うこととなったのではないか、と。現実世界ではそううまくは行かなかったが、少なくともこっちの世界では、二人は恋人であるはずだ。佐藤がいる場所へ、素早く目を向ける。
「……」
佐藤は黙って、こちらを見ていた。だがその表情に、現実世界で彼が歩生に向けたような感情は確認できなかった。平然を装っているのだとしたら、彼はかなりの演技上手ということとなる。だが、そんなことはないだろうと、歩生は自身の中で決めつけた。
目の前の空席となった机を見る。みんなが使っているものと同じ机の木目のはずが、彼女の席からは穏やかで温かい、人肌のようなオーラを放っているように思えた。
ずきっ。
胸の痛みが、増してゆく。
放課後になり、歩生は清水を呼び出した。いつか彼が見た景色のように、鮮やかな夕陽の斜光が、教室に強く差し込んでいた。他の教室には何人か生徒の姿も見受けられたが、歩生たちのクラスは、二人以外、既に下校しているようだった。
歩生は一人、教室で座って待っていた。清水からは、用事があるとかで少し遅れると連絡を受けている。ふと眺める外の風景は、普段と何ら変わりなく、そこで過ごす人々の日常を映し出していた。時が一分一秒を刻むのと同時に、歩生の鼓動は速度を増してゆく。自分の視界の中で動いている風景が、まるで現実のものでないように思えた。
「……にしても、清水さんがねぇ……」
意外でたまらない。そして何より、夢の世界では自分よりもほかに好いていた人物がいるのではないのかと。疑問は尽きない。
「返事……どうしようか」
あと数分もしないうちに彼女が来るのではないかと、心の中で軽い怯えの気持ちを感じつつ、彼女の想いにどう応えるか、未だに歩生は決めかねていた。喧騒の中で考えていても思考がまとまることはなく、それならば誰もいない放課後にでも、と一時的な結論を出したが、こうして静かな空間で思案に耽っても、全く状況は変わらない。夢のような橙色の靄が、逆に彼の心を茜色に染め上げているようだった。
歩生にとっても、清水は魅力的な女子である。もし、これが現実世界で起きた話で、この世界の通りに茜が居なければ、間違いなく、二つ返事で歩生は清水の告白を受け入れたことだろう。
「いや、でも……ここは夢の世界だから……」
もし仮に清水と付き合うこととなったとしても、現実世界にそれが引き継がれるわけでもあるまい。この世界でだけの、一時的な関係なのだとしたら、それはそれで良いのではないか。案内人は、「すべての夢には意味がある」というようなことを言っていた。ということは、どのように答えるか、というのも、現実世界での自分自身の生活において、何かしらの影響を与えるということなのだろう。
「……よしっ」
歩生の心の内は決まった。大きな太陽は山の向こうへと消えつつあり、霞がかった世界の色は濃く、黒くなってゆく。少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるのか、歩生の中で燃え上がっていた熱も、その風景を見て冷めかけようとしていた。
「ごめん、夏目君! 待たせちゃったね」
階段を駆け上がってきたのか、扉の横で立つ清水の息は切れている。苦しそうにあえぎながら、清水は歩生に笑顔を見せた。
「ううん、全然。気にしないで」
歩生の言葉を聞いて、清水はほっとしたようにさらに微笑み、前髪を揺らした。手に持っていた数枚のプリントを机に置き、その場に静かにたたずむ。
「補習?」
「違うよ」
「だよね。清水さんは頭良いし」
「全然だよ。夏目君の方が良いじゃない」
「僕だって全然。それじゃ、そのプリントは?」
「これは生徒会のやつだよ。急な会議をやる、って昼にラインが来てね」
「生徒会? 清水さんって生徒会だったっけ?」
「そうだよー。夏目君、忘れたの? 選挙で勝った時、私、ここで挨拶とかしたよ?」
「え? あ、いや……うん、そうだったね」
「ははっ、夏目君って時々そういうことあるよね」
冗談めかして清水は笑う。そして、その笑い声を最後に、教室はしばらく沈黙に包まれる。
「……私さ、ちょっと、憧れてたんだ」
教室の床に視線を向け、清水は少し強張った口調で言う。
「憧れてた? 何に?」
「今朝の……ああいう状況だよ。みんなの目の前で、誰かに告白するとか、されるとか。夏目君も知ってると思うけど、私って目立ちたがり屋だからさ、昔にドラマで観た現実ではありえないような風景とかに、素直に憧れちゃうんだよね」
僅かばかり、清水の顔には後悔のような、もしくは自分自身を呪うかのような色が見て取れた。「私って、馬鹿だからさ」。
歩生には分かっているつもりだった。彼女が、決して自虐による同情で想いを受け入れてほしいのではないということ。自身のそんな欠点に了承をしたうえで、首を縦に振ってほしいということ。
清水は確かに、クラスの中でもいい意味で浮いている存在で、時々余計なことをして先生に叱られている。でも、誰かに身を委ねる想いまで、彼女の行動と同じ種類のものであるとは思えなかった。教室に入ってから、一度たりとも目を合わせようとしないこと、いつもとは違う落ち着きのない動作が目立っていること、彼女の一挙手一投足が普段と違うことは、閉じていた歩生の心から流れ出ていた微かな光を、彼自身に自覚させることとなった。
じっと、歩生は清水を見据えていた。目を合わせてくれないことを知っていながらも、ずっと。それから一瞬だけ視線を外し、そして決意して再び彼女を見た。流れ出る想いと、それをせき止めようとする別世界での想いの狭間から、言葉を発す。
「分かった。清水さん、これからよろしくお願いします」
これでこの世界からも去ることとなるのだろうか……。良かったような悪かったような夢だったなぁ……。腰を折った時に思ったことは多すぎて、よく覚えていない。ただ、彼女の喜ぶ声と抱擁を受け入れ、その後誰もいない教室で何もしない時間を過ごしたことだけは、覚えていた。
学校の門が閉まるぎりぎりの時間に、歩生と清水は帰路を辿り始めた。一緒に帰るといっても、清水は電車通学なので、駅までのほんの十数分程度だ。手をつないだり腕を組んだりはしないものの、二人で並んで街灯が照らしだす道を歩いていた。
結局まだ、歩生はこの夢の世界にいる。この世界での目的は何なのだろうか。清水が楽しそうに歩生に話しかける中、彼はそんなことばかりを考えていた。
「ちょっと、ねぇ……聞いてる?」
そんな声と共に頭を掴まれ、彼女の瞳と対面させられる。いささか不機嫌そうな顔が目の前にあった。
「たまにはこっちも見てよー」
「あ、うん、ごめん……ちょっと考え事してた……」
「考え事? これからどうしよー的な?」
「うん。そんな感じ。ほら、僕って誰かと付き合ったりするの、初めてだからさ。そういうのわかんなくて」
しどろもどろになりながら、会話を続ける。
「そっか、夏目君も恋人とか初めてなんだ。それじゃ、私と一緒だね」
「清水さんも初めて? なんか意外」
「……高校入った時にもクラスのみんなに言われたよ。私ってそんなに遊び人のように見える?」
少し不服そうに清水は応答する。
「遊び人というか……ほら、清水さんって魅力的だからさ。それでみんな意外に思うんじゃない?」
歩生の中で何かが跳ねる。じわりじわりと拡散されてゆく。
「魅力的……魅力的かぁ。ははっ、嬉しいね、そう言われるのは」
歩生の言葉を素直に受け入れて、清水は快活に笑った。「そんなふうに言われたのは初めてだよ」。
「……そんなふう?」
「うん。魅力的、とかそんな言葉で、ってことね。そういう、プラスの意味の言葉を使って褒めてくれたのは初めて、ってこと。さっすが、私の彼氏さんだね!」
清水は笑顔を見せて、そしてすぐにつっと顔を逸らした。誰にも気に留められることなくアスファルトの隙間から伸びる細長い草が、視界の真ん中で踊っていた。
「ねぇ夏目君」
二人が別れる場所までもう少し。清水は変わらず明るい声で呼びかけた。
「なに?」
「折角私たち付き合うようになったんだからさ、名前で呼んだりしてみよーよ! いいでしょ?」
「……うん、そだね。付き合うことになったんだし」
意味も無さげに歩生は清水の言葉を繰り返した。二人の間をつなぐ関係が、熱を持って歩生の中をかき回してゆく。
「夏目君の名前は……歩生だったね」
「清水さんは……えっと、何だっけ?」
「紗奈だよ。清水紗奈。覚えててよ」
ごめんと謝る歩生の頬を、ひときわ強い光が照らした。学校から伸びる薄暗い道は終わり、幾多の光が飛び交う大通りへと辿り着く。「それじゃ、今日はここでサヨナラだね」。噪音に呑まれる紗奈の声が届く。
「……うん。それじゃ紗奈さん、また明日ね」
「紗奈でいいよ。名前にさんづけとか何かくすぐったいよ。それじゃね、歩生君!」
紗奈は走りながら手を振り、そして信号を渡って消えていった。歩生は振っていた手をおろし、彼女が向かった方向とは反対側へと歩き出す。
「魅力的、か……」
どうしてそんな言葉を発したのか、自分でも定かではない。強いて言うならば、本当に彼女の魅力が言わせた言葉なのだろう。彼女の魅力を否定などしない。むしろ、その感想は決して間違っているものではないと思う。
ただ、受け入れることができなかった。
誰かに対してそんな言葉を発した自分を、許すことができない。それに尽きる。




