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迷路と現実

 Real5


 翌日の昼休み、昼食を摂っていた歩生に話しかける一人の男子生徒の姿があった。小動物のようにおどおどと視線を動かし、その細い身は忙しなく揺れる。

「その、夏目君……相談があるんだけど」

「…………なに?」

 応答するまでに、異様な間が空いた。男子生徒はそれを少なからず疑問に思ったらしく、不思議そうな顔をするが、歩生は咄嗟の作り笑いで誤魔化した。一度、彼は唾をのみこみ、そして口を開く。

 男子生徒が話しているその間、歩生は殆ど彼の話を聞いていなかった。聞かずとも、内容は分かっていた。このタイミングで彼が話しかけてきた時点で、「もしや」とは思っていた。

 ――あの夢で見た内容は、正夢になるのだろうか。

 案内人は、そんなことは言っていなかった。だが、あんな不明瞭で曖昧な世界なのだ。そんな不思議なことが起きても、全くおかしくはないだろう。

「それで……もしよかったら……」

 額に汗を浮かべて、彼は話し続けていた。相談にのってもらうことを頼むだけでこんななのに本番はどうなることやら……歩生はそんなことを脳内で思い、微笑した。

「うん。今からだったら暇だよ。どこで話す?」

 ちょうど歩生は弁当を食べ終わったところだった。言わんとすることを先に言われてしまった男子生徒はしばらくその場で放心するように呆けた表情をしていたが、やがて我に返ると、「それじゃ、あまり人の来ないところへ」とだけ耳打ちし、歩生が夢の中でも来た場所へと向かった。

「その……僕は、彼女の事が好きで……」

 それから先は、彼の告白が続いた。夢の中で見た景色よりも、僅かに、彼の輪郭が濃く見える。全て聞き終えて歩生がアドバイスすると、彼はまさに太陽のように頬を緩める。その姿を見て歩生の心にも大きな安堵の気持ちが押し寄せ、こんなことを口走った。

「僕、実はこれと全く同じシチュエーションの夢を見たんだ」

 歩生の声は、ひとけの無い踊り場に高く響いた。無責任にどこかに飛んでいきそうなくらいに、それは高く、そしておぼろげだった。

「ホント!? それじゃ、この後……どうなるの?」

 躊躇いがちに彼は訊く。

「聞きたい?」

「……もし夏目君が言ってもいい、って思うのなら」

 目を泳がせて彼は言う。だが歩生は一歩彼に近づき、ぐいと真下からその顔を覗きこんだ。

「聞きたい? それとも聞きたくない? 君に任せるよ」

 先生みたいなことを言う。

「ちょっと待って」

 一旦、彼は目を閉じる。ここにいても、彼の心臓の、激しい鼓動が聞こえてきそうだ。自身の胸をそっと抑え、やがてまっすぐに歩生を見る。

「聞きたい」。そう、迷うことなく言った。

「分かった。それじゃ、心の準備は大丈夫?」

 その時、予鈴がなった。一層、二人の気持ちが急き立てられる中、歩生は高らかに宣言する。

「大丈夫! きっと成功するよ! 僕の夢の中では、二人は結ばれてた!」

 歩生の言葉を聞いた時の、彼の安心しきった、それと同時に腰が砕けてしまったようにへたり込んでしまった姿を、生涯、歩生は忘れることはできまい。今、この時が、二人にとって最高に幸せな時間となった。

 残りわずかである昼休みの間に、彼は意中の女子生徒と話し合い、放課後に会う約束をしたようだった。

「ちょっと不安だからさ、その……途中までついてきてくれない?」

 歩生たちの学校は、放課後だけは屋上が解放される。そこに彼女を呼び出したようだった。二つ返事で歩生は応じ、昼休みに会話したところで「それじゃ、後は頑張れ」と彼の背中を見送った。屋上への扉から覗く茜色の光が、彼の姿を眩しく浮かび上がらせる。重い音を立てて、扉が開いた。彼女は先に来ていたらしい。緊張した声が、微かに聞き取れた。

 まあ、大丈夫だろう……あんな不思議な夢の中で起こったことなんだ。正夢にぐらいならないとおかしいよね……。自分に言い聞かせるように心の中で繰り返しながら、歩生は自身の足元をころころと、どこへともなく転がっていく埃に目を向けていた。

 すると、ぎぎぎぃ、と頭上から鉄が軋む音が聞こえた。帰ってきたか、と素早く視線を向けると、そこに立っていたのは彼ではなかった。

 彼女の方だった。前髪を額の前で揺らし、澄ました顔で階段を一段一段踏んでいく。

「あ、夏目君じゃん。どうしたの、こんなところで? 一緒に帰る?」

 歩生に気づくと、そういつも通りの陽気な声で接せられた。想像と全く異なる状況に、思わず歩生もたじろいでしまう。

「え、あ、ごめん……僕はまだ用事があるから……」

「えー、そうなのー? せっかく久しぶりにお話しできると思ったのに」

 つまらなさそうに口を尖らせながら、でも片手をひらひらと振りながら、この場を去っていった。

 彼女の姿が見えなくなってから、歩生は息を潜めて屋上を覗き込んだ。別に音を殺す必要はなかったのだが、何となく彼の心中がそうさせた。何か、良からぬ気配を感じていた。

 もうすぐ夕陽も沈みそうになっている屋上で、彼は一人、フェンスにもたれかかっていた。その顔は、秋の空をそのまま映し出しているようだった。

「……嘘だ」

 歩生が声を掛ける前に、彼はそう呟いた。え? と反射的に出た声に、彼は怒鳴り散らす。

「嘘だ! 全部嘘だったんだっ! うまくいくとか! 大丈夫だとか! 心配いらないとか! 全部嘘なんだろ!!」

 涙と唾が飛ぶ。荒い息を吐き続け、彼は項垂れる。

「夢、って言うのも、嘘なんだろ……。正夢、とか言って僕をその気にさせて……」

 魂が抜けているようだった。さっきの元気な茜色に、全て吸い取られてしまったように。

「違う、それは嘘なんかじゃない。僕は確かに見たんだ。君が彼女に告白して、オッケーされた場面を見たんだ」

「……さっき、聞こえてたよ。二人が話している声……。どうせなら君たちが付き合えばいいじゃないか……」

 彼女の笑顔がよぎる。二人に見せる笑顔は、きっと同じ、はずだった。

「でも、僕は……」

 言いかけて、口を噤む。僕が好きな子は、彼女じゃない。僕は――。

 過去の日のように、自信を持って言えられれば良かったのに。勇気も度胸も、そして何かに頼る力も、全てにおいて歩生は彼よりも劣っていた。同じように想いを告げ、同じように胸を高鳴らせ、そして同じように涙した。

「……今でも、彼女のことは好き?」

 彼に嫌われるのは当然、そんな気持ちで歩生は訊いた。訊かないと。訊いておかなければならないと、感じていた。

「好きだよ。それは変わってない」

 ためらいなく彼は答えた。流水のように、美しく漏れ出た言葉だった。素直に響きを持って、歩生まで届いた。

「……そっか」

 なぜだろうか、言いようのない敗北感を覚えた。抱えた後悔が、胸の奥から凄まじい勢いでせり上がってくる。

 ゆらりと彼は歩き出す。歩生の横を通る時、一言だけ彼は残していった。

「所詮、夢なんて偽物なんだ」

 背後で、扉が閉まる音がした。茜色は消え去り、夜の薄闇が、彼を呑みこもうとしていた。



 学校からの帰り道を歩きながら、茜は何とはなしに空を見る。周りに誰もいない逢魔が時に、ふと立ち止まって周りを見回してみると、自分自身がいかに小さな存在か、そして、広がる風景がどれだけ広大かを、自身の身に刻み込むことができるような気がする。

 そういった意味では、夢の世界も同じかもしれない。真っ白で、何もない、案内人以外誰もいない孤独な世界だったが、決して嫌いではなかった。あの世界は、『誰もいない』、だからこそ孤独なのである。現実世界はそうじゃない。『孤独である必要がない』にも関わらず、孤独となる存在が生まれてしまう場所なのだ。そして、それに選ばれたのがたまたま茜であったというだけのこと。同じように感じる孤独があるのなら、夢の世界に居続けたいとすら茜は思った。

 毎日通る土手から、広がる風景を眺める。薄暗くなりつつある空と、灰色に浮かぶ雲の下にいると、普段は感じない、特別な寂しさが込み上げてくる。

「……ちょっとだけ」

 茜は自分自身に言い訳するように呟くと、道を外れ、慎重に、川面の方へと降りて行った。風に揺れる緑の小さな草の感触が、そして同時に少し柔らかい土の感触が、スニーカー越しにかかとまで伝わる。

 斜面となっている場所の中央ぐらいの位置まで降りると、そこに茜は座った。スカートや靴が無駄に汚れることなど、気にはしなかった。帰ってから小言を言われるかもしれないが、流しておけばいい。それよりも今は、「一人に」なりたかった。穏やかに流れ続けるそよ風は、同情するように茜の前髪を柔らかに揺らす。

「……きれい」

 真っ赤な太陽は、既に山の向こうへと姿を消していた。だがその残滓とでも言おうか、仄かに漏れる光の束が、賑やかな街のシルエットを艶やかに照らしつけていた。

 昔から、茜はこんな景色が好きだった。何かが何かに変わる瞬間、たとえば、夕焼けが夜に変わる瞬間、ただの知り合いだった人たちが、友達に変わる瞬間。小学校の頃は、そうとは自覚していなかったものの、いま思えば、その瞬間を感じようと、積極的に動いたこともあった。そして、同時に嫌いでもあった。良い意味で感じられることもあれば、もちろん悪い意味で感じてしまうこともある。昨日まで友達同士だった二人が、何かのきっかけでただの知り合いに変わってしまう瞬間。それもまた、茜が好きになってしまった「瞬間」に含まれざるを得なかった。

 やがて、茜の目の前にも夜が訪れる。遠く町の中心地から何とか届く淡い光だけが、ざわざわと揺れる木々を浮かび上がらせている。

 ここで眠れないかな。ふと、そんなことを茜は思った。同じ「ひとり」なら、夢の世界でそうありたい。学校での「ひとり」は、辛かった。自身が独りであることが寂しいのではない。自分が実は独りなのだと、そう「感じる」ことが、辛く、そして寂しかった。

 ついに茜はごろんと寝転がり、目を瞑る。葉擦れの音が、子守唄のように耳に届く。


 ――私は、辛うじて「独り」じゃなかったんだ……。


 そう思うと、すっと、心が軽くなる。そして同時に、重くもなった。



 彼が立ち去った後も、しばらく歩生はそのまま屋上に残っていた。高い場所から町を見下ろすように眺めていると、徐々にライトアップされて、明るい光に輝きだす夜の風景が、目にまぶしく映る。光による目の痛みなのか、それとも、抉られる心の傷がもたらす痛みなのか。どちらともつかぬ、切り傷のような鬱陶しさを感じつつ、夕陽が沈む瞬間を捉えていた。

 町は変わる。活気のあった昼間から、みんなが寝静まる静かな夜に。そして急激に冷たくなる。太陽に照らされていた温かな午後から、閑散さが広がる、色が失われた宵闇に。

 背中からフェンスに寄りかかり、そのまま視線を上に向ける。たった一つの白い電球だけが、歩生のいる場所を照らしている。

 自分の行動は、果たして正しかったのだろうか。何も経験せずに、ただアドバイスをしただけならば、彼は素直に首肯できただろう。歩生だけではない。きっと、ほかの大多数のみんなも、同じ状況に陥ったら、きっと頷くはずだ。だが、今の歩生は、そう簡単には頷けない。想いを告げ、それが報われない苦しみを味わったというのに、それを活かせなかった。被害者を増やしてしまったと捉えることもできる。誰かを一途に想い続けられること、それはとても幸せなことであって、同時に苦しいことでもある。世の中の恋人という関係は、そんな幸せを我が物にするべく成立したのではなく、もしかしたらこの先ずっと続くだろう心の苦しみから解放されるために、辿り着いた行先なのかもしれない。そして、その行先へと辿り着けなかった者は、さらに苦しい気持ちを味わうこととなる。前者でいられる人々は、ほんの一握りだ。歩生たちのような、結果の出ない気持ちに嘆く者たちの方が、圧倒的に多い。

 ならば、もし、真逆のアドバイスを歩生がしていれば、結果はどうなっただろうか。誰も、それまで以上の苦しみを味わうことはなかった。歩生はかつての失恋に心を痛め、彼は目の前の恋心に身を痛めるだけですんだ。自分がしたことは、余計なだけのことだったのだろうか。

「くそ……」

 戻れることなら、戻りたい。アドバイスをする前、とかではなく、もっと昔へ。一人ぼっちであることが、周囲から悲しいことと認識され、世の中もまだ分かっていない、無垢だった遠いあの日へ。あのころ、独りでいる人は、周りにはいなかった。誰かの笑顔の中に、誰かがいた。それが当たり前であると受け止められ、大した人間関係に悩まずに過ごせていた。喧嘩しても謝ればすぐに仲直りできた。誰かを好きになることはあっても、それは恋ではなかった。恋なんてものの存在も知らないで、それに悩まずにみんなと接せられる時は、今見ると、太陽以上に輝いている。

 青春なんて、まるで地獄のようだ。永遠に抜け出せない迷路を歩いているような気分になる。誰かとの関係に心を悩ませ、誰かと誰かの関係を壊し、誰かと誰かの関係を羨ましく思う。美しさなど微塵も感じない、粘っこくいつまでもこびりついてくる泥のような日々が、僕たちが過ごしている「青春」なんだ……。

 目の前を真っ暗にさせながら歩生は思う。立っていられなくなり、その場にぺたんと座り込んだ。

「……星が綺麗だ」

 何にも思っていないような星々が、今日も変わらず瞬いている。その合間を縫うように、点滅しながら進む光もあった。自然と目に映る何もかもは、とても美しく見えた。

 ぴゅうっと冷たい風が吹く。いればいいのに、と歩生が思う温もりは、隣にはいない。

 しばらく歩生はそのまま夜空を眺め続け、何度目かのくしゃみを繰り返した時に、学校を後にした。



「あのー……大丈夫ですか?」

 誰かの穏やかな、優しそうな声がかけられ、茜は目を開ける。薄暗い視界に、覗きこむ二つの顔があった。何回か目を(しばたた)いて、改めて二人を見る。どうやら親子らしく、母親と思しきまだ女子大生のような柔らかな顔つきの女性と、幼稚園の黄色い帽子を被っている少女が心配そうに茜を囲んでいた。

「え、あ、その……私、寝ちゃってました……?」

 慌てて起き上がりながら茜は尋ねる。女性は苦笑して「ええ、おそらく」と答えた。

「上の道を歩いている時に偶然見えたんです。初めは、もしかしたら病気とか怪我とかかも、と思って急いで見にきたんですが、どうも眠ってらっしゃるだけのようでした。でも、かといってこのままだと風邪を引かれるかも、と思ったので……声を掛けさせていただいたんです」

 制服についた草や土を忙しなく払う茜を見つめながら、女性は話す。

「すみません、本当に。心配をおかけしてしまって。その……本当に寝てしまっていただけなんで! お気遣い、ありがとうございます!」

「そうですか」

 茜の様子に安堵したのか、女性は喜ばしそうに再度笑い、傍らで黙ったまま茜を見つめていた女児の手を引いた。そのとき茜は、女児の体の至る所に生々しい跡が見えているのに気付いた。

「その……何かあったんですか……?」

 失礼かも、と思いながらも、茜の心の中に引っかかる何かがあった。欲望の赴くままに口が動いた。

 茜の視線を追って、女性が少し困ったような顔つきになる。

「ああ、この子ですか……。まあ、今日、ちょっと幼稚園で喧嘩に巻き込まれまして……」

 普段から血気盛んな子ではあるんですけどね、と苦笑して女性は言う。

 茜はしばらく考えたのち、目線を女児に合わせた。そして、帽子の上から彼女の頭に優しく触れる。

「……痛い? ……うん、そっか、大丈夫なんだね。それじゃあ」

 心の底から、漏れ出しそうな声があった。

「よく、頑張ったね」

 茜自身ですら驚くほどに、穏やかな声が出た。目の前にあるものを、素直に慈しみ、そしてまっすぐに愛おしく思えていた。女児は、驚きのあまり目を見開いてしまっている。だが、その強張った双眸が、ふっと柔らかくなる瞬間があった。「お姉ちゃん……?」と、その子は呟く。

「おね――?」

 思わず茜はオウム返ししそうになるが、それは女児の声に遮られた。

「やっぱり! やっぱりお姉ちゃんだ! あのね、あのときはありがとうね!!」

 そう叫び、女性の手を振りほどいて、茜に勢いよく抱きついてきた。

「え……? あの……どういうこと?」

「こら! お姉ちゃんが困ってるでしょ。離れなさい」

 女性にたしなめられ、その子は渋々といった感じで茜から離れた。それでも、視線はずっと茜に注がれたままだ。

「その……失礼ですが、私、この子とどこかで出会ったこと、ありますっけ?」

「あら、身に覚えがございませんでしたか? でしたら、人違いかもしれませんね……」

 独り言のように呟き、「実はですね」と話し始める。

「先ほども申し上げました通り、この子は今日、ちょっと喧嘩に巻き込まれてしまいまして。ついさっきまで病院で治療をしてもらってたんです。相手の男の子たちのグループも気が逆上していたのか、容赦なくこの子を攻めてしまいましてね。結構な怪我を負ってしまいました。担任の先生から簡単に説明を受けたのですが、この子がこれまでの怪我を負うこととなった理由の一つに、先生が喧嘩に気づくのが遅れた、ということがあったらしいんです。もっと早く気付けていれば、この子の怪我ももっと軽くなっていたかもしれません」

 重々しく女性は話す。だが、僅かに空いた隙間に、重なる女児の声があった。

「でもねでもね! たしかに先生はなかなか来てくれなかったけど、その代わりにお姉ちゃんが来てくれたの! かっこよかったんだよー! どこにいたのかは分かんないんだけど、きゅうに出てきて、『こら!』って私をいじめてた男の子たちを追っ払ってくれたの! もしお姉ちゃんが来てくれなかったら、って思うと、こわくなっちゃうよー」

 元気そうな声で女児は話すが、時折顔を顰めている。手で押さえている部分を軽く擦りながら、女性が「そうらしいんですよ」と苦笑しながら言う。

「今でも十分、この子は大きな怪我を負ってしまっていますが、そのお姉さんの力が無ければ、今よりもっとひどい有様になっていたかもしれません。この子も、そして私としましても、是非そのお姉さんに一言お礼を申し上げたいのですが……。なにぶん、先生がようやく駆けつけた時には既に姿を消してしまっていたらしくて……。あの、本当にお心当たりはございませんか? この子があんなにも反応していたので、もしやとも思ったのですが……」

 女性の瞳には、小さな嘆願の色が見えていた。

 茜も薄々気づき始めていた。きっとこの子は、昨日見た夢の中に出てきた少女なのだろう。あの時の姿と僅かに異なる点はあるが、トラブルの際の状況は殆ど変らない。

 だが、茜はあの喧嘩に巻き込まれていた子を、助けられてはいない。止めようと、一歩を踏み出した瞬間に、夢は終わった。既に靄がかかり始めている記憶をたどると、確か結果的に助けたのは先生だったはずだ。茜は一番近くにいながら、何もできていないただの傍観者にすぎない。

「もし、あなたがこの子を助けて下さった方でしたら、お礼は惜しみなくさせていただきます。その……どうでしょうか?」

「お姉ちゃんだよね!? まちがい、ないよ……!」

 夢と現実は、実はそれなりに似通った世界どうしなのかもしれない。だが、夢が現実となることはないはず。

 茜は再びしゃがみ、女児と目を合わせる。

「……いい? ちゃんと聞いてね」

 こくん、と素直に頷いた。

「うん、偉いね。まず、私はお姉ちゃんなんかじゃないよ」

「え……?」

「ちょっと言い直そうかな。私は、誰かの喧嘩を止められるような、頼れるお姉ちゃんなんかじゃないんだ。ただの子ども。自分の事しか考えない、わがままでひどい子どもなんだよ」

「……どういうこと?」

 女児の目の端に、小さな涙の粒が浮かびつつある。二、三度、茜は彼女の頭を撫でる。

「うーん、そうだな……。それじゃ、キミの名前、教えてもらえるかな?」

「どうして?」

「呼びやすくするためだよ。だめかな?」

「ダメじゃない」

 すっと洟を啜り、「ユカ」と、女児は答える。

「よし、それじゃあ、ユカちゃん。ユカちゃんは好きな子、いる?」

「みーんな、好きだよ!」

「……そっか。だよね」

 ついつい、過去の自分自身を重ねてしまう。こんなころもあったな、と胸のどこかから込み上がってくる、生温い波がある。

「ごめん、ちょっと訊き方を変えるね。ずっと一緒にいたい、って思う男の子はいる?」

「……ずっと、いっしょに?」

「うん、そう。ずっと一緒に。大きくなって、小学生になって、大人になってからも、ずっと一緒にいたい、って思えるような男の子。……ちょっと、難しいかな?」

 自身がユカのような「子ども」であったころのことを思い出しながら、茜は話し続ける。滲んだ町の灯りが、ユカの輪郭を暗く映し出す。

「ううん、むずかしくなんてない。ユカ、いるよ、お姉ちゃんが言うような、男の子」

「……そうなんだ」

 ユカは、清々しい笑顔で、茜をまっすぐに見つめ返していた。ひとたび茜は目を擦り、その笑顔と何かが抜けてしまった自身の心とを向き合わせる。

「今日、喧嘩してしまった男の子、っていうのは、その子?」

「ううん、ちがうよ。ユーくんはもっと優しいよ!」

「ユーくん、って言うんだ、その子」

 あっ、とユカは声を上げ、ほんのりと頬を赤らめた。「大丈夫。恥ずかしがらなくてもいいんだよ」と、宥めるように頭を撫でる。

「それじゃあ、ちょっと想像してみてね。もし、そのユーくんと喧嘩してしまったら、ユカちゃんはどうする?」

「……けんかなんてしないよ。ユーくんは優しいから。ユカとも毎日遊んでくれるよ」

「そっか。でもね、ユカちゃんがお姉ちゃんぐらいの歳になるまでに、絶対にそういうことは起こるんだ。これはね、大きくなるために、必要なことなんだよ」

「大きく……なるために?」

「そう。だから、ちょっと考えてみて」

 それからしばらくユカは黙って、考えていた。目を瞑り、時折首を横に振ったりしながら、自分自身の未来を想像しているようだった。数分の静かな空白の後、ユカは「お姉ちゃん」と呼んだ。

「どう? どうするか、思いついたかな?」

 うん、とユカは頷いた。だが、その声音は決して明るくはない。

「おもいついたけど……でも、やっぱりユーくんは優しいから……かんたんにはそうぞうもできなかったよ。それでもいい?」

 微かに、ユカの語尾が震える。「ごめんね、苦しくなるようなこと考えさせて」。いいよ、と答える前に、そんな謝罪の言葉が口をついた。

「お姉ちゃんが気にすることじゃないよ」

「……ありがとう、ユカちゃんの考え、聞かせてほしいな」

 ユカは再度頷き、茜を見た。

「ユカはね、すぐにあやまるよ。ユーくんといっしょにいられなくなることは、すごくさみしいもん! ユーくんは優しいから、きっとすぐに仲直りしてくれるよね!」

「……うん、ユカちゃんなら、きっと大丈夫。もう一つ、質問いいかな?」

 いいよ、とユカは答える。この時には、ユカは少し嬉しそうな表情で茜と会話していた。

「もしね、その優しいユーくんが、ユカちゃんと話もしてくれなくなってしまったとき……ユカちゃんなら、どうする?」

「それって、むしされる、ってこと?」

「……うん、そうだよ」

「それ、いじめっていうんだよね? おともだちのことをいじめちゃだめ、って先生いつも言ってるよ」

 ユカの純粋な美しさをもつ瞳に捉えられ、茜は思わず言葉に窮する。きっと、この子たちは、世の中にいじめなんてものが無いと、思い込んでいる。今の間はそれでいい。世界は、普通の日常であることこそが最も美しいのであると体感し、それをきちんと理解するまでそんな世の中が続くことを茜は心の底から願う。それが誰しもにとって理想の世界だから。みんなが幸せに、平穏に過ごすためには、それを越える解決策はない。

 美しい世界が変わる瞬間は、必ずどこかでユカをも襲う。それから逃げられる人はいない。いつか、現実を知る時がやってくる。彼女にだけは……そして、彼女の周りにいる大切なみんなには、来てほしくないと、字の如く涙を呑みながら茜は軽く拳を握る。

「想像、してみて」

 茜が言えたのはこれだけだった。「うん」とユカは素直に頷き、再び黙り込む。

 ごめん、と茜は心の中で再び謝った。純粋であるがゆえに、未来において苦労することもあるかもしれない。悪くないことが、悪人によって悪く思われる時が、いずれユカにも来るかもしれない。

 ごめんなさい、私はそれを止めることができない。起こるかもわからない未来の想像をさせて、ただ苦しめるだけになってしまったらごめんなさい。ユカちゃんは良い子だ。ユカちゃんに、そんな未来を見せるわけにはいかない。ユーくんと、そして大切な友達・・と一緒にいれば、私のような苦しい思いをせずに済むはずだから……。

「……お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」

 目を開くと、心配そうにのぞきこむユカの顔があった。

「私……泣いてた?」

「うん、ユカが思いついて、声をかけようとしたら……お姉ちゃん、こうして泣いてた」

 両手を自身の顔の前にかざして、ユカは茜の真似をする。

「そっか……ごめんね、大丈夫だから。それで、ユカちゃんはどうするの?」

 強く涙を拭い、洟を啜って、無理に作った笑顔で茜は問いかける。

「お姉ちゃん……笑わない?」

「笑わないよ。ユカちゃんが真剣に考えた結果だもん」

 ユカは安心したように微笑み、「ユカはね」と極めて明るく、そして優しい声で言った。

「ユカはね、ユーくんがユカと話してくれるまで声をかけつづけるよ! それでね、話してくれるようになったら、いっしょに遊びにいくの! それで、仲直りだよ!」

 ユカの笑顔は眩しすぎて……そして、いかに自分自身が醜く、穢れているかを茜自身に痛感させるようだった。ただ、その笑顔は守られるべきものだ。決して失わせてはいけない。

「うん。そうだね……」

 何度も何度も、茜はユカの頭を撫でる。ずっと繰り返していても、ユカは全く嫌な顔は見せず、されるがままとなっていた。

「もし、ユーくんと喧嘩したりしちゃった時にはね……ユカちゃんらしく、仲直りしてみせて。さっきの方法でもいいし、もっと別の、良い手段があるかもしれない。ユカちゃんが、『こうしたい!』って思う方法で、仲直りしてね」

 また、涙があふれてきた。自分もできたらいいのに。前みたいに、気軽に話しかけられたらいいのに。歩生が、自身のことをどう思っているかが分からない。距離感が全くつかめない。「これ以上嫌われたくない」、そんな気持ちが、茜の行動をとどめていた。

 ユカは、自分の頭に手を置いたまま身を震わせている茜を見、何気なく問うた。

「お姉ちゃんも、何かあったの?」

 茜の顔は紅くなっており、ひっきりなしに洟を啜っていた。幼い心なりに、心配になってしまう。

 茜はなおも撫でる手を止めずに、震え声で言う。

「……うん。お姉ちゃんも、色々あったんだ。ユカちゃんみたいなことがね……」

「よかったら、お姉ちゃんの悩み、ユカも聞くよ!」

 茜が息を呑む音が、吹く風の中、微かに聞こえた。永遠に続いていそうな暗闇の向こうへ、あてもなく飛んでいく。

「……ありがとう、ユカちゃんは偉いね。とっても、やさしいよ。私なんかよりよっぽどお姉ちゃんだよ……」

「ううん、違うよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんがどう思っていようとも、お姉ちゃんはお姉ちゃん!」

「……うん、そっか……っ。ごめんっ、ありがとう……」

 気づけば、茜の瞳からは、とめどなく涙が流れていた。何が嬉しかったのだろうか、何に喜んでいるのだろうか、泣きながら考えていると、一つの答えに辿り着いた。

 ――あぁ、誰かと話せていることに、安心しているんだ……。

 相手が誰だって良い。同い年でなくても、異性でなくても良い。ただ、自分と話してくれる誰かを、求めていたのかもしれない。茜はそう思った。

「ありがとう、ユカちゃん。こんな頼りないお姉ちゃんのお話に付き合ってくれて。お母さんも、長い間、失礼しました」

 茜は立ち上がり、ずっと二人のやりとりを見つめていた母親へと向き直る。

「いえ、お気になさらず。この子にとっても、大事な話だったのでしょう。この子、普段はあんなに真面目な顔で話すことはないんですよ」

 少し嬉しそうに母親はユカの頭を撫で、そして左手を差し出した。その手を、ユカは勢いよく握る。

「バイバイ、お姉ちゃん!」

 元気よく片手を振るユカに対し、茜も笑顔で振り返す。だが数歩進んだところで、唐突にユカが振り返った。

「お姉ちゃんも、確かに子どもっぽいね!」

 茜はその言葉に一瞬驚き表情が硬くなったが、すぐに元に戻った。女性が叱っているが、その声はもう既に彼方へと消えつつある。

「……私も帰るか」

 二人に背を向け、茜も歩き出す。帰路の最中、ずっと最後のユカの言葉を反芻していた。



 そう、私は子どもだ。ユカちゃんは私の事を「お姉ちゃん」と言ってくれたが、全然そうじゃない。

 ユカちゃんが思いついたことさえも思いつけないほどに、私は子どもなのだ。



 茜が丁度ユカぐらいの背丈だった時、茜はとても明るい少女だった。天真爛漫で、誰にでも気軽に話しかけることができた。それは小学校に入学してからも変わらず、初めて校門を親と共に通った時、とある歌のごとく、「友達百人作ろう!」とか思っていた。

 誰にだって声をかけることはできた。誰しもが、そんな茜に笑顔を向けてくれた。一言二言会話を交わし、そしてその後も友情は深まっていくものであると、幼い心なりに理解をしていたつもりだった。だがしかし、それ以降、茜と誰かとの関係が深まっていくことは殆どなかった。彼女が飽きっぽいわけではない。周りがそういうことに無関心だったわけでもない。大きくなって、あの時を振り返って考えてみると、その原因は「友達を作りたかっただけだから」ということとなるのだと、茜は思う。つまりは、友達ができればいいのだ。そのあとのことを、何も考えなかった。「この子は私の友達だよ!」とか、「学校で友達ができた!」とか、そんなことをほかの子たちや両親に誇ることができれば、それで満足してしまっていたのだ。だから、初めは茜に対して愛想の良かった子たちも、次第に茜の本音に気づきはじめ、徐々に身を引いていった。結局、小学一年生の時にできた友達は、両親にその存在を報告しただけで関係はほぼ終わり、学校で一緒に遊ぶことも、家に招いたり招かれたりして遊ぶことも殆どなく、茜は二年生に進級した。

 一年生の時に同じクラスだったメンバーも何人かいたが、多くは知らない生徒だった。一学年百数十人いた、それなりに大きな学校に通っていたので、一年間を過ごしても、全く話したことのない生徒も多くいた。自身から、胸を張って友達と呼べる存在が消えていた理由を知らなかった茜は、ここでも真剣に「友達を作ろう!」と思っていた。

 それでもやはり、茜の意気込みは空転を続けるのだった。一年生の時に同じクラスだった人も含め、ほぼ全員に話しかけた。愛想よく、笑顔で話しかけることをやめなかった。反応は、一年生の時と全く同じだった。結果的に、茜は孤立する。しかし幼い頭では、自身が置かれている状況が良くないものであるということを、きちんと理解することはできなかった。茜は、自分が相方を失った歯車のように、無為に回転していることに気が付くことなく、その日を迎えた。

 二年生になってから一か月半が経過した、ある暖かい日の事だった。一人の男子生徒が、茜に話しかけてきた。その時の言葉を、茜は大きくなっても鮮明に覚えていた。

「しのださんって、おもしろい人だね」

 その子は、そう言って茜に笑いかけた。前髪が彼の頭の動きに合わせてゆっくりと揺れ、丸みを帯びた柔らかい顔が、茜を捉えていた。

 最初、茜は「誰だっけ?」と思った。彼は、茜が話しかけていなかった三本の指に入る一人だった。理由はよく覚えていない。空気のように薄い存在だったからかもしれない。ただこの時、茜の中で固まってしこりとなっていた何かが、軽く「ぽすん」と外れた気がした。しばらく茜は黙っていた。返事をすることもなく、呆然と彼の顔を見つめていた。彼は「ん?」と言いたげな表情をして首を傾げる。

「しのださん、どうしたの?」

 クラスの喧騒の中、その微妙に高い声は、はっきりと茜の耳に届く。鳥のさえずりのような声だと思った。

 心の中で、ふぅ、と息を吐く。どこかへいった原因不明の蟠りを、二度と自分の体の中に作らないようにするために。そして、「真新しい、新芽をなびかせるような爽やかな空気を、自身の栄養とするために」。

「……ううん、何でもない。ごめんね! ぼーっとしちゃって」

 彼は安心したように微笑む。つられて茜の顔も和らいだ。

「ぼくのこと、分かる?」

「……ごめん、名前、おしえて」

 正直に言うと、クスリと彼は笑む。

「あゆむ、だよ。なつめあゆむ。これからは覚えててね!」

 言われなくても、忘れるはずはなかった。

 これから先、茜の想い出の中に彼の名前は、果てしないほどに刻まれてゆくのである。

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