迷路での幻想
Real4
茜は母親の呼びかけがあるまで、一時間ほど眠っていた。夕飯を食べ、再び自室に戻った時には、もう勉強をしたりする気力は残っていなかった。仕方なく本棚のマンガを物色し、目についたものを一時間ほど読んで、だがその最中も心の中のもやもやは膨れ上がり続け、ついには読んでいたマンガを放り投げ、その場にあおむけになった。動悸が激しく、体がおかしくなってしまったようだ。胸の辺りを何度か擦ってみるが、全く変化は見られない。
何気なくスマホを触り、そしてラインを開く。一番上に、歩生からのメッセージが表示されていた。そう言えば、一度彼との個人ラインを確認はしたものの、どう返信すればよいのか分からず、放置していたんだった。悪いことをしてしまったな……と思いつつ、やはり返信するのを躊躇ってしまう。既読無視されてしまって、歩生は私の事を嫌になってしまっただろうか。歩生とは長い間メッセージのやり取りを続けていたが、互いにそんなことはしたことがなかった。メッセージが来たときは出来るだけ早く返信していたし、何かの理由があって返信できない時は、きちんとその旨を伝えていた。
「裏切っちゃったなぁ」
歩生と仲の良い友人で、そして幼馴染であるための、一つの約束のようなものだった。画面が暗くなる。生気のない鏡の中の誰かが、自分をまっすぐに見つめ返していた。
「『普通に』、か」
歩生のメッセージを思い出して、反芻する。
「普通、か……」
普通になんて、出来るはずがない。気持ちを知ってしまった以上は、全く以前と同じように、とはふるまえないだろう。現に、今日の放課後がそうだった。
「……無理だよ……」
そんなことは返信できないので、だけど面と向かって言う度胸も持ち合わせていないので、その場にポトリと返事を落とす。
きちんと折り合いがついた時、ちゃんと返事するから……。意味のない、届かない答えを送り、茜はベッドへともぐりこんだ。
Dream3
「おや、新人さんかな? ようこそ、いらっしゃいませ!」
背後から声が聞こえて振り返ると、そこにはとても小さな少女が立っていた。
「珍しいねー、こんな短期間に、しかも同じような歳の子たちが来るなんて」
彼女は少しテンションが高くなっているのか、いつもよりも声大きいように思う。てくてくと歩き、茜の前でお辞儀した。
「改めまして、ようこそ、夢の世界へ! ボクはこの世界のオーナーみたいな存在で、『案内人』って言うんだ。よろしくね!」
驚いている茜を尻目に、案内には次々と説明をしていった。歩生と会話して得たことをそのまま活かし、案内人なりに考えた結果だった。最後に自己紹介を促され、茜は素直に応じた。
「キミは……いいや、アカネは聞き分けが良いね! この前に来た男の子なんてさー、何でか分かんないけど、これでもか! って言うほどボクに質問してきて。嫌ではなかったけど疲れちゃったよー」
苦笑しながら言う案内人を前に、茜は屈み、彼女と目を合わせる。せめてもの礼儀と思っての行動だ。
「えっと……まぁ、夢の世界とやらはまあまあ分かったんだけど、一つだけ質問、いいかな?」
「もちろん」と案内人は胸を張って答える。
「この夢の世界には、私みたいな歳の人たちも来るの? さっきの話を聞いていた限りでは、それなりに年齢を重ねた人たちが来てる印象を受けたんだけど……」
尋ねると、案内人は迷うことなく「うん」と頷いた。
「アカネぐらいの歳の子たちは結構来るよ。でも、今回みたいに二人連続で子ども、って言うケースは珍しいね。一人学生が来たら、何人か大人をはさんでまた……みたいなのが普通かな」
やっぱり学生時代は色々悩みもあるだろうしねー。能天気な声で案内人は言う。
「さて、ほかに質問はある? アカネは質問も少なかったら、今からでも早速『今日の夢』に行けるよ。ちなみに今目覚めたら、真夜中に一人ぼっちになっちゃう」
可笑しそうにくすくすと笑う。その幼気の残る笑顔を見て、なぜか茜の心は少しだけ軽くなった。
「うん。それじゃ……よろしく。案内人さん」
深く頷いて、案内人は茜を例の場所へと連れて行く。
「それじゃ、頑張ってねー!」
視界が焼かれている時、そんな案内人の元気な声が聞こえた。
次に目を開けた時、茜はどこかの敷地の中に蹲っていた。固い地面に、小さな砂が敷き詰められている。おずおずと周りを見回すと、幼い時によく遊んだものに似ている、雲梯や滑り台、ブランコが見えた。
靄が晴れつつある頭で考える。見たことも来たこともない場所だが、どうやらここは幼稚園のようだ。少し先に立つ平屋の建物からは、先生の必死な声と、園児たちの楽しそうに喚く声が微かに聴こえる。自分が入ってきたと思しき門の方を見ると、抜け出すことは許さないと言わんばかりに、その先は真っ白な世界に塗りつぶされていた。
茜はしばらくどうしてよいか分からず、とりあえず付近を歩き回ってみることにした。先ほど見えたいくつかの遊具に加えて、砂場、緑の木々の下に備えられた小さなベンチ、パンダやキリン、ゾウをかたどった遊び場が、場所を取りあうように狭い敷地内に設置されていた。
「ここ、どこなんだろう」
日本のどこかの幼稚園なのだろうか。それとも、夢の世界だけに存在する、架空の場所なのだろうか。見上げれば空は高く、白い雲が漂い、青い空はどこまでも広がっている。門さえ見なければ、ここが夢の世界とは思えぬほど、現実味を感じさせる風景だった。
その時、建物から軽やかなメロディが聞こえてきた。それとほぼ同時に、ドアが勢いよく開き、何人もの園児が、グラウンドに向かって飛び出してきた。ヤバっ、と茜は思ったが、すぐ近くに身を寄せられそうな遮蔽物は見当たらない。仕方なく敷地の端っこまでダッシュし、草木の影に隠れておくことにした。
茜の視線の先では、十数人ほどの男児が、遊具を使って遊んだり、鬼ごっこをしたりしている。女の子は、元気に走り回る男児から離れた場所で、静かにままごとをしていた。園児たちを見守る先生の姿は確認できなかったが、どこにでもある、きわめて平穏な幼稚園の光景の一つだった。
茜は覗かせていた頭を下ろし、その場に座り込む。いいなぁ、と純粋に思った。悩みもなさそう。ここは、先生の言うことを聞いていれば、ずっと楽しく過ごせる場所だ。派手に喧嘩をしたり、「絶交!」とか高らかに宣言したりしても、気が付いた時にはそんな記憶は他の色んな思い出の渦に呑みこまれていて、次に出会った時には、きっと笑い合えている。それが、幼い時という、今の茜には二度と帰って来ない、大切な、そして最も慈しむべき時間だった。
ふと、また鼓動が早まっているのを感じた。茜は放心したように空を見上げる。一度早まってしまえば、時が解決してくれるのを待つしかない。彼の事を忘れるまで待つしか、方法はないのだ。
ため息に乗っかって、園児たちの高い声は、相変わらず背後から大きく響く。いつまで私はここにいれば良いんだろう。現実世界では、もうそろそろ朝なんじゃないかな? ここ数日は遅刻ギリギリだが、あれはわざとやっていることだ。慌てて朝の準備をすれば少しは気が紛れるかもしれないが、本当に遅刻して、心配をされたくない。真昼間の太陽が、じりじりと茜を焦がしつけている。
そんな時だった。突然、今まで聞こえなかった女子の声が聞こえた。和やかに話しているような、日常の声ではない。何かに怒り、そして悲しんでいる、痛々しい声だった。気になった茜は再び顔を上げ、声の主を探した。
あそこだ。先ほど、ままごとをしていた数人の女子たちのグループ。架空の家庭の幸せは既に消え去り、一人の女子が、数人の男子を前に、闘志をむき出しにして怒鳴っている。残りの女子は、そんな女子の後ろで怯えて――いや、違う。
女子の一人は、泣いていた。それを、一人が宥めている。少し視線を違う所に向けてみると、彼女たちから近い場所に、茜たち高校生もドッジボールなどで使う、柔らかいボールが転がっていた。
「だから! アンタたちのボールがこの子にぶつかったの!! あやまりなさいよ!!」
女子たちのリーダーなのか、物おじせずに、仁王立ちする女子は男子に向かって叫ぶ。どうやら、男子たちが使っていたボールが女子の一人に当たったらしい。だが男子の先頭に立つ子は、全く聞く耳を持っていなかった。男子の声は小さくて正確には聞き取れなかったが、その後の女子の言葉から察すると、「お前らがここでままごとしてる方が悪い」とのようなことを口にしたのだろう。男子の態度を前に、女子の怒りはさらに膨れ上がった。
「いいかげんにしなさいよ!! 先生よぶからね!!」
ついに女子がそう言う。先生、という単語に、男子は過剰に反応した。しばらく黙ったのち、男子のリーダーは茜が予想もしなかった行動へと移った。
「大丈夫?」
女子の口が、背後でなおも泣いていた子に向かって、そう動いた時だった。男子たちは、女子のリーダーへ向かって、一斉に襲い掛かったのだ。口封じ、ということだろうか。何すんのよ! 涙交じりのくぐもった声が、渦中から聞こえてくる。殴られている当の本人はもちろん、辛うじて暴力の被害には遭っていない女子からも、「やめて!」という声が飛ぶ。だがそれで素直に引く男子ではなかった。止めることなく、攻撃はエスカレートしていく。
茜は、その光景を見て、思わず固まってしまっていた。私は、ここで止めに行くべきなのだろうか? だが、なぜここにいるの、と後で訊かれれば、どう答えてよいか分からない。時折男子の影から僅かに見えた、殴られている女の子の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。しかも、赤い液体も落ちている気がする。恐怖のあまり、残りの女子たちは、声も出せずに、先生も呼べずに、その場で震えているだけだった。
どうしよう、どうしよう。多分ほかの園児がもう先生を呼びに行っているはずだ。その証拠か、グラウンドにいる園児の数は見るからに減っている。だからこのまま放置していても、もうすぐあの子は助けられる。でも、でも……。万が一のことがあったらどうしよう。気づいているのに、あの男子たちより確実に力はあるのに止めようとしなかった私の責任となるのではないだろうか。ううん、もし大丈夫だったとしても、私はきっと後悔する。「助けようとしなかった」、その事実は、心の中で蠢き続ける。
意を決した。再度、空を見上げる。現実世界に帰ったら、一度ちゃんと空を見よう。そんなことを思った。
茜は飛び出した。「止めなさい!」そう言おうと、口を開けようとした。
「こら!」
違う声が飛んだ。えっ……と空気が喉を通り抜けるのを感じながらその方を見る。若い女性が、喧嘩を止めていた。男子たちは女子から引きはがされ、頭を押さえて蹲っている女の子が現れる。鼻や口からは血が流れ、体じゅう砂だらけになっていた。
伸ばした手が、ゆっくりと落ちる。安堵なのか、自分への怒りなのか。涙が頬を伝った。その場にいた誰もが茜に気が付く前に、茜はその場所から退去「させられた」。
視界が白くなる寸前、抱き起された女の子の姿が見えた。なぜか、目が合ったような。そんな気がした。