迷路へのきっかけ
Real3
不思議な夢を見たからといって、気分が変わるわけでもない。案内人と話している時こそ、心の中は穏やかであるように感じたが、学校が近づくにつれて、歩生を締め付けるものは、再びその強さを深め始めていた。
「おはよー」
つい俯き気味に教室に入ってしまう。覇気のない姿と声で登校した歩生を見て、近くにいたクラスメイトが「大丈夫か?」と声をかけてくる。
「うん……ありがと」
歩生は精一杯笑ったつもりだったが、クラスメイト達は、どこか躊躇いがちに声を漏らす。やがて、彼の前から姿を消した。
着席し、教室内の喧騒に揉まれながら、茜の席を確認する。今日も今日とて彼女はまだ登校していないらしく、高らかな笑い声を上げている女子たちの背後で、ぽっかりと穴が空いたように存在していた。
「夏目くん」
ぼーっとしていた時に呼びかけられて、つい歩生は肩を跳ねあがらせてしまう。バクバクと音を立てている心臓を抑えつけつつ振り返ると、そこには美樹が立っていた。
「あぁ、小川さんか……どうしたの?」
急に声を掛けられたのにもそうだが、まず歩生は、美樹が自身に話しかけてきたことに驚いていた。二人は、別に仲が良いわけでもなければ、悪いわけでもない。授業の都合で同じ班になったりすれば多少は会話を交わすが、普段から頻繁に何かについて話すことは殆どない。茜とは仲が良いようだが、三人で行動を共にしたことは一度もなかった。
「どうしたの、じゃないよ! てかソレ訊きたいのはあたしのほうだよ。最近、夏目くんどうしちゃったの?」
茜から話を聞いたりしたのだろうか。隠しても無駄であることは安易に想像がついたが、歩生はしらばっくれた。
「別に、いつも通りだよ。どうもしてないよ」
目が泳ぐ。それと同時に美樹も移動し、彼の前に立ちふさがった。
「本当に?」
「本当に」
「あたしの目を見て言ってほしいな」
「本当だよ」
「やっぱり逸らしてる!」
「……小川さんは、茜が心配なの?」
ふと歩生が語調を変えると、驚いたように美樹は黙った。歩生の瞳を捉えていたメガネの奥の双眸をやや細め、ゆっくりと顔を上げた。
「……もしかしたら、茜も最近調子悪い?」
自分は何を言っているんだろう。歩生は思った。まるで、茜が他人のようではないか。いや、他人であることに違いはないのだが、何かが違う。茜に対して恐怖心のように覚える「他人」は、自分が普段思っているソレとは遠くかけ離れている。彼女は、特別な「他人」だ。それが、今この言葉を放った瞬間に、一気に色あせてしまったように感じた。
「……もしかしなくてもそうだよ。昨日、一緒に帰ったんだけどね。いつもの茜と全然違うの。何か、何て言うんだろ……」
美樹は、昨日の出来事をつらつらと話した。
「もうちょっと、強く言ってでも頼らせるべきだったんじゃないか、って今では思ってる。あんな茜、初めてだったから……。茜が今の状態でいいのか、とても不安だよ」
左手で自身の右腕を強く握りしめ、唇をかむ。歩生を見下ろす形で立ち尽くす彼女の瞳は黒く濁り、茜と同じように淀んでいた。
「夏目くんもこの前から何か様子が変だからさ……。二人は幼馴染なんだよね? もしかしたら何か分かるかも、と思って話しかけたんだけど……」
歩生は静かに首を横に振った。「そっか……急にごめんね、ありがと」と言い、美樹は立ち去った。再び一人になった歩生は、盛大にため息を漏らして、机に突っ伏す。
茜は、今日も遅刻ギリギリに登校してきた。ひどく疲れた顔をしており、授業中も居眠りで注意されていた。茜にしては珍しい光景だと、歩生はその背中を見、胸のざわつきを感じながら思った。
終わりのショートホームルームで、掃除が終わったら職員室に来るように、と茜は担任に言われた。また、「夏目君も教室に残っていて下さい」と担任は付け加えた。
仕方なく、居残ってその日の復習をしている人がいる中で、歩生は一人何をするでもなく待っていた。美樹は、帰り際に「呼び出し、お疲れさん」と、同情の色を含んだ笑みを見せて、下校していった。
三十分ほど待機していると、茜が教室に戻ってきた。歩生とは目を合わせようとせずに、俯いた姿勢のまま自分の席へ向かって鞄を手にする。
「茜……」
僕も行ったらいいの? そう聞こうとして小声で呼びかけるも、反応を見せない。仕方なく歩生も鞄をひっつかみ、茜を追って廊下へ出た。
小走りで彼女の背後に立つ。相変わらずその後姿は暗澹としているが、心なしか、茜は歩く速度を遅めたように見えた。歩生はそのまま茜の横に並び、足音が響く校舎の中を歩く。
「――――」
刹那、真横にいる歩生にすらも聞き取れないような小さな声で、茜は何かを呟いた。え、と歩生は聞きかえすが、茜は顔を伏せて、何か怖いものから逃げるような足取りで、階段を駆け下りていった。歩生の視界から茜が消えた時、「先生、職員室で待ってる」と声だけが飛んできた。
たたた……と、彼女の残滓が消えていくのを、歩生はしばらくその場で耳にしていた。頭上に申し訳程度に設置されている窓から、夜の闇に呑まれつつある夕陽の橙が、悲しそうに歩生を見下ろしていた。
担任からは、今日の茜の不調についていくつか質問をされただけだった。「幼馴染の夏目君なら何か知ってると思って」。美樹と同じことを、若い女性教師は言った。
また何か気になることがあれば、先生に伝えます……。そう言い残し、逃げるように歩生は学校を去った。
自室に鞄を放り投げると同時に、茜はそのまま倒れ込んだ。ふかふかのクッションが、彼女をやんわりと包み込む。ずっと前に、歩生と近くのゲーセンに遊びに行ったときに取ったものだ。最近手入れをしていないせいか、少し臭う気もする。週末にでもファブリーズしよう……。回らない頭でそんなことを考えた。
今日は二日ぶりに歩生と横に並んだ。そして会話を交わした。あれを会話と呼んでいいのかは茜にも分からなかったが、とにかく彼に対して言葉を発した。ただそれだけのことに、自身の中の迷いのような気持ちがどんどん膨れ上がっているのを感じる。
「私……変な子だな……」
今日の……特に放課後の自分の姿を脳内で動かしてみて、無意識のうちにそんな言葉が漏れた。挙動不審も甚だしい。相手が歩生でなければ、二度と関わりたくないと思われかねないだろう。
「茜ー、お弁当出しちゃってー」
階下から母親の声が届く。正直、動くのも気だるかった。出来ることなら、夕飯までの一時間ほどは、こうして寝かせておいてほしい。
「茜ー! 聞こえてるー!?」
このまま黙っていようかとも思ったが、余計に面倒な事態になりそうだ。重い身体を動かし、部屋を出る。
「……アンタ、目の下にクマできてるよ? ちゃんと寝てる?」
台所で夕飯の準備をしていた母親に、そんな心配をされた。
歩生と話せないでいること……そして、歩生に告白されたことは、両親には伝えていない。
「うん、大丈夫……だとは思うけど、眠いからちょっと寝かせて。ご飯できたらまた呼んでよ……」
もし、私は歩生に告白された、と両親に伝えれば、きっと二人は素直に喜んでくれるとは思う。茜と歩生が仲良くなってから、親の間でも浅からぬ交流が為されてきた。二人も歩生の人となりは十分に知っているので、少なくとも嫌な顔をされることはないだろう。
だが茜は、そのことを正直に両親に伝えることができなかった。私が今、二人の前で宣言すれば、確実に二人を困らせてしまう。
部屋に戻って灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ。意識が飛ぶまで、茜は歩生の事を考えていた。どの景色も色鮮やかで、それは色あせることはないと、根拠もない夢をどこかで信じ切っていた。
ゆっくりと、茜は眠りに落ちた。そして、不思議な夢を、見たような気がする。