表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

迷路への道のり

Real 2


 歩生と茜の幼馴染という関係は、クラスのみんなが知っている。二人がわざわざ主張したわけではなく、同じ中学校から進学した友人が、言いふらしただけの事だ。中には、特別な関係なのかと邪推してくる者もいたが、気にも留めずに否定していた。過去にそういった関係に至ったこともなければ、この先進展するつもりもなかった。只々、友人として高校の三年間を過ごし、その先の将来へと進んでいく予定だった。茜はもちろん、歩生もそう思っていた。

 歩生が教室に入ったと同時に、近くにいた男子生徒が声をかけてくる。

「おはよー。……あれ、今日は一人?」

「うん。まぁ……色々あってね。僕だけなんだ」

 懐疑的な表情を浮かべられる。

 高校生活も一年が過ぎた今、クラスメイトにとっても、歩生と茜は二人でワンセット、というような扱いとなっている。毎日二人で登校してくるし、帰る時も同じだ。歩生の隣に茜がいない光景というのは、きわめてまれな状態と言えるだろう。

 茜の席を見ると、彼女はまだ来ていないようだった。鞄は見当たらないし、何より上げられた椅子がそのまま。次々と登校してくるクラスメイトによって、その空席はかき消されてゆく。

 結局、茜は遅刻ギリギリに教室に現れた。だが、慌てている様子も、狼狽えている様子もない。この時間に到着するよう、きちんと調整されているように思えた。

 一時間目の授業が始まるまでの間、茜は誰とも喋らずに、自席で静かに過ごす。すぐ後ろで高らかに笑っている女子たちの会話には、興味など全く示さない。切り離されたエリアで生きる、孤高ここうの存在であるかのように。いつもの歩生なら、そんな茜に笑顔で話しかけている。

「ねぇねぇ、茜ー」

 茜の周りに漂っていた暗澹あんたんたる雰囲気に差し込む、眩しい光があった。彼女を見て、固まっていた茜の表情は、少しだけ和らぐ。「なに?」と、それでも大きく表情は変えずに、茜は対応した。

「今日はどうしたの? もしかして寝坊? 茜にしては珍しいねー」

美樹みきはいつも早すぎるんだよ。今日だって、どうせ始発で来たんでしょ」

「ん、まーねー。誰もいない教室で本読むのとか好きだし」

「私には分かんないよ、その気持ち」

 他の女子と話す時よりも、幾分か茜の表情は自然だ。歩生は、いつもそう思っている。

 茜の数少ない女子の友達である、小川おがわ美樹は、これまた茜と同様、決して派手なわけでも、クラスで目立つタイプの女子でもない。敢えて言うのであれば、茜よりは社交的、というだけであろうか。薄い、赤淵メガネの奥にはやや幼い瞳が笑っており、きっとコンタクトにすれば男子からの評判も上がるのではないかと思わせる容姿が、茜の前で光を放っている。セミロングの長さを短く一つにまとめた黒い尻尾を揺らしながら、なおも美樹は茜に話しかける。

「それで、結局寝坊なの? あ。あと、今日は夏目くんと一緒じゃなかったね。なんで?」

 無邪気に問いかけてくる美樹に、茜は暫し彼女から視線を逸らし、黙してしまう。思わず、机の下でグーを握ってしまっていた。自分の中の逡巡や恐怖が、その中で握りつぶされて、消えていく。

「……う、うん! まぁー、色々あって寝坊しちゃったんだ。それで、今日は歩生くんとは一緒に来れなかったの」

 必死に作った苦笑いを押し出しながら、茜は微かに震える声で話をつなぐ。

「ふーん。まぁ、茜は真面目だしね、大方、授業の復習とかしてたんでしょ」

 気が動転して眠れなかったなんて言えるはずもない。「う、うん。実はそうなんだ」と茜は誤魔化す。時計を見ると、チャイムが鳴るまで残り時間は僅かだった。

 もう一時間目始まるよ、と告げると、美樹はすぐに自席へと戻っていった。一人になって、ようやく茜は深い安堵の息を漏らす。

 早く忘れようとしているのに。美樹と話していると、どうしても、あの夕焼けの中の光景が鮮明に浮かぶ。自分でも分かっている。あれは忘れられるようなものじゃない。私のような、地味で、社交性のない女が、人生で一度経験できるか否かのビッグイベントだったのだ。しかもその相手は、長い年月を共に過ごしてきた仲の良い幼馴染。すっかり忘れられたら、それは人間としてどうかと思う。

 授業中、後ろ寄りの歩生の席を、一瞬だけ見た。一見、真面目に授業を受けているような印象を受ける。だが、どことなく気が散っているように見える。普段の歩生とは違う。授業に参加しきれていない、苦しそうな表情が垣間見えた。

 ほんの僅かな時間でも、その違いは、茜には一目瞭然だ。

 これまで授業中に見た彼の姿は、そのたび濃く、茜の記憶の中に刻み込まれている。



 午前中の四時間、歩生と茜は一言も会話することなく過ごした。初めの内はからかい交じりで二人に話しかけていた生徒もいたが、時が経って、彼らの間に流れる空気が本物であると気付くと、いよいよ二人は孤立したかのような存在となり始めた。元々、二人とも友人が多い方ではない。休日や放課後に遊びに行ったり、テスト前に共に勉強したりする相手は極めて少なく、互い以外、ほぼいないと言っていい。歩生から漏れ出る寂寥感に、茜が放つ緊張感に、クラスメイト達は、近づく術を失っていった。

 だがそんな中、美樹は茜へと接触していた。五時間目と六時間目の間の休み時間、彼女は教室を出た茜の後を追った。

「あかねー、トイレ? 一緒に行こうよ!」

 茜はゆっくりと……少し億劫そうに振り返る。強張っていた顔は僅かに破顔するが、それでもいつもの彼女とは言い難い。

「トイレじゃないけど……うん、いいよ」

 廊下のざわめきに掻き消されそうなほどか弱い声で、茜は返事した。

「だったら、どこ行くの?」

 見ると、茜は片手にプリントの入ったファイルを抱えている。大体の予想はついた。

「さっきの授業でわかんなかったところを、ちょっと先生に訊きにね。グダグダしてたら質問するタイミング逃しちゃって」

 苦笑して言う。

「へぇ、珍しい。そういう時は授業終わったらすぐに飛んでいくのが、茜なのに」

 美樹は素直に驚いた。その驚きと共に、やはり込み上げてくる大きな違和感が、彼女にはあった。美樹は、一つ唾を呑みこみ、重い口を開いた。

「……あのさ、茜」

 うん? と茜は小首を傾げて美樹を見る。さっきまであった影は、少しその色を薄めつつあった。

「茜……今朝からどうしちゃったの? 何かいつもの茜らしくないけど……。やっぱり体調、悪かったりする?」

 後半になるにつれ、なぜか美樹は茜の顔が見られなくなっていった。一種の恐怖だったかもしれない。余計なことに首を突っ込もうとしているのではないか。今の茜にとっては、触れてはいけない爆弾のようなものであったのではないか。そういった感情は、口に出してしまってから急速に込み上げてくるものだ。

 茜は、すぐには答えなかった。おずおずと彼女を見ると、口を真一文字に結び、だが瞳はゆらゆらと揺れながら薄黒い床を見つめている。職員室の前に辿り着き、ようやく言葉を発した。

「やっぱり、って……美樹は朝からずっと、そんなこと思ってたの?」

「うん。思ってた。だって変だったもん」

「そうかな? 私はいつも通りに振舞ってたと思うんだけど」

 よどみなく茜は答える。とても美しい演技だった。

「……夏目くんは、どうしたの?」

 ぴくり、と茜の肩が動いた。二人の間を通ろうとする生徒がいるが、茜は気づいていないようで、全く動こうとしない。魔法がかけられているようだった。

「――」

 茜の口がパクパクと、形だけで何かを告げた。それは一瞬のうちに消え去り、茜は「先生」と、職員室の中に向かって呼びかけていた。美樹はひとまず、その場を通ろうとしていた生徒に道を譲ったのち、茜の視界に入らぬようひっそりと退散した。

 トイレへの道のりを一人で歩きながら、先ほどの茜の口の動きを思い返す。


 べ、つ、に。


 その動きはとても大きく、読唇術など得ていなくても、容易に読みとれるものだった。

「別に何ともない、か……」

 そんな感じには全く見えないけどな。溜め息を吐きつつ美樹は思う。思いながら、美樹は、自身の心臓が強く脈打っているのに気が付いた。

 悲しんでいるような、それでいて怒りを垣間見せていた茜の表情。それを見た時、美樹は、何かにいきなり縛り付けられたような感覚に襲われた。茜から離れ、軽く深呼吸すると、すぐにそれは治まった。だが、脳裏にはあの鋭い茜の姿がこびりついて離れない。

 いつも控えめな笑顔ぐらいしか見ない美樹にとっては、あの表情は極めて珍しいものだった。だからこそだろうか。言い知れぬ威圧感による恐怖心が、密かに込み上げているように思えた。



「茜ー! かーえろっ!」

 放課後、清掃中で忙しなく生徒たちが行きかう校舎内を一人で歩いていた茜に、美樹は気力を振り絞り、元気よく声を掛ける。振り向いた茜には、やや気まずそうな色が見て取れた。

「……テンション高いね。何かあったの?」

 結局、職員室前で会話して以降、互いに話しかけるチャンスを逃してしまい、会話できずにいた。茜が一人になってしまう放課後を狙って、美樹は話しかけたのだった。

「まーね! 別に何か良いことがあったわけじゃないけど!」

「……時々、美樹のことがわかんなくなっちゃうよ」

 靴を履きかえて、帰路を辿る。

 しばらくは、美樹も茜のことを気遣って、たわいもない世間話で時間を潰した。どんな話をしても茜の表情がいつものように晴れることはなかったが、それでも耳は傾けていてくれた。時々、控えめな笑顔も見せてくれる。

「ねぇ茜。今日はこっちの方、通ってかない?」

 美樹が指さすのは、左ななめ上。そこには、市内を流れる川に造られている堤防があった。時間に余裕がある時などは、そこを歩いて帰ることもある。いいよ、と答えた茜を連れて、二人は堤防へと進んだ。

 少し高いその場所からは、オレンジ色の光が町じゅうを包んでいる光景が、よく見える。絶えず流れ続けている川面(かわも)に光は反射し、ダンスステージのように、彷徨う二人の姿を照らしだしていた。

「何かちょっと落ち着くよね、ここ」

 特に意味も無く、美樹はそう発していた。冷たさの混じった風を、ほかの場所よりも強く感じる。川沿いに茂っている雑草も、それに合わせて低い旋律を奏で、やや臭みの混じった香りを、堤防まで飛ばしてくる。美樹は、この場所が決して嫌いではなく、むしろ好きだった。

「うん……そだね」

 風に掻き消されそうな、そんな生返事。爽やかに撫でる、流れの音がある。

 その後は、しばらく二人とも黙ってしまった。心なしか、夕焼けが町を染めているそんな景色を見ていると、次に発すべき言葉が思いだせなくなってしまう。真っ赤な塊にすべての感情を吸収されてしまったかのように、その風景に心を奪われる。

「……元気、出しなよ」

 何も喋らない茜を横に、そんな状況の美樹が言えた限界の言葉だった。

「うん……ありがと」

 途中、ランニングをする男性と、そして幼稚園ぐらいの子どもを自転車の後ろに乗せた

母親とすれ違った。みんな、境遇こそ違えど、「生きていた」。とても活動的で、まさに今を「生きていた」。そんな彼らを見て、少し勇気づけられ、同時に友人としての義務感のようなものを、美樹は覚えた。

「茜」

 強気な声が出た。美樹自身も驚くぐらいの。

「……なに?」

 今にも泣きだしそうな声だった。少しおびえてしまっているかもしれない。

「夏目くんと何かあったんでしょ」

「……」

 茜は動じない。

「あたしの予想が外れてるんだったら、別にそれでいいよ。でも、それはまずありえない、って確信してる。茜らしくないもん。確かに茜はいつも静かで、クラスでもそんなに目立つ存在じゃなくて、引っ込み思案な子だけどさ」

 前髪を自身の目の前にだらんと垂らして、茜は黙っていた。とぼとぼと歩くその姿は、既に魂を抜かれているようにすら思えてしまう。

「それでも茜はいつも元気だった。こっちが話しかければちゃんと対応してくれるし、笑ってもくれる。今日の茜にはそんな……なんて言うんだろ、覇気? みたいなものがなかった。……あたしだって心配になるんだよ。何かあったんでしょ? お願い、教えて」

 懇願する。只々、大切な親友を助けたい、心の支えとなりたい。そんな一心だった。純粋な想いが美樹のどこか深い場所から勢いよく込み上げて、あふれ出しそうにすら感じた。

 だが次の瞬間に、茜は駆け出していた。何も言わず、頼ることも怒ることも、涙することもなく、美樹の前から消え去ろうとしていた。思わず美樹は「あっ」と声を上げ、手を伸ばす。留め損ねた彼女の背中は、見る間に紅く染まってゆく。

 空を切った右手をゆっくりと下ろし、目を細め、まっすぐに続く道を見つめる。既に茜の姿は、地平線へと溶け込んでいた。

 美樹の知らないどこか遠い場所へと、小さな女の子は、旅立ってしまった。



 *


 心臓の鼓動が、相変わらず耳元で大きく響いている。落ち着こうと何度も深呼吸を繰り返した。だが胸の苦しさは治まることなく、刻一刻と悪化しているようにも思う。歩生は本日何度目かも分からない落胆の息を吐いて、ベッドへと腰を下ろしていた。

 ラインを確認してみるも、当然ながら茜とのやりとりに変化は見られない。宿題も、そのほかの勉強もやる気が起きず、放課後はずっと部屋で意味のない時間を過ごした。

 このままじゃいけないことは分かっている。早く茜と話して、仲直りすべきだ。周りにも心配をかけてしまっている。二人の間だけならまだしも、これがほかのクラスメイトにまで影響を与えるような事態ともなれば、ことの収集がつかなくなるかもしれない。

 そんなことを考えていると、まだ胸の痛みが強くなりはじめる。

「……寝よ」

 胸のあたりを擦りながら灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ。時刻はまだ十時にもなっていない。殆ど眠気など無い。はっきりしている意識の中、幻聴のように彼女の声が脳内で響き渡る。

 思えば、これまで一度も茜と喋らなかった日があっただろうか? 茜が風邪をひいて学校を休んだ時は、見舞いに行って色々会話した。最近になって、家族で旅行に赴いた時ですらも、旅行先から電話して感想を言ったりしたものだ。

 距離が近かろうが遠かろうが、どんなときも、互いの存在はそれぞれの心の中で寄り添い合っていた。色あせつつあったそれらの風景が、今はとても眩く、そして遠い。日常が普段通りに過ぎていくこれまでの日々は、とても幸せなものだったんだ、と暗闇の中で歩生は感じた。

 わんわんと、なおも茜の声は耳元で聞こえる。眠れなくて、歩生は起き上がった。窓を開けて、何とはなしに空を見上げる。

「……明日、誰かに相談してみるかな」

 真っ白な月を眺めているうちに、少し心は落ち着き、ふとそんな言葉が漏れた。茜と親しい人物はそう多くはいない。パッと彼の頭に浮かんだのは、小川美樹の顔だった。

 冬の近づきを感じさせる、肌に刺さるような風が部屋の中を走り回る。はためくカーテンは仄かな月光に照らされて、長い影を映し出している。つぶらに瞬く小さな星々を最後に数秒見つめ、今度こそ歩生はベッドに潜り込んだ。


 *

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ