迷路と二人
Dream9
その日の夢の中で、案内人は二人から全く同じ内容のことを問いただされた。もちろん、そのいずれに対しても、彼女は同じように返した。答えは、
「うん、そうだよ」
この一言だけだった。
*
真っ白な世界で、茜は一人佇む。案内人には事情は説明せずに、遠くに離れておくよう告げておいた。案内人は、「まぁ内緒の話でも心の声で会話するなら全部ボクには聞こえるけどね!」とけらけら笑っていた。
歩生の寝る時間は、彼に連絡して事前に把握している。この時間にはさすがに歩生も寝付いているだろう。そう信じて、彼を思い浮かべ、心の中でメッセージを送る。
――作戦、話してもいい?
返事はすぐに来た。もちろん、と。
――ありがとう。そんなに長くないからちょっとだけ付き合って。
そうして茜は、女性にアドバイスされた内容を彼に告げた。
――こんな感じなんだけど、どう思う?
――茜の言う通り、正直厳しいと思う。どんな内容の夢であろうと思うだけでその反対が現実で叶うんだったら、それこそ何でもありになってしまうから……。
――だよね。でも……。
――今はこれ以外に道はない、か……。
憔悴した彼の声が返ってくる。
――とりあえずダメ元で試してみよう。無理だったらまた明日、話し合おう。
オッケー、と返事が来たのを確認して、茜は案内人のもとへ戻る。退屈そうに彼女は転がっていた。
「それじゃ案内人。今日の夢に連れてって」
ゆっくりと体を起こし、「じゃ、いってらっしゃーい」と声を出す。いつもの感覚に誘われて徐々に白銀の世界から意識がはがされてゆく。
後には、薄い笑みを浮かべる案内人だけが、残される。
*
その日の夢は、二人とも早く終わった。明確な世界は表れず、ただそこに自分が存在しているだけの場所だった。そこで二人は願った。「歩生くんと別れたい」。「茜と一緒にいたくない」。「離れ離れになりたい」。思って間もなく、世界は破裂した。
――どう、かな……?
白の空間に戻ってきて、茜は歩生に言葉を飛ばす。すぐに返事が来る。
――とりあえず茜に言われた通りのことは思った。……あとは現実で反映されるのを待つしかないね。
しばらくして、案内人がやってきた。呑気な笑顔を見せて歩みよってくる。
「二人とも、お帰り!」
茜の前で案内人はそう告げる。恐らく歩生の目の前にも彼女の姿は見えているのだろう。案内人の存在自体が謎なのでそれぐらいはあり得る話であろう。
「やることはやった?」
まるで二人を煽っているかのような口調で尋ねてくる。
「……うん、やったよ」
微塵も表情を動かすことなく茜はぶっきらぼうに答える。
「もし無理だったらどうするつもり?」
「……何も考えてないよ。もし、の話なんて今は」
ふふふ、と案内人は口端を上げて笑った。そして茜の足元にゆっくりと歩み寄ってくる。
「ねぇ二人とも」
静かに、無の空間に響く。
「もしキミたちの案がうまくいかなかったら、ボクにも考えがあるんだ。どうかな?」
キミたち二人ともが幸せになれる方法だよ。清々しいまでの笑顔で案内人はそう言う。
「…………もう帰る」
案内人に背を向けたとき、彼女が微かに鼻で笑うような音が聞こえてきた。振り返ることなくまっすぐに歩くと、徐々に世界からはがされていく感覚に縛られる。
気づいたときには、現実に戻ってきていた。小鳥のさえずりは聞こえるが、外はまだ薄暗かった。
まだ意識は覚醒しておらず、瞼は中途半端にしか開いていなかったが、これ以上寝る気は起きなかった。
どんな夢を見ても、どんな世界に飛ばされても、幸せな気持ちになることはあり得ないだろうから。
Real10
翌日の放課後、特に示し合わせたわけではないが、二人は並んで一緒に帰途に就いていた。しかし会話はない。空は薄暗く、少し強い風が吹き続けていた。
何を話したらよいのか……いや、何を話すべきかは二人とも、頭の中ではわかっているつもりだ。だが、それを話し出す勇気が湧かなかった。初めからわかっていたことだが、やはり夢は夢に相違なかった。あの時、夢の世界が完全なる無のようであったのは、恐らく案内人のたくらみのせいだろう。お前らの作戦で「夢」を叶えることができるのならやってみろ。そんな、彼女からの挑戦状であり、挑発であったのかもしれない。そして、それは勝敗の見えた試合だった。夢の世界の番人である彼女に、よそ者の自分たちが適うはずがなかった。彼女の敷いた線路の上を走るしか、二人に迷路の選択肢は残されていなかった。
そこまで完全に分かり切っているからこそ、並んでいても、何も話す気が起きなかった。
「あっ!」
そんな二人の間に分け入る幼い声があった。反射的に茜は、その方角を見ていた。
「ユカちゃん……!」
茜のその声は、満杯になったダムが大量の水を放出するときのようであった。おねーちゃん! と無邪気にはしゃぎながら歩み寄ってくる彼女の姿に、表には出さないが、心の中で感情が溢れ出していた。
「ひさしぶり……! ってほどでもないか! 数日ぶりだね!」
しゃがんだ茜に抱き着いたユカの後ろでは、前回のごとく母親が少し困ったような、でも微笑ましい表情で二人を見つめている。
「うん、久しぶり……! あ、今日は帽子被ってるんだね!」
言いながら茜は、ユカの頭の上にちょこんと乗っているピンクのキャップを手に取り、再度ユカの頭の上に軽く乗せた。幼い子ども向けのキャラクターがあしらわれたそれは、ユカのあどけなさをさらに際立たせているようでとても似合っていた。
「うん! おかーさんに買ってもらったんだ。……おねーちゃんのお友達?」
茜の背後で状況が呑み込めずに突っ立っていた歩生の方を見てユカは呟く。
「……うん、そうだよ。いま学校終わりで一緒に帰ってたんだ。歩生くん、っていうの」
よろしくね、と歩生は微笑み、ユカもそれに返した。
「……二人はつきあってるの?? こいびと??」
ユカの無邪気な質問に、一瞬二人は顔を見合わせて苦笑する。ううん、と茜が答えようとしたその時、ひときわ強い風が吹いた。
「……あっ!」
ユカの頭の上に乗っていた帽子が勢いよく飛ばされ、下方の茂みへと流れてゆく。慌ててユカが追いかけようとするが、それより先に歩生が動き出していた。飛んで行った帽子を見失わないように気を付けながら、歩生は慎重に下方へと向かっていく。
「……恋人じゃないけど」
そんな彼の姿を、目を細めながら見つめつつ、茜はユカに向かって呟く。
「とても優しくて私のことを考えてくれる、いい人だよ」
ちょうど、歩生が帽子に追い付いたところだった。彼女らの方に向かって大きくその手と帽子を振りながら、こちらに戻ってくる。
「……ああいうところだね」
茜は静かにゆっくりと頷いた。
笑顔でユカは歩生から帽子を受け取り、母親が何度もお礼を言うのに対して笑みを浮かべて会釈する。その後、母親は「これ以上迷惑をかけちゃいけないから」と、ユカを連れて帰っていった。
「……私たちも帰ろっか」
うん、と歩生が頷くのを見て、茜は歩き出す。無言で歩生もそれに倣った。
「さっきの母娘は?」
「このまえ話した、夢の中で私が助けられなかった子どもさんと、そのお母さん。かわいいよね」
けたけたと笑いながら茜は言う。
「ほんとに。昔の茜みたい」
歩生の言葉に、思わず茜は「なんで!?」と素っ頓狂な声を上げる。
「はは、確かに茜はあの子みたいに積極的に人に近づくタイプではなかったけどさ。でも、何というか……雰囲気かな。そんな感じ」
「……それ、あれぐらいの年の女の子ならみんな当てはまるんじゃない?」
「それはそうだ」
冗談で怒る茜の言葉を聞いて、歩生も快活に笑う。
二人で、こんなにも「普通」に話せたのは久しぶりだ、と歩生は思った。かつて、茜に交際を断られた後、もう前みたいな「普通」は来ないと絶望していた。親しくなるにつれて、次のステップへと関係を進めようとするのは、きわめて当然のことだと思う。でも、そのような関係も素晴らしいが、同様にそれまでの「普通」もかけがえのないものだったんだと思った。「踏み出す勇気」。きっと、思春期の男女の多くが追い求めるものだと思う。でも、「踏み込まない勇気」。それもまた同時に、持ち続けていてもいいのかもしれない。街灯に照らされる茜の横顔と、あの日の彼女の表情とを心の中で重ね合わせながら、そう感じた。
「……なぁ、茜」
声のトーンを変える。一呼吸おいて、「なに?」と茜から返事がある。
「あの時、断った理由……もしよかったら教えてくれないか?」
沈黙。茜も表情を変え、目線を斜め下に落とす。口は堅く結ばれ、ピンク色の唇が、苦しそうに喘いでいた。
「もちろん無理にとは言わないよ。よかったら、で」
「……それ、『よかったら』っていう名の強制でしょ」
「いやべつにそんなわけじゃ――」
「違わない」
歩生の言葉を遮って茜は言い放つ。歩生がたじろぐのが、茜にも見て取れた。
「違わないよ。……何年一緒にいると思ってるの、このバカが」
ふっと笑う。
「歩生くんのことだったら、たぶん歩生くんのお父さんとお母さんの次ぐらいにわかってるつもりだよ。歩生くん、私に何か話させたい時は絶対にその言葉使うもん。そして、私はいつも喋っちゃう……まぁ私自身の意思でしてることだけどね」
そう言い、すっと茜は歩生の正面に回り込んだ。スカートが風にはためく。少しうっとうしそうに、目にかかる髪の毛を弄りながら、茜は口を開いた。
「……歩生くんとはね、友達のままでいたかった」
「うん」
「恋人でもいいかな、って思った時期もあったよ。歩生くんに告白される前にはね。でも、私と歩生くんがそういう関係になるところ、まったく想像できなかったの。一緒にご飯食べたり、一緒に遊びに出かけたり、互いの部屋を行き来したり……どれも普段やってたことだったし。もちろん、その……手つないだり、キスとかしたり……そんなことも恋人ならあるんだろうけど、なんか、それって私たちじゃないな、って思ったの。それが一つ」
うん、と再度、歩生はうなずく。互いに軽く息を吸った。
「もう一つは、ありきたりなことかもしれないけど、付き合って、うまくいかなかった後のことを考えたくなかったから。……じゃあ告白を断ってぎくしゃくするのはいいのか、って言われたら何も言い返せないんだけどさ……でも、恋人になってからのそういう関係の破綻って、今回のものとは比べ物にならないと思うんだよね。それなら……って思ったの。折角二人で新しい関係を築いていくなら、ずっと続くものがいい。友達から恋人になるのはある意味では簡単かもしれないけど、恋人から友達へはなかなか戻れない。戻れたとしても、どこかに傷が残る。それが、嫌だったんだ。……結局、私が子どもで弱かっただけなんだよ。歩生くんと一緒に将来を創る覚悟がなかっただけ。ホント、私のわがままと意気地なさで歩生くんの気持ちを無下にしちゃってごめんね。気持ち、すごくうれしかったよ」
「……そっか」
悲しそうに茜は微笑んだ。それを見ていると、歩生は何も言い返せなくなる。もちろん、茜に対して伝えたい気持ちはたくさんある。断られた時とその後は、充分すぎるぐらいに傷ついた。仮にその鬱憤を晴らせるとしたら、その相手は彼女しかありえないだろうと考えたこともあった。でも、彼女のその表情を見て、歩生はその時の自分の思考を呪いたい気持ちになった。少し強く脈打つ心臓を何とか押さえつけ、ゆっくりと口を開く。口の中は、完全に乾ききっていた。
「今は……その覚悟はある?」
歩生の短い問いに、茜は一瞬窮した。だがしかし、数秒後に力なく首を振った。
「……そっか、ごめん、答えてくれてありがとう」
見込みはないとわかっていながらも、心のどこかでは微かに期待していたのだろう。歩生の肩ががくっと落ちたのを、茜はしっかりと見ていた。
「ううん……! 違うの、そういう意味じゃなくて……!」
「え……?」
「……いや、違わないこともないんだけど……ほら、私たち、もうすぐ……」
歩生の口から、ひゅっと、小さな空気が漏れた。茜が全部言わずとも、歩生もそれを理解していた。そう、二人に残された時間は、恋を楽しむにはあまりに短すぎた。
「だから……重ね重ね、ごめんね」
いいよ、と歩生は力なく……しかし優しく返事した。
「でも……どうやって案内人は解決するつもりなんだろう」
「案内人のことだから……何か私たちにとって現実で正反対になったよいような夢でも見せるんじゃない? 二人が別れる、みたいな」
「昨日の夢でやったことの完全な夢バージョン的な感じか」
「ま、考えたところで仕方ない。今日の夢を待つしかないよ……」
そこまで言ったところで、ようやく茜は歩生の前をのけた。歩生の視線の先には、明かりを持って遠ざかっていくランナーが、一人いた。斜め下の道では、数分おきに、煌々とヘッドライトを照らした自動車が走り抜けてゆく。
「……結局、案内人って何者だと思う?」
先に歩き出した茜が問いかける。
「さぁ? いつも飄々としてるし、よくわかんない行動ばっかりするし、謎だらけだよ」
「そうだよね。確か本人は初め……『天使』とか『妖精』とか言ってたっけ。私の記憶違いじゃなければ」
「何それ。僕の時はそんなこと言ってなかった気がする」
ますますわからん、と歩生が嘆息する。二人の自宅へと向かうための分かれ道は、もうすぐそこまで来ている。もうあと一つ街灯をくぐれば、今日はお別れすることになる。
「意外と、」
もう残り数メートル、というところで茜が口を開いた。微笑を携えて歩生の方を向く。
「意外と、私たちの魂かもしれないね」
「たま、しい?」
あまりに予想外なフレーズだったのか、歩生の声が裏返る。茜はそれに対して軽く笑うだけにとどめ、続く言葉を紡ぐ。
「そう、魂。遠い未来に私たちが死んでしまった後の魂が、過去に戻ってきて私たちに助言してくれてるの。案内人……『人生の案内人』として」
なんだそりゃ、と歩生は笑った。つられて茜も微笑む。茜が口にした話は、彼女のほんの妄想に過ぎなかったが、でも言葉にすると、案外本当に有り得るかも、と一瞬だけ茜は思った。
「じゃあね、また明日……ううん、夢の中で」
そう言い残し、歩生も「うん、また夢で」。そんな言葉を茜に送り、いよいよ別れる。
序盤戦が終わった。ついに、本戦が始まる。
「ただいま」母親に聞こえる音量でそう告げ、さっさと自室のベッドにもぐりこむ。
もし仮に、案内人が、未来からやってきた私たちの魂なのだとしたら。
彼女に従ってみるのも悪くはないかもしれない。