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迷路と青春

Real 9


「……茜」

 翌朝、学校に行って自分の席に座り、授業が始まるのを待っていた茜に、声をかけてきた人物がいた。

「あ……」 

 それが誰なのかはもちろん、すぐに分かった。姿を見なくても、声だけで判断できるほどだ。でも茜は、すぐに彼の名前を呼ぶことができなかった。

「茜、今日の放課後、時間ある?」

 それでも彼は特に気にすることもなく、自分の要件を伝える。その顔はどことなく不安に揺れていて、形のない何かに頭上から押しつぶされているようだった。

「え、あ、うん、もちろん」

 自分の答えが変になっていることを自覚しつつ、茜はしどろもどろに声を出す。

「よかった。じゃあ放課後、教室で」

 それだけ言い残し、彼は焦るように自分の席へと戻っていく。その後姿を見て早鐘を打っている自らの胸を必死になだめながら、

「……歩生くん……」

 ようやく茜は彼の名を口にした。その声はクラスの喧騒にすぐにかき消されてしまったが、その後しばらく彼女の頭の中から離れることはなかった。



 どうして呼ばれたのか、何を話されるのか、そしてその結果自分たちはどうなってしまうのか、色々な妄想や不安を浮かばせてはかき消しているうちに放課後になった。

 茜は言われた通り、教室で彼を待つ。部活に行っている人はあと一時間ぐらいは帰ってこない。勉強したい人はたいてい図書室か塾に行くので、放課後の教室には特に用もなく適当に駄弁る人だけが残る。クラスメイトの数人がそのような感じで、ホームルーム後しばらく残っていたが、飽きが来たのか、数分前にそろって教室を出て行った。美樹は、今日も様子が不審だった茜を心配して、一緒に帰ろうと誘ってくれたが、事情を話して先に帰ってもらった。状況は完璧に整ったといえるだろう。あとは彼が来るのと……茜の気持ちが落ち着くのを待つだけである。

「……ふぅ」

 今日何度目かもわからない浅いため息を吐き、特に目的もなく静かな教室の中を歩き回る。そして窓際に行き、ぼーっと薄暗くなりつつある町を眺めた。

 ぽっ、ぽっ、と明かりが点いたり消えたり。細胞のように光の粒が動いたり。微かに町の喧騒や、道を歩く人たちの声が聞こえたり。そんな景色を感じているうちに、ふと、昨日の夢の世界のことを思い出した。この町は、生きている。遠目にはその力は小さく見えても、確実に、それは世界を動かしていた。

 案内人は、あの夢の世界のことを「迷路」と初めに言った。それならば、いま自分が存在しているこの世界こそが「迷路」なのではないかと茜は思った。自分は、そんな異世界的な迷路の中に迷い込んだ一人の迷子。邪魔者。生きる世界の中でもがく、死人。いてはならない存在。

「…………」

 だからこそ、自分は退出しなければならない。そんな夢の世界から、生きた世界に戻るために。自分で蒔いた種は自分で摘む必要がある。

 自分が歩生のことをどう思っているのか、その答えは自明だ。あとは正直に伝えるだけ。それが彼にどのような影響を及ぼすか……。

――キャハハハハ、ウフフフフフ……

 頭の中で、幻聴が響いた。聞き覚えのある声。そうだ、もし彼女がここにいたら、一体どんな風に声をかけるだろうか。早く夢に行け! と笑いながら言うかもしれない。ニコニコしながら、適当に励ますかもしれない。トコトコと歩み寄って、簡単な雑談とかをするかもしれない。そして、そんな案内人の姿を思い出し、想像すると同時に、茜の気持ちは徐々に落ち着き始めた。なぜかは、よくは分からない。ただ、案内人の姿がいまの茜にとって大きな存在となっていることは確かだった。茜自身、それを初めて自覚した。

――何とかなるよ! 頑張って!

 そんな案内人の言葉を勝手に作り上げて、ゆっくりと茜は席に戻った。



「茜」

 彼女にとって、懐かしい声が静かな教室にこだまする。あっ、と小さく声が漏れたが、茜は平静を装ってゆっくりと立ち上がる。

「時間、ありがとう」

 茜が教室にいてくれたことをほっとしているような、それでいて怖気づいているような弱々しい声で、歩生は礼を言う。

「ううん。気にしないで」

 言っている間に、歩生は茜の席の前までやってきた。無言のまま、茜の前の椅子に腰を落とす。

「……久しぶりだね」

 何が、とは言えなかった。こうして歩生と話すのが、近くにいることが、そもそも彼の顔をちゃんと見ることが、茜にとってはすべて、久々のことのように感じられたから。茜の言葉に歩生はうんとうなずき、でもそれ以上そこに関しては、彼は言及しなかった。

 しばらく、空白の時間が流れた。町の音が、よく聞こえてくる。小さな鼓動を感じた。

「それで、今日はなんで呼んだの?」

 茜の問いに、歩生は一瞬困ったようなッ表情を浮かべた、それでもすぐに短く息を吐き、口を開いた。

「……ちょっと変なこと言うけど、信じてくれる?」

「内容によるかもしれないけど、たぶん大丈夫」

 茜の返答に歩生はありがと、とだけ短く答え、訥々と語りだした。

「昨日さ、夜に茜の声が聞こえたんだ」

「私の……声?」

「そう。一言一句覚えてるわけじゃないけど、声は完全に茜の声だった。時間を取って、ゆっくり話したい、って」

「………………」

 言葉が出なかった。自分の声が聞こえたということは……つまりは、そういうことだ。

喉の奥から何とか絞り出した震える声で、今度は茜が問いかける。

「それ、って……夢……で?」

「夢……でいいのかな。いや、あれは……まぁいいや、うん、夢で。茜のそういう声が聞こえたんだ。だったら……話さなきゃいけないな、って」

「そっか……ちなみに、ちなみにさ、昨日はどんな夢を見たの?」

「どんな……? 詳しくは覚えてないけど学校での夢だったかな。普通にいつもの学校生活の延長上みたいな夢だった。茜は出てた記憶はないけど、声だけは聞こえたんだ。それが――」

「ねぇ! 案内人って知ってる!!?」

 無意識的に大声が出た。歩生が同じ、夢の世界にいたという興奮、驚き。歩生は一瞬その大きな目を丸くさせたが、

「えっ、何で茜がそれを……?」

 言いながら、すぐに歩生も察した。

「まさか、茜も……」

「歩生くんも……いたんだ……!」

 茜は、なぜか泣きそうになっている自分を感じた。現実で関係を続けにくくなって、接点が消えたと思っていたのに、見えないところでつながっていたという安心感からだろうか? 少し考えても答えは出なかったが、でも今は、そんなことはどうでもよかった。

「ねぇ! これまでどんな夢を見てきたの!?」

 その後しばらく二人は夢のことについて語り合った。我に返った時、歩生が教室にやってきてから一時間ほどが経過しようとしていた。

「そういえばさ、少し変なことがあったんだ」

 しばらく高いテンションで語り合っていたが、不意に歩生が声のトーンを下げて言った。

「なに? どしたの?」

 歩生は何かを思い出すように虚空を見つめながら、言葉を紡ぐ。

「いつだったか忘れたけど、少し前、佐藤君と清水さんの夢を見たんだ、クラスの」

 歩生が語る夢の内容を、茜は前のめりになりながら、固唾を呑んで聞いていた。夢の中での一連の話を聞き終わったとき、茜の瞳は大きく見開かれていた。

「へぇ、そんなことがあったんだ……。でも、その話のどこが変なの?」

「まぁ最後まで聞いてよ。その後ね、現実でも全く同じ状況になったんだ。それで、夢で起きたのとまったく同じアドバイスをしたんだけど……」

 現実での話を聞き終わった時の茜の表情は、今度は驚きに満ちていた。

「……夢と正反対の状況になっちゃったんだ……。そっか、それで最近、清水さん少しピリピリしてたのか……」

 合点がいったように、茜は一人ぼやく。

「それで、茜はどう思う? これってただの偶然だと思う?」

「……とても、思えないよね」

 茜の言葉に、歩生も無言で同意する。

「茜は、何かそんなことなかった? 夢と現実が真反対になる……はなくても、何か似たような状況になったり、とか」

 んー、と軽く声を漏らしつつ、過去の夢を思い返す。真っ先に思い浮かんだのは、一番初めに見た、どこかの幼稚園での夢だった。

 夢で見たあの少女と、そして現実で起きたことの顛末を喋ると、今度は歩生の顔に、驚愕した表情が浮かんだ。

「……やっぱり、逆になってる」

「だよね。夢では私はその子を助けてないのに、現実では助けたことになって、お礼も言われてる。ってことは……」

 茜の言葉の最後を、歩生が口にした。

「夢と現実は、逆に、なる……?」

「まさか……」

 茜は反駁しようとしたが、それに相当する言葉は出てこなかった。数秒考えたのちにこうべを垂れ、静かに声を落とした。

「そう、としか思えないね」

「うん……」

 急に、室内に静寂が降りた。それは、茜に昨日の夢を思い出させるには、十分すぎる静けさだった。

「じゃあ……まさか……」

「……どうしたの?」

 声色が変わった茜の様子に、歩生はおずおずと問いかける。

「いや、でも……そんな」

「なに? 正直に言って。何かわかるかも」

「…………うん、実はね」

 そうして茜は、昨日見た二人の「出会い」の夢の話を思い出せる限り語った。茜が一言喋るたびに、二人を押さえつける世界の重力が、強くなっているように彼らには感じられた。次に静寂が舞い降りたとき、二人の顔に、表情というものは張り付いてはいなかった。

「それって……そういうこと……なのか?」

「信じたくないけど、たぶん……」

 それ以上は、二人とも何も口にはしなかった。



 並んで校門を出て、静かに帰途に就く。

 二人で過ごす中で、彼らはそれぞれ様々な静寂をこれまで体験してきたつもりだった。喋る気力がなくなるほど喋りあかした後、お互いの小さな秘密を共有した後、些細なすれ違いから喧嘩をしてしまった後……。でも、今回のそれは、これまでとは全く違う質を持った静寂だった。無音、なのではない。まるで、音という概念が存在しない世界に放り込まれているような感覚だった。やかましく走る車の音も聞こえない。地面をこする、二人の足音も聞こえない。

 そんな虚無の時間を過ごしている間に、二人が別れる場所へと到着した。何とはなしに二人そろって顔を見合わせ、どちらからともなく片手を上げる。

「……じゃ」

 辛うじて茜が口にしたのは、たったそれだけの音だった。歩生は何か言いたそうに頬の辺りを動かしながら、だがおずおずと口を開けた。

「一応、案内人に訊いてみようよ」

「え……?」

「例の件。本当に夢と現実が逆になるので合ってるのか、一応確認しておこうよ」

 歩生の言葉に、茜は俯く。

「……うん、そうだね。きちんと、確認はしないとね」

 消え入るような声で、そう答えた。

「じゃ、また明日」

 そう言って、歩生は踵を返す。

 明日じゃないよ。頭の中で茜はそう呟く。そして、彼とは反対の方向に、歩き出す。

 また、夢の中で。



 茜は、そのまま家には帰らずに、前にユカと出会った堤防へと来ていた。

 くぼみになっている、斜面のアスファルトのところに注意深く腰を下ろし、ざわざわと流れる川の音に耳を澄ませる。

 夜の薄闇のせいで、どこに川が走っているのか、どこに木々が生えているのか、視認することは全くできなかった。見えないからこそ、今ここで自分の境遇を嘆いて大声で叫んだりすれば何かが勝手にそれをどこかに連れて行ってくれるのではないか。そんなことを考えたりもした。

 まぁ、結局は自分たちで何とかしなくちゃいけないことなんだけどね。そんなことは分かっている。頭の中で言語化せずとも、充分に分かっていた。

「でもなぁ……」

 高校生とはいえ、まだまだ茜も子どもである。確定しているかもしれない暗い未来を急に自覚させられ、それを簡単に受け止めることができるほどの心は、まだ持ち合わせていないようだった。

 胸がきゅっと痛む。少し風が出てきた。耳に届く騒音が、一回り大きくなったように感じる。

岩肌にぶつかった白波の水粒みつぼが、すっとその表面をなぞって落ちていくように。気づいて茜は、顔面を両ひざの中に埋めた。勝手に肩が震える。嗚咽が漏れる。

数分ほど、茜はそうして込み上げてくる感情に一人で抗っていた。しかし、そんな茜にかけられる細い声があった。「あのー、すみません」。

びっくりして、茜は急いで顔を上げ、その声の方を振り向く。果たして、そこには見たことも話したこともない女性が困り顔で茜を覗き込んでいた。

「その……どうかされましたか? ちょっと声が聞こえた気がしたんで、気になって見てみたら……一人で座っていらっしゃって……それでどこか苦しそうにも見えたんで気が気じゃなくなって……」

 少し詰まりながら、女性は理由を説明する。彼女の様子を見ながら、茜はユカと出会った日のことを微かに思い出していた。

「そうですか、心配をおかけしてすみません。まぁ、ちょっと色んな事があって悩んでたんです。そしたら……ちょっと苦しくなっちゃいまして、すみません」

 目の端を拭い、作れる限りの笑みを浮かべて茜は答える。

「そうですか……」

 茜の言葉を聞き、女性は少し苦い顔をした。面倒なことに巻き込まれてしまった……とかそんなことを考えているのだろうか。茜はそんなことを思った。

「あの、声をかけてくださってありがとうございます。でも大丈夫ですから。これは私の問題ですし、私が……」

「あぁ、いえ、そういうわけではないんですよ」

 誤解させてしまったと思ったからだろうか、茜の言葉を遮って、女性は慌てた様子でそう告げる。

「少し、昔の自分と重なるところがありまして。わたしもあなたみたいに悩んだり苦しんだりした時期がありましてね。ちょっとその時のことを思い出してしまったんですよ……ちょっと横、いいですか?」

 茜は無言で頷いた。悪い人ではない、と思う。

「実はね、わたしもしんどいこととか悩み事とかがあったりするとここに来てぼーっとしてたりしたんだ。川の音とか、森の音とか、風を感じたりとか……そんなことをしてるうちに、少しだけだけど落ち着いてくるんだ。なんというか……自分が自分じゃなってる、って感じがしてちょっといいかな、って思うよ」

 どこを見ているのかわからないけれど、女性は音だけが流れる遠くの世界を眺めながら微笑む。茜も少し相好を崩して女性の方を見る。

「……そうですね、ちょっとわかる気がします」

 その言葉を聞いて、女性は嬉しそうに息を漏らした。

「ね。ちょっと落ち着くよね」

 それからしばらくは、二人とも何も喋らずに自然の音を耳にしていた。次に口を開いたのは茜だった。先刻より、月が少し傾いていた。

「ちょっと友達のことで悩んでまして……どうしたらいいものか」

「喧嘩とかしちゃった感じ?」

「喧嘩というか……こっちが一方的に突き放しちゃったみたいな感じなんですけどね……いや、そっちはもうほぼ解決したんですよ。問題はその後でして……」

 再び茜は女性から視線を外し、膝の狭間に顔をうずめる。

「……色々あって、離れ離れになっちゃうかもしれないんです。なんで、どんな経緯でそうなるのかはわかんないけど、ただそうなる可能性があるかもしれないんです……それで、どうしたらその未来を変えられるかな、って……ちょっと言い過ぎかもしれないけど……」

「可能性の、可能性か」

 そう言って女性は小さく笑った。

「引っ越しとか? 場所にもよるけど会いに行ける場所ならちょくちょく会いに行ったりとかは」

「無理……というか無理かどうかもわかんないんです、今のところ。二人ともどこに行くのか、どうなるのか全く分かんなくて」

 少し怪訝そうな表情を浮かべる女性。この子が何を言っているのかわからない。顔は口以上にそれを発していた。

「……まぁ、わけわかんないですよね。正直、私もわけがわかってないです、こういう状況になったのは自分が悪いからだ、って理解はしてるつもりなんですがね……」

 ふーん、と女性は細い声を出す。少し強い風が吹いて、その音はどこか遠くに飛ばされていった。

「たぶん誰に話しても信じてもらえない話だと思います。それぐらいに現実離れしているんですよ、本当に」

 自嘲気味に茜は笑う。

「信じられますか? 明晰夢めいせきむみたいに夢の中でちゃんと自我があって、何か毎回案内人とかいう変な存在が出てきて、そして最終的には夢の中で起こったことと正反対のことが現実で起こるんですよ。謎すぎませんか?」

 そう早口で捲し立てて、深く息を吸う。女性は「そっか」と短く言葉を吐き出し、

「確かに、にわかには信じがたい話だ」と微小混じりに言った。

「ってことは、その夢の中で友達と別れる夢……じゃなくてその友達と出会う夢? とか見てしまった感じかな」

「はい、まったくもってその通りです。私も、私の友達も。二人で話したときに偶然その性質については気づいたんですけど、わかったからと言って私達には何もできなくて……それで悩んでたんです」

 彼女が先ほど流していた涙がそのまま川となっているかのように、水音が少し激しくなったふうに感じられる。それ自体が意志を持っているかのように草木はざわざわと揺れ、彼女の感情をくすぐってゆく。

「……単純な考えだけどさ、その夢の中で『友達と別れたい』『私の前にいてほしくない』って思えばそれが現実では逆になるんじゃないかな?」

「んー……どうなんでしょう? そんなに簡単にいくものでしょうかね……なればいいんですけど……。折角なんで少し相談したり試したりしてみます。ありがとうございます」

 恐らく「夢で起きたこと」が現実と逆になる世界なので、自分で思ったことが現実で逆になることはないだろう……愛想笑いを浮かべながら茜は心の中で思う。

「……これが君にとって慰めになるかはわかんないんだけど」

 小声でそう前置きしてぽつぽつと話し出す。

「実は今度、結婚するんだ」

 急に何の話だろう、と思ってでも茜は「どんな人とですか?」と話をつなげた。

「幼馴染の男の子と。その子とはね、中学校を卒業した時に離れ離れになっちゃったんだけど、大学生の時に再会したんだ。そしたら自分の記憶の中の彼とは全く変わっててね、それですごく惹かれたの。だからね」

 柔和に微笑む。仄かに漏れ出る月明かりに支えられて、まるで物語に出てくる天女のような雰囲気を帯びていた。

「君がもし、本当にその子と別れなくちゃいけなくなったとしても、それが君の人生にどう影響を及ぼしてくるかは全然わかんない。いま別れたことによって、それがもしかしたら未来にものすごいプラスの影響を与えることになるかもしれない。もちろん、決してそうなるとは限らないけどね。でも、『いま別れること』が、『絶対にダメなこと』であるという保証は全くないよ。……案内人、だっけ? その人がどういう人なのか、そもそも人なのか、っていうのはわたしには全然わかんないけど、案内人、っていうからにはきっと何かしらの考えがあるんじゃないかな。だって『案内』しなくちゃいけないんだよね? なら、君たちをどこかに『案内』するだけの材料が、きっとあるはずだよ。……それが、今回の別れ……なんじゃないかな。二人の、未来のための」 

 言い終わり、女性は微笑みながら茜の顔を覗き見た。茜は何も答えない。ただ、女性の顔を見つめ返すだけである。女性は柔らかく口角を上げて、やはり言葉を続けた。

「……もちろん、言い返したいこともたっぷりあると思うよ。こんな通りすがりの女のよくわからないお説教聞かされてね。でも、これだけは伝えておきたいんだ。

 しばらく会えない間に、人は変われるよ。体も、心も、考え方も。時が経って、改めて自分を、そして相手を見つめなおしてみたら、自分が今思っているよりも、見え方っていうのは変わってくるものなんだよ。それが、お互いにとっての相手の存在意義とか、果てには運命とかを大きく変えることになるかもしれない。……さっきの話だけどね、わたしも中学生の時、彼と別れることについて、とても考えて、悩んだんだ。彼は県外……と言っても隣の県だけど、私立の高校に進学することが決まってた。でもわたしは家の方針とか、あと単純に学力が足りなくて、彼と同じ学校に進むことはできなかった。隣なんだし、それに幼馴染なんだし、会おうと思えばいつでも会えるじゃん……親にはもちろん、彼本人からも同じように言われた。言われてるうちにわたしもそう思ってしまうようになっちゃったんだよね……当時はお互いスマホもケータイも持ってなくて、さすがに住所とか電話番号は知ってたけど手紙でやり取りするのはちょっと面倒だったし、家の電話で長電話するのも家族に申し訳ない……そんなことをグダグダ考えてるうちに、わたしたちは高校生になって、わたしは部活で、あっちは勉強で忙しくなって、互いに互いのことを考える余裕もなくなっていって……当時から一定以上の気持ちは抱いてたはずなんだけどね。ほんのちょっとその存在が、物理的にも精神的にも遠くに行ってしまっただけで、すぐに人の気持ちってのは揺れ動いちゃう。それで、結果的には、わたしは彼のことを忘れたつもりでいたんだけど……高校を卒業して大学生になって、中学の時のクラスメイトで集まろう、って連絡が来て、その時に彼と再会して……あとはさっき言ったとおりだよ。……もしあの時別れてなかったら、高校生になって虚無な気持ちになることも、大学に入って彼と似た顔立ちの人と出会って勝手に心の中で反抗することも、そして今みたいな未来に出会うこともなかった。……色々、難しいことだと思うよ。わたしたちの『選択』ってのは」

 月が、川面で揺れていた。それはどことなく彼女の表情のようで。感情の読めない涙を流しているようにも見受けられた。そんな風景を目を細めて茜は眺め、指で近くの雑草を弄びながら口を開き、

「……青春、って苦しいですね」

 囁くように、声に出した。

「そうだね。苦しいことばっかりだね」

 どこか清々しさを感じる表情で女性はそう言った。

「……今の私のこの時期って、いつも『将来』ってものがついてくるんですよね。将来の夢、将来の仕事、将来の自分……実現できるかもわかんないのに、想像みたいなものなのに、そんなことについてずっと考えさせられる。それで、それを実現しようと思ったら色々なものを犠牲にしたり、それこそ大切な人と別れたりしなくちゃいけない。……ホント、しんどい時期です……」

 自嘲気味に笑い、茜は息を吐く。水面の月は、再び雲隠れしそうになっている。

――人生って、迷路みたいなものですね。

 あたりに漂う空気に溶け込ませるかのように、茜は口の動きだけでそう発する。

 人生には、いくらでも選択肢、分岐点がある。そのうちのいくつかは、ゴールに辿り着くことのできる分かれ道。でもいくつかは、行き止まりになっていたり、行きたくもない場所に行かせられたりする道もある。その迷路は、人生の葛藤そのものだ。長い長いそれは、そこにいる限り自分たちを苦しめるし、痛めつける。……そして同時に、色々な発見と楽しさ、そして出会いを与えてくれる。迷路が単純であればあるほどそれは少ないし、複雑であればあるほど、それは豊かになる。人生の迷路っていうのは、そういうものだ……。

「君は今、『青春』っていう迷路の一つに迷い込んでる」

 唐突に女性が口を開いた。それはまるで、茜の心の声に、そのまま呼応しているかのようだった。

「……え、いま私声に出てました?」

 それに対して女性は、一つ口端を上げて笑みを浮かべただけだった。

「生きている限り、迷路っていうのは自分の後ろを追いかけてくる。青春、っていうのはそのうちの一つに過ぎないよ。大学生になっても、社会人になっても、おばあちゃんになっても……。でもずっと彷徨っているうちに、自分にとっての良い分岐点の見つけ方、良い歩き方、っていうのがわかってくると思うんだ。その分岐の後に起こることが、自分にとって楽なこととは限らないけどね。……まぁそれが、いかにうまく生きるか、ということだとわたしは思うんだよね。どう、かな?」

 茜の瞳を覗き込み、女性はそう言う。満月のような双眸が、そこには佇んでいた。

「…………何も、わかんないです」

 目を逸らし、ボソッと茜は答えた。ま、そうだよね、と女性はあっさりと流した。

「でも」

 言葉に力を込める。周りが仄かに照らされる。

「自分が、いますべきことは少しわかった気がします。ありがとうございました」

 それだけ言い残し、茜はカバンを手に立ち上がる。去り際にもう一度だけ礼を言い、速足で茜は堤防を進んでいく。

 女性は一人、そんな彼女の背中を見つつ、それに被せるようにして囁いた。

「……頑張れ、茜」

 月明かりに光る道を、その後しばらく、彼女は見つめていた。

 長い夜が、始まろうとしていた。


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