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迷路の声

Real8


 茜にとっては、長いような短いような一日だった。そして安心もでき、同時に不安にも感じた一日だった。

結局、今日、歩生が学校に来ることはなかった。先生は朝のホームルームで、欠席の連絡は来ていないと言っていた。あの歩生が無断で学校を休むとは珍しい……何でだろう……? と、ずっと疑問に思いながら、茜は一日を過ごすことになった。

「茜ー、一緒に帰る?」

 美樹がそう言って、机の前にやってくる。彼女の控えめな口調と表情に、幾分か安心感を覚える。

「……うん、帰ろっか」

 力なくそう答えて、茜も席を立った。



 いつか二人で並んで帰った時のように、空は澄んではいなかった。夕方を彩るオレンジの光は、空を覆う雲の黒さをいっそう際立てている。ちっぽけな茜たちの存在を呑み込もうとでもするかのように、世界は彼女たちを睨みつけていた。

「今日も茜は元気なかったね」

 溜息混じりに美樹が話しかける。

「うん……ごめん、なんか調子でなくて」

「謝る必要はないって。それだったら、早く元気になってほしいな」

 美樹の言葉に、茜はまた笑う。二人を見下ろす空のような笑顔だった。

「……でさ、まじめな話、本当にどうしたの? ここしばらく茜らしくないよ?」

「うん……わかってはいるんだけどね」

 自分自身のことだし、そしてその不調の理由には自分も大いに関わっているのだから、誰よりもよく、そのことはわかっている。口を閉ざしたまま、茜は歩き続ける。

「わたしでよかったら相談にのるよ。友達、でしょ?」

「うん、ありがと……友達、だよ」

 虚ろな瞳で斜め下を見つめながら、茜はそう呟く。魂の抜けきった……油の切れたロボットのような口調だった。

 はぁ、と美樹の重いため息が漏れる。耐えかねたように、彼女は口を開いた。

「夏目くんのことでしょ?」

「……え?」

「え? じゃないよ。見てたらわかるって。彼がらみの悩みなんでしょ?」

 茜はうなずくことも、首を横に振ることもなかった。ただひたすらに、硬い地面を睨みつけていた。

「これまでは一緒に登校もしてきて、休み時間も一緒にいて……恋人じゃないかってこっちが思うぐらいに親しくしてたのに、ある日を境に一緒に学校にくることはおろか、一緒にいる姿さえも見ることがなくなった。そして茜は様子がおかしい……誰がどう見たって、夏目君と何かあったって思うよ」

 クラスのみんなも不思議がってるよ。小さな声で、美樹は付け加える。

「本当に……なんでもいいから話してほしいな。じゃないと茜……」

 頭上に広がる黒い空と見比べるように美樹は茜を見て、重々しく告げた。

「茜、壊れちゃいそうだから」

「え……?」

 地面に固定されていた茜の視線が、唐突に上を向く。茜の横顔を不安げに見つめていた美樹の視線と瞬時に交錯した。

「自分で自分の顔見たらきっと茜、びっくりすると思うよ。ホントに……機械みたいな顔してる。そんな茜の姿、見たくないから……だから、お願い、茜……?」

 雲間から漏れるオレンジの光は、どんどん黒に染められてゆく。世界は漆黒に染められ、二人の姿は徐々に消えていく。そして同時に、ほのかな街の光が、二人の横顔を、小さく照らし出していた。

 美樹の最後の嘆願ののち、二人はそのまま無言でゆっくりと歩き続けた。風がざわざわと木々を揺らし、二人の髪を撫でる。滑らかな黒髪は宵闇に染まり、舞う塵と共に茜の心を揺らす。

「じゃあ……ちょっといいかな? あと、誰にも言わないって約束して。内容が内容だから……」

 おずおずと茜は口を開いた。同時に美樹は無言でうなずく。

「実はね、この前告白されたんだ、歩生くんに」

 茜の横で、美樹が息を呑むのが感じられた。しかしすぐに、落ち着いた声を絞り出す。

「……そっか。でもその割には嬉しそうじゃないよね、茜」

「うん……告白された時びっくりしちゃって、酷いこと言ってしまってね」

 美樹に話しながら、茜はあの時の自分の声を思い出す。薄暗い廊下に響く彼の震えた声と自身の鋭い言葉。いま、その両方が自分の心に重く()し掛かっているように感じられた。

「どうして……? っていうのは訊いてもいいのかな」

 茜の顔を見ずに、美樹は呟く。茜はしばらく考えたのち、再び口を開いた。

「……私ね、色々怖かったんだ」

「怖い?」

「そう。怖かったの。恋人ってさ、何かにつけて特別、って感じしない? 放課後一緒に帰ったり、ご飯一緒に食べたりするだけじゃなくて、手をつないだり、時には手料理ふるまったりとか。歩生くんが、私とそういう関係になろうと思ってくれたこと、そしてそれを実行してくれたことは、素直に嬉しかった。でも……」

 街の明かりは、時を刻むごとにその濃さを増してゆく。二人を待ち続けるその光まで、彼女たちは、永遠にたどり着けないようにさえ感じられた。

「でもさ、恋人になっちゃったら二度と今みたいな関係には戻れない気がして。友達から恋人になるのはある意味では簡単かもしれないけどさ、恋人から友達にはなかなか戻れないじゃん。恋人になっちゃったら、それまでと同じこと……例えば一緒に登下校したりとかさ……そんなことしてても、友達か恋人かで、感じ方って変わっちゃうと思うんだよね。……私は今の関係が好き。友達以上恋人未満、っていうのかな。そういう、お互い遠慮しないで、同性の友達みたいに接せられる今の関係が一番好きなの。だから……」

 黒い空が、眼前に広がっている。彼を振ったことに対して、大きな後悔は感じなかった。

しかし、その時の動揺を覆い隠すように……自分が感じた不安を隠したいがために彼に放った言葉に対しては、これまでの人生の中で最大の後悔を覚えていた。

「……私、どうしたらいいのかな? 本気じゃなかったのに……。歩生くん、素直で優しいから、きっと全部本気にしちゃってるよ……」

 茜の中で、様々な負の感情がひしめき始める。後悔、恐怖……そして悲しみ。二人の関係を守るために取った行動が、二人にとって最も大切なものを崩壊させていることに気づくのが、茜は遅すぎた。

「美樹……私はどうしたらいいと思う?」

 茜の声は微かに震えている。小さな水粒(みつぼ)が、瞼の淵に浮かんでいた。

「……茜はさ、夏目くんと付き合うのは『嫌』なの? もし土下座とかされてもなお言われたなら、断り切れる?」

「それは……」

 茜の脳裏に、あの日の歩生の顔が思い浮かぶ。固く目を瞑って、自分に向かって懇願する歩生。そして、自分の答えを聞いた後の、絶望しきった彼の表情。もしかしたら今の私は、あの時の彼と同じような表情をしているのかもしれない。突発的に、茜はそう思った。

「どう……茜?」

 しばらくの沈黙を経て、しかし茜は躊躇う様子を見せずに口を開いた。

「それでも私は断るかな。さっきも言った通り、私は歩生くんとの今の関係がすごく好きだから。歩生くんには悪いけど、やっぱり一線は越えられない、っていう感じかな」

 茜は美樹から視線を外し、俯きがちにそう答える。

美樹にはその表情は、ひどく優しげなものに映った。負のことを告げているようで、しかし言葉には、一部の人間にしか感じられぬ温もりがあった。いかにも人づきあいが得意ではない茜の言葉のように感じられた。

「勘違いしないでね、歩生くんのことが嫌いなんじゃないよ。付き合うのも、たぶん世の中の多くの女の子が言う『嫌』ってわけじゃないの。そうじゃなくてね……」

「……自分たちがそういう関係にある、っていう事実が嫌なの? それを認めたくない、っていうか」

「……うん、きっとそういう感じなんだと思う。認めたくない、っていうか、認めるのが……そうしようとしてる自分がちょっと怖いんだよね。自分から関係を壊そうとしてるわけだから」

 茜の言葉を聞き、美樹は二、三度、無言で頷いた。彼女の中で、彼女自身にも見えない小さな壁が無音で崩れたような気がした。そして、ほんのわずかではあるが、その欠片は、自身の愛する友人のもとへ向かっているように感じられた。

 眼前は、賑わう街の光で覆いつくされている。この光のもとで過ごしている人々みんなに、それぞれにとってかけがえのない関係が存在しているのだと思うと、美樹にとって、その光は特別なもののように感じられた。いつものそれは、無機質なただの人工物で、目障りな(うるさ)い存在であるが、今日は非常に仄かであった。そして、そう感じているのが自分だけじゃなければいいな、と美樹は心の片隅で密かに思った。

「ねぇ、美樹」

 気づけば茜は歩みを止めていて、美樹より少し離れた場所で、薄黒い空を見上げていた。美樹は静かに彼女のもとへ戻り、同じ姿勢を取った。

「……青春ってさ、楽しい?」

「……え?」

 思わず美樹は眼を丸くした。構わず茜は続ける。

「ふと思ったんだ。私たちさ、今、人生の中で一番大事な時期を生きてるわけじゃない? ……少なくとも私はそう思うんだ。映画とか漫画とかで観れるような青春ってさ、大体この時期じゃない? あれは作り物だってわかってるけどさ……でも、とても楽しそうじゃん。みんな眩しいぐらいに笑ってさ、世に言う『青春』みたいなことしてさ、なんか辛いことがあっても色々頑張って乗り越えて、最後にはハッピーエンド。……すごく羨ましい」

 街灯に圧迫されながらも、星の瞬きは、肉眼でも十分に確認できた。美樹にとって、それは美しいものであった。しかし……これは茜にはそう見えていないだろう、と直感的に思った。これらは、今の彼女にとっては偽りの美しさだ。彼女が求めている美しさは、これではない。こんな一時的なものではなくて、半永久的に続くような……少なくとも彼女の人生の大半を貫けるような美しさを、茜は求めているのであろうと、美樹には感じられた。そして同時に、同じ景色を観られていないことに悲しみを覚え、友人の求める美しさに、温かな息を一つはいた。

「……私の人生は作り物じゃない。それはすごくいいことだと思う。作り物の人生なんてつまらないから。でも……でも、頑張ってもハッピーエンドが迎えられないのは嫌だ。……青春が天国みたいなものだったらよかったのにね。そしたら私も、誰も、傷つけれないし、傷つかない。そんな世界だったら、きっと美しいんだろうな……」

 茜の独り言のような言葉は、宵闇に紛れて空へと飛んで行く。美樹は、何も口を挟むことができずに、ただ彼女の唇の震えを感じていた。

「青春って天国みたいだ……って私が昔からずっと好きな漫画の主人公が言うんだけどね……」

 幾分か彼女の声のトーンは落ちていた。冷酷な印象さえ感じさせる声音で、茜は言った。「嘘だったよ。青春なんて、地獄みたいだ」

 ぽつりと呟き、美樹に向かって軽く微笑んだ。そこには様々な感情――謝罪、そして感謝や喜び――があった。

 街の光に照らされて伸びる二つの濃い影法師。心なしか、その距離は縮まっているように、お互いに感じられた。



 Dream8


 夢の中でも茜の足は重かった。真っ白な世界は、心なしか微かに脈打っているかのように感じられた。

「おはよう、アカネ! ……今日はどうしたの? 元気ないね」

 案内人が陽気な声を上げつつこちらに寄って来る。

「……私はいつもこんな感じだよ。ま、今日は特に疲れてるけどね」

「何があったの? 教えてよ」

 いつものように無邪気な瞳が、茜を見上げている。諦念を込めた息を一つ吐き、茜は訥々(とつとつ)と語りだす。

「……今日ね、私が今ここに来るに至ったわけを友達に話したんだ。色々正直に打ち明けたりしたんだけど、そしたら、私はこれから何をどうしたらいいかわかんなくなっちゃって……。もちろん、私たちが今のままじゃだめだってことはよくわかってる。何とかしなくちゃ、とも思ってるの。……でも動けなくて……動こうと思えば思うほどタイミングが合わなかったり……あとは、自分で適当な言い訳を探して会わないようにしたり……馬鹿らしくなっちゃう」

 いつの間にか彼女の吐くため息は、先ほどよりも重いものへと変わっていた。それでもやはり、案内人の表情は変わらない。穏やかな赤子のような笑みを浮かべ続けている。

「アカネ」

 真っ白な空間の中に、案内人の静かな呼び声が反響する。

「この前の夢で言ったこと、覚えてる?」

「この前……?」

「そう。昨日だったかな。『心の声』みたいな話をしたよね」

「……あぁ、うん。この夢の世界にいる人とテレパシーみたいな感じで話ができるんだっけ?」

 うんっ、と案内人は力強くうなずく。

「確かに使い方とかは分かったけどさ……普通の夢を見ている人には使えないんだよね? だったらたぶん意味ないよ……」

 茜の言葉を聞いて、しばらくの間、案内人はぽかんとした表情を見せていた。

「……何よ、その顔」

「いや、何でもないよ。気にしないで」

 ふふふっと笑いをこらえながら、案内人はそう答える。

「ま、機会があったら使ってみてもいいんじゃないかな? きっと何かの役に立つと思うよ!」

 はいはい、と話半分に聞きながら、茜はもう一度ため息を吐く。

「じゃあまたそんな時があったら使わせてもらうことにするよ。それで? 今日の夢は? そろそろ行かないとマズいんじゃない?」

「おっと、そうだね。アカネも色んな意味で変わったね。自分からあの夢の世界に行こうとするなんて……ボク、ちょっと嬉しいよ」

 ヨヨヨ、と言って、案内人はわざとらしい泣きまねをする。

「……ほら、そんなことはいいから。で、連れてってくれるの? くれないの?」

「はは、ゴメンゴメン。じゃ、すぐに行かせてあげるね」

 ようやく案内人は、いつもの既に見慣れた仕草を始める。数秒後の「じゃ、行ってらっしゃい」の声に自然と押されるような形で茜の足は進みだす。すぐに真っ白な世界は弾け、意識が飛ぶ感覚が体を襲った。

 ……それにしても、どうして案内人はまた「心の声」の話をしたんだろう……? どうも、すぐに答えは出そうにない。 

 新しい世界が微かに見えた瞬間に茜が思ったのは、そんなことだった。



 意識が戻ったとき茜が立っていたのは、いつも自分たちが使っている通学路だった。しかし、普段見ている景色とは少し違う。わずかに建物の立地が異なっているし、今はあるような高層マンションやアパートもまだ少ない。何となくではあるが、空気が今よりも涼やかなようにも感じる。

 とりあえずどうしようか、と周囲を見回していると、微かに聞こえてくる無邪気な声があった。反射的にその方角を仰ぎ見る。

「……あ」

 見覚えのある一人の少女の姿があった。明確な目的があったわけではない。ただ時折、ふとした瞬間に見たくなる時があって開いていた、自分の幼い時からを綴ったアルバム。数ページにわたって色んな表情を見せていた女の子。……まごうことなき、幼い日の自分自身だった。

 てくてくと少女はこちらに向かって歩いてくる。パッと見たところ、五歳くらいだろうか。そんな年頃の女の子が一人、何も不安がる様子を見せず、のんきな表情を携えて歩いている。

 少女を目の片隅に置き、しばらく茜はどうするか迷っていたが、とりあえず近くの物陰に隠れて、様子をうかがうことにした。

「…………」

 静かな空気が流れる。ここが夢の世界だからだろうか、自分「たち」以外は誰もいないかのように、世界は静寂に包まれていた。車や電車は走っておらず、街の中心部の喧騒がここまで聞こえてくることもない。まるで、自分だけの世界であるかのように感じられた。「……これが、夢……」

 つい、そんな独り言が漏れてしまう。思えば、案内人の告げる夢の世界をゆっくり堪能したことは、これまで一度もなかった。隠れつつ、近くの壁に身を任せて少しの間、真っ青な空を眺めてみた。

「…………」

 ただ、美しかった。これを語るのに、余計な言葉は必要ない。そう断言できるほどに、空の青はひどく自然だった。創りものとは思いたくない。これが案内人の力なのか、と少し感心さえしてしまった。

 今の自分の心も、この世界の青空のようなものなのかもしれない。ここの空は、いわば無理やり「美しい」という秩序を保っているようなものだ。現実世界のように、自然の摂理に任されているわけではない。

 私の心も、必死に「美しさ」を保とうとしている。到底保てるようなものではないのに。そもそも、彼との関係が崩壊してしまった時点で、私にとっての「美しさ」は失われてしまった。ない「美しさ」を、必死に保とうとしている。それが、今の私だ。そんなことを、茜は思った。

「なんとか……しなきゃなぁ」

 歩生も案内人に連れられて夢の世界に来てればいいのに。そしたら、会わなくても連絡が取れる。そして現実世界で会って、色々話せばよいのだ。案内人は機会があったら、と口にしていたが、今の茜にとっては、彼と話すためにはもうこうするしかないように思われた。

「……この夢が終わったら、試しにやってみよっかな」

 そう茜が呟いたとき、少女のものではない声が聞こえたように感じた。慌てて物陰から顔を出し、少女の姿を探す。

 数十メートル先に、少女はいた。しかし、一人ではない。ほぼ同い年と思われる男の子の姿が、彼女の近くにはいた。誰だろう、と思いつつ目を凝らす。少女は少し困惑しているかのように笑っていた。

 この場所からは、相手の男の子が誰なのか、どんな会話をしているのか全く分からない。もう少し近づいてみようと思い、茜はできるだけ自然を装って、二人のもとへと近づく。そして、通りすがりにパッと、少年の顔を覗いた。

「あっ……」

 頭の中で少しは予想していた。私の過去に関連しているのであれば、あり得るかなとは思っていた。記憶は既に朧なものになっているが、確かに幼い時の歩生であった。今の姿をまさにそのまま幼くしたような。全く変わっていない、あどけない表情とくりっとした瞳で、少女を見つめている。

 少年の顔を確認した後、茜は小走りに再び新たな物陰へと身を隠した。かろうじて二人の会話は聞こえる。二人の会話を遮るものは何もないので、一安心だ。

「……ねぇ、いいでしょ?」

 歩生の声が聞こえる。何かを頼んでいるのだろうか。少年の必死の表情に対して、少女はやはりどこか気が乗っていないようだ。何をそんなに拒んでいるのだろう、私は。夢の中とはいえ、茜は自分自身に軽い苛立ちを覚える。

「……おねがい!」

 パチンッ、と手をたたく音が聞こえた。見ると、少年は少女を拝むようにして頭を下げている。その時、ようやく少女は折れたかのように息を吐く音が聞こえた。

「わかった、いいよ。それじゃ、これからよろしくね」

 その言葉を聞いたとき、ようやく歩生はほっとした表情を見せた。まるで、数日前の自分たちを見ているかのようだ。まさか、今の歩生も幼い茜に対して想いを伝えていたのだろうか……? その割には、歩生の頼み方は比較的軽々しい。年齢が年齢なのでそのような頼み方も充分に有り得るかもしれないが、違うかな、と茜は思った。

「……じゃあこれから、わたしたちともだちだね。よろしくね」

「うん!」

 うっすらとしか聞こえない少女の声に対し、少年の最後の声だけはとても澄み渡って聞こえた。そこで会話は一段落したようで、二人は茜に背を向けて遠ざかっていく。少女はいまだ少年のかなり積極的な態度に慣れてはいないようで、そのやり取りにはややぎこちなさを感じるが、嫌そうな様子は見て取れない。二人の姿からは、初春の萌芽(ほうが)のような淡い色を感じ取れた。

「友達、か……」

 どこか懐かしさを感じた。歩生と出会ってから、もう十年近くが経とうとしている。最初のころの初々しさは、今は影も形もなくなった。いつも穏やかに、優しく、私を傷つけないように気を付けて話してくれるようになった。どことなく、彼に対して特別な感情を抱いているのかな、と思うこともなかったことはなかった。そこまで考えて、ふぅ、と一つ息を吐く。

「やっぱり、ちゃんと話さなきゃなぁ」

 さっと風が吹いた。物陰からゆっくりと歩み出る。二人の姿は、もう遥か遠くへ消えてしまったようだ。

――歩生くん……

 案内人の言葉は半信半疑のまま、心に念じてみる。先ほど見た、幼少期の歩生の顔が、成長して少し大人びた彼の顔と重なって脳裏に浮かんだ。その時の、様々な感情が入り混じった状態のまま、今一度茜は彼に送る言葉を念じ続ける。

――一度、二人でちゃんと話がしたいです。もしよかったら、近い日の放課後、会えませんか。

 彼がこの夢の世界にいるのかもわからないのに。そして、案内人の言葉が本当かもわからないのに。茜は一心にその言葉を送り続けた。きっと、今のうちにやっておかないと後悔してしまうから。さっき見た幼少期の彼のように、できることは最大限しておきたいから。そして……もう一度、「自分の」笑顔を取り戻したいから。

 周りに誰もいなくなって、今回の世界も徐々に消えつつあるのだろう。いつもの感覚が茜の体を襲う。同時に、体から完全に力が奪われた。意識が、飛んでゆく。

 何となく、今回の夢を経て、茜は満たされた感じを覚えた。ちゃんと現実で、歩生と話さなければならないと思うこともできた。いくらか、気持ちが整理できたような気もする。しかしまた、何かを忘れているようにも思われた。それが何なのか、その時の茜には思い出すことはできなかった。


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