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迷路への招待


  Real 1


 たった一言で、目の前に広がる景色の色は大きく変わる。

 俯いて歩く少年の小さな背中を、頭上から朗々ろうろうと月が照らしだしている。昨日はこんなに眩しかったっけ……? 月光の中を黒煙のように流れる雲を眺めながら、彼はそう自問し、そして再度ため息を吐いた。

 乗用車が一台、彼を追い越して行った。イヤホンから流れる音楽に紛れて、その残滓ざんしが微かに聴こえる。それが完全に消え去った時、彼の耳に届く一つの声があった。

 暗がりであるため、声の主の姿は、はっきりとは見えない。ただ、その威勢の良さや声質からして、自分と同じぐらいの年齢の女子だろうと彼は推測した。開きっぱなしになった扉を前にして、少女は高い声で何やら怒鳴っている。玄関から漏れ出る柔らかい光に浮かぶその小さな影に、知らずの内に少年はとある人物を重ね合わせる。

 呆然と、少年はしばらくの間、闇の中から絶え間なく聞こえる少女の怒鳴り声を耳にしていた。だが、やがて外していたイヤホンを耳に戻し、怒りの感情が広がるその領域から独り、脱した。

 穏やかな風が吹く。少年の後悔も、その風に乗ってどこかへ飛んで行けば良いのに。そう願うが、今のこの場所に、少年を癒せる風が吹くことはないだろう。



 *


「……前から、好き、だったんだ。もしよかったら、お付き合い、してほしい……」

 放課後、夏目なつめ歩生あゆむは誰もいない教室で、そう想いを告げていた。頭の中では何度もシミュレーションをしていたはずなのに、出る声は弱々しく、相手に届く前に、灰色に塗られた教室に落ちていくようだった。それでも彼には、きっと了承してくれるだろうと思える理由があった。逆に言えば、そんな希望があったからこそ、こうして言葉にできていたのかもしれない。

 腰を折った歩生の前で、少女は困ったように視線を彷徨わせ、スカートから伸びる健康的な太ももを微かに擦り合わせる。その仕草が、彼の視界にも映った。もう一押し。そう思って、彼が次の言葉を発そうとした瞬間だった。

「ごめんなさい……!」

 か細い声が漏れた。え、と無意識のうちに、歩生の口から空気が漏れる。

「だから。ごめん、無理。私は君とは付き合えないよ。気持ちは正直嬉しいけど、ごめんね」

 少女は平坦な声でそう告げて、近くの机に置いていた自身の鞄を持って教室を立ち去ろうとする。

「えっ……? ちょっと……!」

困惑を隠しきれない歩生は、慌てて追いかけ、理由を訊ねた。周りに生徒がいないことは分かっているので、彼自身も遠慮することなく大声で問いかけた。初めは無視されていたが、それでも彼はめげずに詰問し続けた。自身の、彼女との間のこれまでの関係に物を言わせられると思っていた。普段の彼ならば、一度断られれば、それ以上は踏み込むことはできない。だが、彼女にだけは違ったのだ。そしてそれはまた……彼女からも、同様だった。彼らはそれを、十分すぎるほどに、知っている。

 少女は、歩みを止めた。既に遠ざかっていた背中ではためく黒髪が優美な風を巻き起こし、そして歩生よりも数センチ低い場所から、大きな瞳が彼をはっきりと映し出す。

「なんでも! 私は歩生君とは付き合えないの……! ごめんね! じゃあね!!」

 それだけ言い残し、姿は階段に呑まれていった。建物じゅうに響いた彼女の声は、もちろん歩生の中でも盛大に響いている。何度も何度も、その言葉が彼の心を突き刺した。

 振られたことによる悔しさや悲しさよりも、驚きを隠せなかった。

 幼馴染の少女、篠田しのだあかねの、あんな姿は、長年の付き合いである歩生ですらも、始めて見た姿であった。



 帰り道が、いつもよりも暗い。そのままどこかへ飛び出していきそうなぐらいに、大きな心臓の鼓動が耳元で響いている。

 自宅に辿り着くと、準備されている夕食の香りが歩生を襲った。家族からの「おかえり」に小さく応え、逃げるように二階の自室へと向かう。吐き気を覚えた。ピザや、肉を焼いたものと思しき強いにおいは、只々彼を苦しめる一方だった。ご飯よー、と呼びかける母親の声には、「しんどいから今日はいい」とだけ伝え、歩生は自室の中央に倒れるように寝転がった。

 お腹の上に、見えない鉄の塊が乗っかっているようだ。胃を強く圧迫し、後悔と共に気持ち悪さが、体の底から込み上げてくる。そして、意味の無いことだと分かっていても、ついつい考えてしまう。もし、余計なことをせずに、幼馴染として……いや、彼女にとって一人の友人、として接することを選んでいれば、自分がこんなに苦しむことはなかったのではないか、と。変わらぬ放課後を過ごして、普通に夕食を食べ、そして少しの勉強をして眠る。昨日までの日常が、とても眩しく感じられた。

『♪』

 物音ひとつない室内に、スマホの着信を告げる音が甲高く響く。手を伸ばして確認するも、取るに足らないアプリの通知だった。

「……一応、ラインでも送っておくか」

 過度な期待はしないようにしつつ、ラインを開く。通知数を示す数字は、誰との会話にも付いていなかった。

 だが、茜とのラインを開くと、つい先日までの数多い吹き出しが否応なしに目に映る。茜は学校でも、またこういったSNS上でも、あまり装飾を施した言葉づかいをする女の子ではない。歩生に送られてくるメッセージも簡素であり、それを歩生も当たり前だと、そして普通だと感じていたが、今、こうして見てみると、彼女の言葉一つ一つに果てしない彼女の優しさや感情が見いだせる。

『今日はいきなりすみませんでした』

 昨日送った全く関係のないメッセージと比べれば、だいぶ他人行儀だ。一度読み直し、茜へと送る。その温度差に大きな違和感を覚え、そしてその原因を作った自分を恨みつつ震える指先で、文字を打ち込んでいく。

『もしよろしければ、明日からも普通に接してくれるとうれしいです』

 頭の中で文章にしたことを、自身の目の前に現してみる。躊躇いが、波のように襲いかかってきた。茜があのように激憤げきふんした理由は、歩生自身も何となくではあるが理解しているつもりだ。

心の中で茜を思いやる。今日の僕は、いわば罪人のような存在。そんな僕が、仰々しく『明日からも普通に』などと送ってよいのだろうか。自問と葛藤、そして不安が燎原りょうげんの火のごとく押し寄せてくる。

まず、明日以降、茜と普通に接せられる自信がない。どんな顔をして明日学校に行けばよいのかが分からない。今日の茜こそ歩生の知る彼女ではなかったが、普段の茜は人を自ら不幸に貶めたり、人の不幸を見て笑ったりするような、性質たちの悪い少女ではない。だから、先ほどの出来事を周囲に広めたりすることはないと思うのだが……。

 結局は、茜を信じられるか否かなのだと思う。謝罪だけして、来るかわからない返事を意地汚く待つか、こちらから関係の断絶はしないという最低限の足掻きを見せるか。どちらを選ぼうと、明日の茜との空気は変わらないだろう。それだったら……と歩生は二、三度先ほどの文面を見直し、強く目を瞑りながらメッセージを送った。

 はぁ、と息を吐き、スマホを放り出す。大切な少女を失うかもしれない悲しさや悔しさに、涙がにじみ出てきた。拭うことはせず、自身の頬を伝っていく感触をしばらくの間感じていた。

 ふと、目を本棚へと向ける。気分転換に何かマンガでも読もうと思ったが、そこに茜から借りたマンガがまだ残っていることに気が付いた。途中まで読んだが、確か高校生の男女の恋愛物語だったと思う。

 手に取り、流し読みをしているうちに、何となくではあるがそのストーリーが頭の中に浮かんでくる。それと同時に、主人公の男子生徒のとある発言が、やけにリアリティを伴って歩生の脳内に木霊こだました。きっと、自身がとても強く印象に残ったと感じた部分なのだろう。主人公とヒロインを身近な存在に当てはめることができていた、その時の歩生にとっては、彼らは自身にとって最も共感できる二人であったに違いない。

 マンガを閉じ、たった独り、天井に向かって投げかける。

「『……青春って、天国みたいだ』」

 二人に用意されているのは、きっと幸せな結末だろう。彼らは結ばれた時、互いにそんなことを思っていた。どんな逆境が二人を襲ったとしても、そして最終的に彼らが迎えるのが、悲痛なバッドエンドだったとしても、もしかしたらそう思い続けるのかもしれない。だって、大切な君が、離れることはないのだから。物語である以上、二人は離れ離れになったとしても、いつか再会する。本当に、そこは「天国」なのかもしれない。

 現実なんて、地獄のようだ。人が人に抱く想いのせいで、こんなにも自分が、そして大切な存在をも傷つけてしまう。

 青春なんて、地獄なんだよ。

 そんなことを心の中で反芻しながら、いつしか歩生は眠りに堕ちていた。



 *


 誰かが叫んでいる。高校生や大人のような声ではない。あどけなさの残った、耳に響くような高い声だ。

 真っ白な、現実では見たことのない空間の中に、歩生はただ独り、ぽつんと佇んでいた。前も後ろも、右も左も分からない。ただその声だけが機械的に響き渡る。何を言っているのかも聞き取れない。喜びを爆発させて喚いているようにも聞こえれば、危機に瀕していて助けを求めているようにも聞こえる。ただ一つ変わらないのは、鳴り止まない事だった。

 とりあえず、歩生は一歩踏み出す。歩く感覚は、普段とそう大差ない。白く染まった地面はアスファルトのように固く、きちんと踏みしめられる。そのままの勢いで、どこに行くかも分からないこの世界を、進んでいく。

 そのうちに、流れ続けている声がどのようなものか、何となくではあるが聞き取れるようになってきた。きっと声の主は、「笑っている」。とても楽しそうに、心の底から笑い声をあげている。たいそう無邪気で、先の事なんて考えずに、喜ばしい目の前の出来事だけを見て、声を上げているような感じだ。


 ――きゃははは……


 ――うふふふ……


 ――ぎゃははは……


 いつまでも、いつまでも聞こえ続ける。歩生の中に鬱陶しさが募り始める。自分が大声を出しても、耳を塞いでも、その声は歩生の脳内まで直接届きかける。あまりに愉快そうなその声に、それとは真逆の現実が目の前に映し出され、歩生は思わず立ち止まる。やがて腹の底にまでその笑い声は響き渡り、猛烈な吐き気を覚え、その場にくずおれた。

 やめて。やめてくれ……。怒りは既に霧散し、そんな懇願が始まる。楽しげな笑い声は嘲笑と化した。もはや理性なんて存在しない。感情のままに、彼は叫んだ。



 次の瞬間に、その世界からは解放された。煌々と灯る天井の電球が目に痛い。時計を確認すると、夜中の三時だった。

 階下に行って歯磨きだけ行い、そのまま寝た。数時間後に起床して、そういえば、と思いだしてスマホを見るも、茜からの連絡はなかった。

既読との通知もない。

 痛い身体を引きずり、歩生は登校の準備を始めた。


 *


 夢で見たあの奇妙な世界。

 場所だけを例えるのなら、雲の上のような風景だった。雲をそのまま固めて、歩けるようにしたような。

 だとしたら、あれは天国なのだろうか。

 響いていた声は、天使の声なのだろうか。

 そうならば、閻魔えんまさまのような天使だなと思った。


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