アイネクライネ キープと千秋 越えられない夜を越えて
キープと千秋が乗る車内に、アイネクライネ 学校流れる。
千秋の微妙な恋心を慰めるアイネクライネの優しくも切ないメロディ。
千秋は、その歌詞の意味を探ることで自身の本心に気がつき涙する。
「千秋~」
車の窓から顔をだし千秋のことを呼び止める男。
「兄ちゃん…どうしてここに…」
千秋は実家に帰るためアパートから蘇我駅に向かっている途中であった。
「いや、あの子がさ、千秋の通ってる学校見て見たいって言うからその下見にちょっと寄ってみた~」
「ってわざわざ下見なんかしなくてもとっくに知ってるでしょ千秋の学校なんて…」
「へへっばれた? 千秋早く乗りなよ」
千秋が兄の車の助手席に乗り込む。
「あの子ってこの間連れてたすごく可愛い子?」
シートベルトを着けながら千秋が言う。
「そうそう」
「珍しいよね…兄ちゃんが特定の女の子と付き合うのって…」
走り出した車の窓を眺めながら言う。
「あはは…千秋痛いとこつくね。あれだよあれ! これだけ可愛い妹がいるとさ、なかなかそれ以上に可愛い子がいなくて兄貴としては苦労するよ~」
ハンドルを握りながらも妹の顔色を気にする。
「何言ってるの…調子の良い事ばっかり言って…」
小さくため息をつく千秋。
「ほんとだって! 仲間もみんな言ってるよ『あれだけ可愛い妹がいると彼女探すの難しいだろ?』なんてね! これほんと!」
「あの子とはどこで会ったの?」
相変わらず外の景色に視線をやりながら言う。
「それが…なんと後楽園ホール! なんだな」
「後楽園ホールって…ラウンドガールかなんかをナンパでもしたの…」
ようやくチラリと兄の方に視線をやる千秋。
「お〜っ! 確かにラウンドガールでも通るな」
感心したように大袈裟に言う。
「違うの‥?」
「違う違う! この間教え子の試合応援に行ってさ、今回は師匠がセコンドについたから俺は客席にいたんだけど隣で凄い勢いで観戦してたのがあの子、有以ちゃんだったわけ! 試合終わった後お茶に誘っていろいろ話したらさ、なんとキックボクシングやってるってわかって意気投合したのさ」
興奮気味に話す兄、キープ。
「ふ〜ん‥あの子キックやるんだ。確かに手足長いから良いキック出しそうだね」
千秋が怜悧な視点で言う。
「さすが千秋、鋭いね! そうなんだよ、うちのジムでミット打ち相手して見たんだけど関節柔らかくてさ、しなるようにハイキック繰り出して来たよ」
「良かったじゃない‥趣味の合う人見つかって‥」
たいして興味がない様子で返答する千秋。
「まぁね、格闘技ってあんま女の子受けはしないからそう言う意味じゃあ良かったよ」
満更でもない顔をするキープ。
しばし沈黙が続く車内。
キープがカーステレオを操作してFMを流す。
ちょうどパーソナリティの曲紹介が終わり曲が流れ始めた。
千秋の表情が変わる。
「この曲‥好き」
「米津玄師か、良い曲作るよね。祈りにも似た歌詞と歌声。俺も好きだな。この曲は確か‥」
「アイネクライネ‥千秋この曲一番好き‥」
「そうそう。アイネクライネってモーツァルトのセレナーデで一番有名な曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』から曲名つけてるみたいだね」
「そうなんだ‥ドイツ語で『アイネ eine』は冠詞で〝ひとつの〟、『クライネ kleine』は〝小さな〟、『ナハトムジーク nachtmusik』は英語で〝ナイトミュージック〟だから、〝夜の音楽〟って意味? 意訳すれば〝小夜曲〟で、セレナーデ、と同じ意味になるね‥」
「さすが千秋は頭いいね。学校でドイツ語習ってるの?」
「うん‥『アイネ eine』は女性冠詞だから、『アイネクライネ』だけなら〝(ただの)一人の少女〟という意味かな‥」
千秋が考え込む様に窓の景色を見つめ始める。
そんな様子を敏感に感じ取った兄は静かに見守る。
「ナハトムジークが曲名から外されてる‥。歌詞に出てくる女の子は‥『お願い いつまでもいつまでも超えられない夜を超えようと手をつなぐこの日々が続きますように』って願っている‥そして敢えてナハトムジーク、小夜曲を除いた‥。つまり‥暗くて辛い夜を超えた1人のか弱い女性の唄‥」
千秋が小さくそう呟くと頰にゆっくりと涙が伝わる。
「千秋‥まだ冬威ちゃんのこと‥」
「冬威君は誰のものにもならない‥だから千秋もひとり。でも時々アイネクライネの女の子みたいに石ころになっちゃいたい気持ちになる‥」
美しい涙を流す妹にかける言葉が見つからないキープは代わりにしっかりと肩を抱く。
「兄ちゃん運転中に危ない。兄ちゃん‥千秋も夜を越えられるかな?」
兄の優しい心遣いに少し照れながら千秋が言う。
「俺の自慢の可愛い妹だぜ? 夜も昼も朝も飛び越して宇宙までひとっ飛びだよ! 」
「なにそれ?」
そう言いながら笑い泣く千秋。
「千秋は俺が守る!」
「あの子がいる癖に‥」
拗ねた様な顔をする千秋。
「千秋? おまえの兄ちゃんはデッカくて強くて優しいんだ! 女の子が束になってかかって来ても全員守る!」
キープがその厚く鍛え上げられた胸をドンと叩く。
「全くお調子者なんだから‥。そんなこと言ってるとあの子に怒られるよ?」
「いけね、千秋内緒にね」
キープが口に手を当てておどけ兄妹一緒に笑い出す。
「それに千秋には‥冬威ちゃんだってついてるんだぜ? 天羽HRは仲間を絶対に守るんだからな」
「冬威君や兄ちゃん達が何か問題があると仲間を集める非組織集合体でしょ?」
「集めるって言うか自然とみんなが集まって力を貸してくれるんだけどね」
キープが片目をつぶりながら言う。
「あんまり危ない事しないでよ? 兄ちゃん正義感強いから‥」
「大丈夫大丈夫! 俺もちゃんと加減出来る様になって来たし、冬威ちゃんが抜かりなく理論武装してくれるからさ」
「兄ちゃん‥千秋はどんなに辛いことがあっても逃げないで生きて行くよ‥」
健気に笑顔を見せる千秋に頼もしい笑顔で応えるキープ。
車は走る。
ふたりの故郷に向けてひた走る。
窓の外の風景がだんだんと夕陽に染まり始めていた。