冬威は由起の『願い事』を叶えるために時を超えて来たんだよ…
過去現在未来。
冬威と由起が交差する。
冬威と由起は葵衣を救う算段をするために由起の部屋に向かっていた。
ふたり並んでいつもの道を歩く。
冬威は時の流れと自分が変更した過去の現象について逡巡していた。
『由起、卯月先輩の過去を変えた。だけどこれで本当に解決が出来たのか…。一見クライシスを回避したように見えるけど本質的にそれを解消したことにつながらなければいずれそこに帰着していくんじゃないだろうか…。卯月先輩の場合は場所の違いはあったけれど、階段から転落死すると言う現象をくい止めた。そして俺は変更前とは違いこの後も卯月先輩が階段から落ちるようなことがない様に見守るだろう…。由起の場合は暴力から守り、二度と繰り返さないように手を打った…。だけど…それで本当に決着がついたと言えるのだろうか。うまくとらえることが出来ないけど感覚的には、問題の本質を変容させると言うか、根源を断つような対応がなされていない場合結局変わったことにはならないのではないか…って思う。この不安感、違和感は何か重要なエッセンスを含んでいるように思えてならない。思い過ごしであれば良いけれど…。今の段階では由起にせよ卯月先輩にせよ油断せずに継続して様子を見守るんだ』
そんな事を考えながら傍らの由起を愛おしく見つめる。
「あれ? 冬威? あそこにいるの千秋ちゃんじゃない?」
由起の学生マンションの近くで千秋の姿を見つける由起。
千秋は先輩である、ひと葉と共に歩いていた。
由起は手を上げて千秋に声をかけようとするが、千秋たちは学生マンション近くのコンビニエンスストアに立ち寄る様で手前の曲がり角に消えて行ってしまった。
「あっ…千秋ちゃん行っちゃった…」
「千秋ちゃんスイーツ好きだからコンビニに買いに行ったんだろ」
「それにしても一緒にいた人誰だろ? ゼミでは見かけない人だったよね?」
「そうだね、ちょっと年上っぽい感じだったね」
千秋のアパートはこの付近ではなかったが、やはり独り暮らしをしている、ひと葉の部屋に遊びに行く途中であったようだ。
「今度会ったら聞いてみよ、誰と一緒だったのか」
由起はそう言うと部屋に向かうための一連の動作をしエレベーターに乗り込む。
「ただいまっと」
そう言いながら部屋のドアを開ける由起。
由起に続いて冬威も躊躇なく部屋に上がる。
由起が不意に冬威の家を訪れて家族と共に過ごしたことが、ふたりの心理的な距離感をグッと縮めていた。
「冬威、コーヒーで良い?」
キッチンから冬威に向かって由起が言う。
「うん、ありがとう」
由起の部屋の窓から外を眺める冬威。
するとその視線の先に注意が向く。
『あれ…千秋ちゃん。さっきの人と一緒にこっちに向かってる。連れの人の部屋はきっと由起と同じ学生マンションなんだな…』
千秋の動向を目で追いながらもベランダの構造に注視する冬威。
『3階って結構高いな。それにコンクリートの囲いの上に手すり的に付けられたバーだけを頼りに外から侵入できる奴はそうはいないだろう…。でも手すりはしっかりしてそうだ…。部屋と部屋の仕切りは上部に備え付けられたアコンの室外機と簡単なパネルだけ…か。むしろ外から侵入する場合部屋伝いの方が可能性高いな』
冬威は由起にふりかかる可能性のある危険について検証していた。
他人が聴いたらきっと病的なまでのこだわりに思えるかもしれない。
しかし今の冬威には時間の神の存在が大きくその心を支配していた。
『仮に時間を司る意思の様な者が存在したとしたら、決定した過去を変える今の俺の行動は決して容認されるものではないだろう。だとすれば必ずその意思は結果を、元の潮流に戻そうとするはずだ…。しかしまた俺のこの説明不能な能力も俺の『願い事』を何らかの意思が容認したからに他ならない。母さんはそれを量子力学的に説明しようとしていたけれど現状では科学的に立証不能。つまり何らかの条件を提示しての他者での再現不能ということだ。いわば偶発的に、奇跡的に起きている現象にすぎない。これはあまりに不安定だ…。時間を司る意思が存在したと仮定すればその意志はある一定の原理原則は存在したとしても変幻自在…。不安定な俺の能力では抗いようがない。だとすればあらゆる仮定を形成して由起を守らなくては…』
そんな事を考えながらキッチンに目をやる。
コーヒーを運ぶ由起の姿が目に留まる。
『俺は由起を守れた。このまま由起の未来が平穏無事に進めばいい。俺の未来を気に留めてくれる愛おしい存在…。過去のあの時点で今こうして過ごすふたりの時間は無い。存在し無い。こんな恐ろしい空虚が他にあるか? 俺にとって、由起との『今』がかけがえのないものになっている。どうしても由起を守りたい。その結果…今や暗闇の谷底でどんな事になっているかわからない俺の未来がどうなろうとも…』
冬威の悲痛な想いなど知る由もない由起の笑顔が眩しい。
『母さんは未来の俺は死んではいないと言った。仮に死んでいるのであれば今の俺の意識がこんなに安定的ではないだろうと仮定していた。つまりあの世とこの世では意志の存在形態が違うと言う仮定の元の仮説だ。母さんが言うことであれば信じるに値する。だけどこうなってみて俺自身が実感するのは…生も死も分け隔てなく意志は存在するのではないかという感覚だ…。魂とか意志とか言った物が量子レベルの超微小世界での存在だとすればそれはもう生物学的に生きているとか死んでいるとかなんて言うレベルの話しでは無いと思う…。この空間は意志に満ち溢れている。その意志は肉体を超越した生命体なんじゃないかって感覚的に思うんだ。そうは言いながらも母さんの量子力学者としての見解と母親としての願いを俺も信じたい…。過去が変わる、現在が変わる、未来が変わる、変わった未来が現在に影響を与える。この図式も今の俺は実感するところだからだ。由起の未来を変えた俺は俺自身の絶望を悔恨に支配された未来を必ず変える。そしてそれは今はっきりと明確な『願い事』として俺の行動の原動力になっている。由起と共に生きたい、由起と共に未来を歩みたい。由起の時間の流れの先に待っている…未来でもう一度由起を抱きしめたいんだ』
冬威の心に熱い想いが燃え上がる。
「冬威? どうしたのすごい顔してるよ…」
由起の呼ぶ声が思索の海から冬威を引き戻す。
そこには愛する由起がいた。
絶望の未来では、いくら手を伸ばしても届かなかった由起が確かに存在している。
由起の存在はかつての…未来をかつてと言うのもおかしな話だが、未来においてのそれとは比べようもないほどに大きくなっている。
冬威を苛んだ由起への悔恨の想いは今や純粋にして単純、そして強く熱をもった愛へと大きく変貌していたのだ。
「由起…俺は…由起を愛している…俺はやっと気が付いた。俺はずっと由起のそばにいたかったんだ」
愛する存在を強く腕の内に引き寄せる。
時空を超えた冬威が手に入れたのは、過去の修正がもたらす悔恨の消滅ではなかった。
冬威が本当にその手に取り戻したのは、未来を共に歩むべき愛する由起だったのだ。
「冬威? 由起はとっくに愛してたよ? ずっとずっと前から…。由起は冬威が迎えに来るのをずっと願ってずっと待っていた。冬威は由起の『願い事』を叶えるために時を超えて来たんだよ…」
そう冬威に語りかける由起の横顔に一度だけ逢うことを許された後、逢いたくても二度と逢う事ができなくなってしまった未来の由起の面影が重なった。
その横顔は満足げに冬威に微笑みかけている。
『由起…未来の由起…。そうか、そうだったのか。由起もまた時空を超えて今ここに…』
冬威は未来の由起に手を伸ばす。
しかしその瞬間、まるで天女の羽衣の様に光りを放ちながらすっと音もなく抜け出るように中空に舞い上がって行った。
そして消えゆく刹那、何度も何度も冬威を振り返り愛おしくも満足げな微笑で冬威を包み込む由起。
『由起っ待っててくれ! 俺は必ずそこに行くから。俺は今を取り戻して必ず由起の元へ行くから』
冬威のその声は音にはならず、しかし未来の由起には確実に届いていた。
腕の中に由起を抱きながら中空に消えて行った由起に誓う冬威。
「冬威? 今度は由起が未来の冬威を守るよ。そしてふたりで…ずっとずっと一緒」
腕の中の由起が言いその声が冬威を現実に引き戻す。
「由起は今度こそ手放しちゃいけないんだって、由起が言ってた。もう由起は絶対に冬威から離れない」
そう言うと強く冬威を抱き返し冬威もまたそれに応える。
今と未来が重なる。
ふたりの時は過去現在未来を自在に行き来し確かめ合っていたのだ。
もつれ合う量子の様に引き合い決して見失ったりはしない。
冬威と由起…
ふたりはふたりの未来を確実な物にするためにも葵衣を救う。