卯月と冬威のラビリンス
卯月のピンチを冬威が救う。しかし事情を知らない由起はふたりの関係に躊躇し姿を隠す。
冬威は卯月のピンチを救えたことに安堵する。
時間と空間のズレに怯える冬威…
「冬威! 冬威~? どうしたのぼーっとしちゃって!」
由起の声で目を覚ましたようにハッとした表情をする冬威。
冬威はいつもの体育館脇のベンチに座っている。
寝ぼけ眼をこすりながら由起に声をかける冬威。
「ごめんごめんちょっとウトウトしちゃったみたいだよ…」
「もう冬威ってば、縁側でお昼寝するおじいちゃんじゃないんだから~」
そう言う由起の顔は微笑で溢れていた。
「冬威~鋸山楽しかった! また登りたい! それから…ドライブインかなやのお風呂に入って夕陽も見たいよ~」
由起は冬威の隣に座るとその腕を引っ張りながら甘えた様に言う。
「そっか楽しかったか~。良かった! また行こうね由起」
冬威は満面の笑顔で答える。
『ピピピピッピピピピッ』
不意に冬威の腕時計のアラームが鳴りだす。
冬威は由起が引っ張る手の反対側に着けている腕時計を目にする。
『201x年5月6日…10時35分…間に合ったか…』
そう心の中で呟くと慌てて立ち上がり走り出す。
「由起っ! ごめんちょっと行ってくる! 次の教室に先に行ってて!」
言うが早いか冬威が走り出す。
「ちょっ、ちょっとどうしたの冬威! 由起も一緒に行く!」
由起も冬威を追って走り出す。
冬威は体育館の階段を上がり校門の前の大きな木の脇を通ると一番近い校舎の階段に目をやる。
『いない…なんでだ? ここで間違いないはず…』
誰かを探すように忙しなく辺りを見渡す冬威。
『いた! なんであっちの建物に…』
探していた人影を見つけると猛然と走り出す。
学祖像の左側にある教授たちの研究棟の階段の中ごろを昇る女性の姿をガラス越しに見つけた冬威。
『場所が違う…なんでだ? 今日で間違いないはずなのに! くそっ間に合うか…』
踵を返すと再び猛烈に走り出す冬威。
乱暴に研究棟の扉を開けると一気に階段を駆け上がる。
そしてバランスを崩し、今まさに階段から転げ落ちようとしている女性に飛びつきその体を支える。
冬威と女性の横を二本の杖が音を立てて転がり落ちていく。
落ち行く体を支えた冬威もその重みにバランスを崩し階段から踏み外しそうになる。
が、持てる最大限の力を振り絞り、かろうじで踏みとどまった。
「卯月先輩っ!」
しっかりと体を支えながら冬威が叫ぶ。
寸でのところで体を支え階段から転落するのを防いだ冬威。
「冬威…? どうしてここに?」
卯月が冬威に包まれながら真っ青な顔で言う。
「卯月先輩こそどうして今日はここなの? あっちの校舎の階段ならまだしも研究棟の階段から落ちたら洒落になんないよ?」
冬威が指摘した通り研究棟の階段は螺旋状に回り傾斜が急なだけではなく一見華奢な建材で出来ているためエッジも鋭い。
転倒すればただの怪我では済まない事は誰にでも容易に想像が出来た。
「こんなところから落ちたら…でも良かった間に合ったよ」
そう言いながら卯月の身体を抱え上げ階下に向かう冬威。
「抗議の前に教授に提出しなくちゃいけない資料があったの…。でも前の講義が押しちゃって慌てて階段上がってたらバランス崩しちゃって…。冬威…ありがとう…。でもどうしてここがわかったの?」
訝しがる卯月を階下に配置してあるビニール製のソファーに座らせると転げ落ちた杖を拾い卯月の傍らに置く冬威。
「卯月先輩、資料かして、俺が届けて来るから」
そう言うと卯月から資料を受け取り階段の上に消えて行く冬威。
ほどなく冬威が卯月のそばに駆け戻る。
「先輩っ、資料せんせに渡してきたよっ。もう心配ない。立てる? どこか打ってない? 痛いところない?」
冬威は卯月の前にしゃがみ込んで次々と質問する。
「冬威…大丈夫よ、あなたがうまく受け止めてくれたからどこも打ってないし痛いところもないよ、冬威こそ大丈夫?」
そう言う卯月の目は潤み、今にも泣きだしそうになっている。
「俺は大丈夫だよ、でも良かった…間に合って本当に良かった…」
そう言うと卯月の両肩を優しくしかし、しっかりと掴む。
冬威の目にも安堵の光とは違った光が宿されていた。
「な~に! 冬威まで涙ぐんじゃって! もうっ来世の卯月の旦那様がそんな泣き虫じゃ困るよっ」
緊張感から解き放たれた卯月と冬威は感情の高まりを抑えられないでいたが、そんな緊張を解きほぐすように卯月が明るく言い冬威を軽く抱きしめる。
「ははっほんとだね卯月先輩」
「冬威…本当にありがとう…。冬威がいなかったら今頃…。それにあのままふたり一緒に落ちちゃったかもしれないのに…無茶して…」
「卯月先輩気にしない気にしない! 俺は今日の日のために生きて来たんだからさっ」
おどける冬威。
「またそんなこと言って! もうこれっきり…見たいな言い方しないで…」
卯月が淋しげな顔をする。
「卯月先輩っ、これからも見守りつづけますよ~来世に向けてねっ!」
そんな冬威の言葉に卯月が声を出して笑い冬威もつられて笑う。
「さっ先輩教室行こう!」
「うん…」
卯月が杖を持ち立ち上がる。
冬威は階段を昇る卯月のそばで見守りいつものように見送った。
そんなふたりを研究棟の外から見つめる由起。
『冬威…』
押し潰れそうな胸を自ら抱き、冬威の目に映らない様物陰に身を潜める。
「卯月先輩、またね!」
「冬威、またね」
冬威は卯月に手を振り別れた後、周囲を見渡した。
由起の姿を探していたのである。
そんな冬威の姿を見て由起が物陰にサッと隠れる。
『気になることだらけでどんな顔をして冬威に会ったらいいかわかんない…』
戸惑う由起。
ひとしきり由起の姿を探った冬威は、由起が講義室に移ったと判断しその場を離れる。
『冬威…行った…。どうしよう…。何も知らなかったふりをして後から講義受けに行く? それともさっきはどうしたの? って思い切って聞いてみる?」
逡巡する由起。
その頃冬威は由起の姿を探しながら一方では安堵に胸を撫で下ろしていた。
『場所が違った…。何でそんなことが起こるのかは理解できないけど…。でももしかしたら他のことでも同様の差が生じるかも。例えば場所だけでなく時間とか。あらゆる仮説を立てて行動しないと…。だけどひとまず今度は卯月先輩を救えた…。今はそれだけでいい』
冬威が思いを巡らせる。
「疲れた…それに腕が…体が痛い」
そう小さく呟くと講義室には向かわず体育館脇のベンチの方に向きを変えた。
卯月を受け止めた衝撃で体を痛めた冬威。
『由起はたぶん急に姿を消した俺のことを心配している。下手するとさっきの光景を見て何か勘違いしてるかもしれない…。早く会って安心させてあげなくちゃ…』
そう思いながらも痛みから体育館脇のベンチに横たわる冬威。
「おや? 冬威君どしたの?」
素っ頓狂な声で冬威に問いかける声。
「あら、ほんとに冬威君だ、どした?」
その声は一つでなく人影は3つ。
「こんちは! 大丈夫ちょっと疲れただけだから」
冬威が人影に向かって答える。
冬威が返答したのは構内を清掃する年配の女性たちであった。
この場所を清掃する女性たちとも声を掛け合ううちにすっかり顔見知りになっている冬威であった。
「どこかぶったのかい?」
「痛いなら保健室連れてくよ?」
心配げに冬威を窺う。
「大丈夫だよ、それにもう授業に行かなくちゃ」
「そうかい? なんかあったらおばちゃん達に言うんだよ」
「ありがとう!」
冬威がそう言うと年配の女性たちは空き教室の掃除へと向かった。
『だけど…ちょっと無理っぽいな…いったん戻ってまたここに来よう。それで由起のフォローをする。それまでここで休んでてくれ。次は講義に行くところに帰ってきて帳尻を合わせるから』
心の中で呟くと腕時計のアラームを操作する。
『今は…201x年5月6日10時50分か…これはメモリーして。それでアラームは…201x年5月…10時…で』
時計を操作し終わった冬威は体の痛みからぐったりと意識を失ったように横たわる。
冬威の意識が遠のいていく…。
一瞬間の前が真っ暗になった冬威であったがその意識を引き戻したのは他でもない由起の呼び声だった。
「冬威! 冬威ってば美夏ちゃん美優ちゃん見えなくなっちゃったよ! 私たちも早くいこっ!」
ぼうっとする意識が徐々に蘇って行く。
目を開けた冬威の前に由起の姿があった。